2012年10月7日日曜日

ペーター・グスタフ・ディリクレ

ペーター・グスタフ・ディリクレ(1805年~1859)

ヨハン・ペーター・グスタフ・ルジューヌ・ディリクレはドイツの数学者です。


■フェルマーの最終定理の研究

「フェルマーの最終定理」(3以上の自然数nについて、x^n + y^n = z^nとなる0でない自然数x、y、zの組み合わせは存在しない)について、n=4 の場合はピエール・ド・フェルマー自身が1640年に証明をし、n=3 の場合はスイスの数学者レオンハルト・オイラーが1770年に証明を公表していました。
n = 5 の場合について、ディリクレは1828年に部分的な証明を与えました。この証明はフランスの数学者アドリアン=マリ・ルジャンドルが完成させましたが、ディリクレも自分の証明を完成させています。
ディリクレは後に n = 14 の場合の完全な証明も行なっています。


★備考

Johann Peter Gustav Lejeune Dirichlet
生没年:1805年2月13日~1859年5月5日
生まれ:ドイツ
妻:レベッカ・メンデルスゾーン・バルトルディ

2012年9月19日水曜日

ボヤイ・ヤーノシュ

ボヤイ・ヤーノシュ(1802年~1860年)

ボヤイ・ヤーノシュはハンガリーの数学者です。非ユークリッド幾何学の研究で知られています。


■平行線公準

ヤーノシュの父であるボヤイ・ファルカシュも数学者で、ファルカシュは平行線公準の証明に取り組んでいましたが、証明はできずに終わりました。
父の影響を受けたヤーノシュも平行線公準の研究に取り組みますが、それを知ったファルカシュは平行線公準に関わるのはやめるように息子に助言します。父親の助言を受け入れなかったヤーノシュは平行線公準の研究を続け、1832年には父ファルカシュが発行した教科書の付録として、ヤーノシュの研究の結果が収録されました。


★ボヤイ・ヤーノシュに関する雑学

・ボヤイ・ヤーノシュ国際数学賞

1902年にボヤイ・ヤーノシュ生誕100周年を記念して設立された数学賞です。ハンガリー科学アカデミーより授与されます。


★備考

Bolyai Ja'nos
生没年:1802年12月15日~1860年1月27日
生まれ:ハンガリー
父:ボヤイ・ファルカシュ(Bolyai Farkas)、数学者

2012年9月11日火曜日

ニールス・ヘンリック・アーベル

ニールス・ヘンリック・アーベル(1802年~1829年)

ニールス・ヘンリック・アーベルはノルウェーの数学者です。
5次以上の代数方程式の不可解性や楕円関数の研究で知られています。


■5次以上の代数方程式の不可解性

4次までの代数方程式については当時までに一般的な解の公式が得られていましたが、5次方程式については数学者達による長年の研究にもかかわらず一般的な解は得られないままでいました。
アーベルは5次以上の代数方程式について、冪根と四則演算だけで表せるような一般的な解の公式は存在しないことを証明しました。


★ニールス・ヘンリック・アーベルに関する雑学

2001年にノルウェー政府は大きな業績を上げた数学者に対して贈る賞として、アーベル賞を創設しました。


★備考

Niels Henrik Abel
生没年:1802年8月5日~1829年4月6日
生まれ:ノルウェー、フィンドー

2012年9月5日水曜日

ガブリエル・ラメ

ガブリエル・ラメ(1795年~1870年)

ガブリエル・ラメはフランスの数学者です。フェルマーの最終定理の研究で知られています。


■フェルマーの最終定理の研究

フェルマーの最終定理「3 以上の自然数 n について、x^n + y^n = z^n となる 0 でない自然数 x、y、z は存在しない」について、n = 4 の場合はピエール・ド・フェルマー自身が1640年に証明をし、n = 3 の場合はスイスの数学者レオンハルト・オイラーが1770年に証明を公表していました。n = 5 の場合については1825年にフランスの数学者アドリアン=マリ・ルジャンドル、1828年にドイツの数学者ヨハン・ペーター・グスタフ・ルジューヌ・ディリクレが独立して証明を与えています。

このフェルマーの最終定理について、ラメは1839年に n = 7 の場合に正しいことを証明しました。
ラメはその数年後にフェルマーの最終定理を近いうちに証明すると宣言しますが、パリの数学者コーシーがラメと同様の方法で証明に取り組んでいることを述べます。
その後ラメとコーシーの証明方法には間違いがあることがドイツの数学者エルンスト・クンマーによって明らかになりました。


★ガブリエル・ラメに関する雑学

・エッフェル塔
エッフェル塔には、フランスの科学に貢献した72人の科学者の名前が刻まれていますが、その中にはラメの名も含まれています。


★備考

Gabriel Lame'
生没年:1792年3月7日~1871年5月11日
生まれ:フランス、トゥール

2012年8月30日木曜日

チャールズ・バベッジ

チャールズ・バベッジ(1791年~1871年)

チャールズ・バベッジは、イギリスの数学者です。計算機の設計の研究で知られています。


■自動計算機

当時の科学計算に用いる対数表や三角関数表は、70~80人の人の手によって計算されて作られていました。しかし人による計算だと多くの誤りが含まれてしまうことから、バベッジは機械的な計算は機械にやらせれば素早く間違いのない計算結果が得られると考えました。

1822年にはバベッジは王立天文学会で階差機関の構想を発表し、その後イギリス政府から1万7千ポンドの資金援助を受けます。しかしバベッジは新しい考えを思いつく度にそれまでの研究物を反故にしたり技師への給料の支払いが遅れたりといったことがあったため、信用を失い資金の援助は打ち切られてしまいました。

その後ロマン派の詩人ジョージ・バイロンの娘で数学愛好家であるオーガスタ・エイダ・キングがバベッジの解析期間の論文に感激し、解説を付けてフランス語に翻訳をしました。
バベッジの亡くなった翌年には息子のヘンリーが解析機関の一部を完成させ、現在はロンドンの国立科学産業博物館に展示されています。


★チャールズ・バベッジに関する雑学

月にあるクレーターには、バベッジにちなんで名前がつけられたものもあります。


★備考

Charles Babbage
生没年:1791年12月26日~1871年10月18日
生まれ:イギリス
父:ベンジャミン・バベッジ(Benjamin Babbage)、銀行家
母:ベッツィー・バベッジ (Betsy Plumleigh Babbage)
妻:ジョージアナ・ホイットモア(Georgiana Whitmore)
息子:ヘンリー・プレヴォスト・バベッジ

2012年8月23日木曜日

ニコライ・イワノビッチ・ロバチェフスキー

ニコライ・イワノビッチ・ロバチェフスキー(1792年~1856年)

ニコライ・イワノビッチ・ロバチェフスキーロシアの数学者です。非ユークリッド幾何学の研究で知られています。


■非ユークリッド幾何学

ユークリッド幾何学には5つの公準がありますが、第5公準と呼ばれるものは以下のようなものでした。

「与えられた直線上にないある1点を通って、それに平行な直線はただ1本だけ引くことができる」

数学者たちの間ではこの第5公準は他の定義や公理、公準から証明できるのではないかと考えられていたのですが、証明に成功した数学者はいませんでした。

この第5公準について、ロバチェフスキーは「第5公準がなくても幾何学が成立するのではないか」と考え、研究に取り組みました。彼は「与えられた直線上にないある1点を通って、それに平行な直線は少なくとも2本引くことができる」としました。


★ニコライ・イワノビッチ・ロバチェフスキーに関する備考

Nikolai Ivanovich Lobachevsky
生没年:1792年12月1日~1856年2月24日
生まれ:ロシア
父:不明
母:不明
主な著書:1836年『想像の幾何学』

2012年8月20日月曜日

オーギュスタン=ルイ・コーシー

オーギュスタン=ルイ・コーシー(1789年~1857年)

オーギュスタン=ルイ・コーシーはフランスの数学者です。
コーシーは800近くという膨大な数の論文を書いており、1876年からは『コーシー全集』として論文集が編集されました。この『コーシー全集』は1882年から1974年に渡り刊行されました。


■コーシー列

任意の ε>0 に対して、ある自然数 N が存在して、n≧N 、 m≧N となる任意の n 、 m に対して

 | a(n) - a(m) | < ε

が成り立つとき、数列 {a(n)} をコーシー列といいます。


★オーギュスタン=ルイ・コーシーに関する雑学

エッフェル塔にはフランスの科学に貢献した72人の科学者の名前が刻まれていますが、その中にはコーシーの名も含まれています。


★オーギュスタン=ルイ・コーシーに関する備考

Augustin Louis Cauchy
生没年:1789年8月21日~1857年5月23日
生まれ:フランス、パリ
父:不明
母:不明
妻:アロイズ・ド・ビュール(Aloise de Bure)
主な著書:1821年『解析教程』(Cours d'analyse de l'Ecole royale polytechnique)

2012年8月17日金曜日

ジャン=ヴィクトル・ポンスレ

ジャン=ヴィクトル・ポンスレ(1788年~1867年)

ジャン=ヴィクトル・ポンスレはフランスの数学者、工学者です。

ポンスレは1812年のナポレオンのロシア遠征に参加しますが、ロシア軍の捕虜となってしまいます。収容所でポンスレは射影幾何学を研究し、後に『解析学と幾何学の応用』を著すことになります。


■仕事率の単位「ポンスレ」

19世紀のフランスで用いられた仕事率の単位として「ポンスレ」(poncelet)がありますが、これはジャン=ヴィクトル・ポンスレにちなんで名付けられたものです。
1ポンスレは、1秒間につき1キンタル(100キログラム)の重量のものを、垂直に1メートル持ち上げるときの仕事率と定義されています。


★ジャン=ヴィクトル・ポンスレに関する雑学

・エッフェル塔
エッフェル塔には、フランスの科学に貢献した72人の科学者の名前が刻まれていますが、その中にはポンスレの名も含まれています。


★ジャン=ヴィクトル・ポンスレに関する備考

Jean-Victor Poncelet
生没年:1788年7月1日~1867年12月22日
生まれ:フランス、メス
父:クロード・ポンスレ(弁護士)
母:不明
主な著書:1822年、1862年~1864年『解析学と幾何学の応用』(Applications d'analyse et de ge'ome'trie)

2012年8月14日火曜日

アウグスト・レオポルド・クレレ

アウグスト・レオポルド・クレレ(1780年~1855年)

アウグスト・レオポルド・クレレはドイツの土木技師です。アマチュアの数学者でもあり、数学雑誌『純粋・応用数学雑誌』(通称『クレレ誌』)を発刊しました。
ノルウェーの数学者ニールス・ヘンリック・アーベルの支援者としても知られています。


■アーベルの論文

1825年に、クレレの元をアーベルが訪れました。クレレは数学の話でアーベルと意気投合し、1826年にクレレが創刊した数学雑誌『純粋・応用数学雑誌』にアーベルの数学論文を何本も掲載することになります。
創刊号にはアーベルの論文が6本も掲載されていましたが、このうちの1本が一般的な5次方程式の代数的解法の不可能性についての論文でした。

クレレはアーベルの数学的才能を見抜きベルリン大学の数学教授に推薦をする活動もしていましたが、ベルリン大学への採用通知が届いたのはアーベルの死後のことでした。アーベルは1829年4月6日に病死してしまいますが、その2日後の4月8日にベルリン大学への採用通知がクレレから届いたのです。


★アウグスト・レオポルド・クレレに関する備考

August Leopold Crelle
生没年:1780年3月17日~1855年10月6日
生まれ:ドイツ
父:不明
母:不明

2012年8月11日土曜日

ヨハン・カール・フリードリヒ・ガウス

ヨハン・カール・フリードリヒ・ガウス(1777年~1855年)

ヨハン・カール・フリードリヒ・ガウスはドイツの数学者、天文学者、物理学者です。
代数学の基本定理など、非常に多くの功績を残したことで知られています。


■和の計算

ガウスが小学生の頃、学校で教師が1から100までの自然数の和を計算せよとの問題を出題しました。
普通の子供たちはこの問題を1から順番に足していくところですが、ガウスはこの問題を、

1 + 100 = 101、2 + 99 = 101、3 + 98 = 101 …… 50 + 51 = 101

のように数を組み合わせ、101が50個だから5050だと計算したといわれています。


■正17角形の作図可能性

定規とコンパスによる正多角形の作図問題は、古代ギリシャから研究されてきた数学的問題でした。正三角形と正五角形については作図できることが分かっていましたが、ガウスは新たに正17角形が作図できることを発見しました。このことがガウスが数学の道に進むきっかけになったといわれています。
この発見は1796年3月30日に行われましたが、この日からガウスは数学的発見を日記につけ始めます。この日記はガウスの死後43年経ってから、学会に公表されました。

またガウスは正17角形を自分の墓標に刻むように希望しましたが、結局実現しませんでした。ガウスの記念碑には正17角形が刻まれています。


■代数学の基本定理

「複素数係数の任意のn 次代数方程式は、複素数の根をちょうど n 個持つ」という定理を、代数学の基本定理と呼びます。
この定理の完全な証明は、ガウスが1799年に与えました。


★ヨハン・カール・フリードリヒ・ガウスに関する雑学

・10マルク紙幣

1989年から2001年までの10ドイツマルク紙幣には、ガウスの肖像画、正規分布曲線の図と式が描かれていました。

・ガウス賞

ガウス賞は、2002年にガウスの生誕225周年を記念してドイツ数学会と国際数学連合が共同で設けた賞です。

・小惑星ガウシア

クリミア半島のシメイズ天文台でソビエト連邦の天文学者セルゲイ・ベリャフスキーによって発見された小惑星ガウシアは、ガウスにちなんで命名されました。


★ヨハン・カール・フリードリヒ・ガウスに関する備考

Carolus Fridericus Gauss
生没年:1777年4月30日~1855年2月23日
生まれ:ブラウンシュヴァイク
父:不明
母:不明
妻:ヨハンナ・オストホフ
長男:ヨゼフ
長女;ヴィルヘルミーナ
次男:ルイス
妻:フリーデリカ・ヴィルヘルミーネ・ヴァルトエック
長男:オイゲネ
次男:ヴィルヘルム
長女:テレーズ

2012年8月8日水曜日

マリー=ソフィー・ジェルマン

マリー=ソフィー・ジェルマン(1776年4月1日~1831年6月27日)

マリー=ソフィー・ジェルマンは、フランスの女性数学者です。フェルマーの最終定理の研究で知られています。


■ル・ブラン

パリの高等理工科学校エコール・ポリテクニクでは、男性しか入学を許されていませんでしたが、ジェルマンはアントワーズ・オーギュスト・ル・ブランという男性の名前を借りて入学します。
この学校ではイタリアの数学者ジョゼフ=ルイ・ラグランジュも講座を担当していましたが、ある時ラグランジュはジェルマンの優秀な解答に目を留めます。このことがきっかけでジェルマンが女性であったことが知られてしまいますが、ラグランジュはジェルマンが女性であることに驚きながらも彼女の勉学の手助けをしたといわれています。

この後ジェルマンは未解決の問題であったフェルマーの最終定理の研究をし、ドイツの数学者ヨハン・カール・フリードリヒ・ガウスと文通を始めます。このガウスとの文通でも、ジェルマンはル・ブランの名前を使っていました。
1806年にナポレオンがドイツに攻め込むと、ガウスの安全を心配したジェルマンはフランス軍の将軍にガウスの安全を保証してくれるようにたのみます。この時にジェルマンの正体がガウスに知られることになります。


■ソフィー・ジェルマン素数

2p + 1 が素数となるような素数p のことを、ソフィー・ジェルマン素数と呼びます。2p + 1 については安全素数と呼びます。
最も小さいソフィー・ジェルマン素数はは 2 であり、ソフィー・ジェルマン素数が無数に存在するかどうか分かっていません。


■ソフィー・ジェルマンの定理

「ソフィー・ジェルマン素数(2p + 1 が素数であるような素数 p)について、x^p + y^p = z^p が成り立つとき、x、y、z のいずれかが p で割り切らねばならない」
この定理をソフィー・ジェルマンの定理と呼びます。


★マリー=ソフィー・ジェルマンに関する雑学

古代ギリシアの数学者アルキメデスは、地面に描いた幾何学図形に夢中になっていて敵国の兵士に従わず、そのことが原因で命を絶たれてしまいました。
フランスの数学者ジャン・エティエンヌ・モンテュクラは著書の『数学史』においてこのアルキメデスの逸話を紹介しましたが、これを読んだジェルマンはアルキメデスの最期に感激し、数学を学ぶ決意をしたといわれています。


★マリー=ソフィー・ジェルマンに関する備考

Marie Sophie Germain
生没年:1776年4月1日~1831年6月27日
生まれ:フランス、パリ
父:アンブロワーズ・フランソワ・ジェルマン
母:不明

2012年8月3日金曜日

ボヤイ・ファルカシュ


ボヤイ・ファルカシュ(1775年~1856年)

ボヤイ・ファルカシュは、ハンガリーの数学者、詩人です。


■平行線公準

古代ギリシャの数学者ユークリッドが『原論』において述べた幾何学に関する公理・公準の中に、後に「第5公準」と呼ばれるようになった以下のものがあります。

公準5
一本の直線が他の二直線と交わり、同じ側にある内角の和が二直角より小さい場合は、これらの二直線を限りなく延長すれば内角の和が二直角よりも小さい側で交わる

これは後にスコットランドの数学者ジョン・プレイフェアにより「直線以外の一点を通り、その直線と平行な直線は一本しか引けない」と扱いやすい形に書き直され、「平行線公準」と呼ばています。
この平行線公準についてファルカシュはドイツの数学者ヨハン・カール・フリードリヒ・ガウスと共に研究をしましたが、証明はできずに終わりました。
その後ファルカシュの息子のボヤイ・ヤーノシュも平行線公準の研究に取り組んでいます。


★ボヤイ・ファルカシュに関する雑学

1937年11月26日にハンガリーの天文学者クリン・ジェルジュがブダペストで発見した小惑星ボーヤイは、ボヤイ・ファルカシュの名にちなんで命名されました。


★ボヤイ・ファルカシュに関する備考

Bolyai Farkas
生没年:1775年2月9日~1856年11月21日
生まれ:ルーマニア
父:不明
母:不明
息子:ボヤイ・ヤーノシュ

2012年7月30日月曜日

アンドレ=マリ・アンペール

アンドレ=マリ・アンペール(1775年~1836年)

アンドレ=マリ・アンペールは、フランスの物理学者、数学者です。
電流の単位である「アンペア」は、アンペールの法則を発見したアンペールの名にちなんだものです。


★アンドレ=マリ・アンペールに関する雑学

・エッフェル塔
エッフェル塔には、フランスの科学に貢献した72人の科学者の名前が刻まれていますが、その中にはアンペールの名も含まれています。

・アンペールの墓
アンペールはパリのモンマルトル墓地に埋葬されました。アンペールの墓には2人の人物のレリーフが彫られており、左がアンペールであると言われています。


★アンドレ=マリ・アンペールに関する備考

Andre-Marie Ampere
生没年:1775年1月20日~1836年6月10日
生まれ:フランス、リヨン
父:不明
母:不明
妻:ジュリー・カロン
息子:ジャン=ジャック・アンペール
妻:ジャンヌ・フランソワーズ・ポト
娘:アルビヌ・アンペール
主な著書:1802年『ゲームの数学理論』

2012年7月26日木曜日

ジャン・バティスト・ジョゼフ・フーリエ

ジャン・バティスト・ジョゼフ・フーリエ(1768年~1830年)

ジャン・バティスト・ジョゼフ・フーリエは、フランスの数学者、物理学者です。
フーリエは1749年にエコール・ノルマル・シュペリエールの第一期生として入学し、その後同じフランスの数学者ガスパール・モンジュの勧めでエコール・ポリテクニークで数学教師となりました。


■ナポレオンのエジプト遠征

フーリエはモンジュや化学者のクロード・ベルトレら約180人の学者と共に、ナポレオンのエジプト遠征に随行しています。ナポレオンがカイロに学士院を作った際には、フーリエが院長を努めました。


★ジャン・バティスト・ジョゼフ・フーリエに関する雑学

・ロゼッタストーン
ナポレオンのエジプト遠征時、ナイル河口のロゼッタの近くで石版が発見されました。これはロゼッタストーンと呼ばれるもので、フーリエはこの石版に刻まれた文字の解読を試みるものの失敗に終わっています。
その後フーリエのサロンにジャン・J・シャンポリオンとジャン・F・シャンポリオンの兄弟が訪れた際に、フーリエは彼らにロゼッタストーンの拓本を見せました。フーリエから3通りの書体で刻まれたもののうちの1つが未解読であることを聞いた弟のシャンポリオンは、自分がそれを読んでみせると告げました。その後1822年にシャンポリオンは解読に成功しています。

・月のクレーター
月の表にあるクレーターには、フーリエにちなんで名づけられたものがあります。


★ジャン・バティスト・ジョゼフ・フーリエに関する備考

Jean Baptiste Joseph Fourier
生没年:1768年3月21日~1830年5月16日
生まれ:フランス、オセール
父:不明
母:不明
主な著書:1822年『熱の解析的理論』

2012年7月23日月曜日

ジャン=ロベール・アルガン

ジャン=ロベール・アルガン(1768年~1822年)

ジャン=ロベール・アルガンはフランスの会計士です。趣味で数学を楽しむアマチュア数学者でしたが、複素平面の最初の公表者として知られています。


■複素平面

xy平面上において、x 軸を実軸、y 軸を虚軸として、複素数 x + iy を表せるようにしたものを複素平面と呼びます。

複素平面はガウスの業績として広く知られていますが、1797年にノルウェーの測量技師カスパー・ヴェッセルが『方程式の解析的表現について』という論文の中で、複素平面のアイデアを述べています。しかしこの論文はデンマーク語で書かれていたために、広く世に知られることはありませんでした。

その後1806年にアルガンが自費出版の冊子『幾何学的作図によって虚量を表す方法についての試論』の中で複素平面のアイデアを発表し、フランスの数学者アドリアン=マリ・ルジャンドルを通して広まりました。
更に後にはドイツの数学者カール・フリードリッヒ・ガウスが複素平面を本格的に論じたことにより、複素平面は広く知られるようになりました。
複素平面は、ガウス平面やアルガン図とも呼ばれています。


★ジャン=ロベール・アルガンに関する備考

Jean Robert Argand
生没年:1768年7月18日~1822年8月13日
生まれ:スイス、ジュネーヴ
父:不明
母:不明
主な著書:『幾何学的作図によって虚量を表す方法についての試論』

2012年7月20日金曜日

パオロ・ルフィニ

パオロ・ルフィニ(1765年~1822年)

パオロ・ルフィニはイタリアの医者、数学者です。


■5次方程式の不可解性

5次方程式の解の公式については多くの数学者たちが発見しようと研究を続けていましたが、ルフィニは一般的な5次方程式は加減乗除と累乗根の操作では解けないことを証明した、と主張しました。

この証明は1799年の『方程式の一般理論』という著書に掲載されましたが、ルフィニの証明は難解で回りくどかったために数学界には受け入れられませんでした。ルフィニは自分の本をイタリアの数学者ジョゼフ=ルイ・ラグランジュに送り何度か意見を求めたのですが、ラグランジュからの返事はありませんでした。
そのためルフィニは証明を分かりやすく書き直して公表し、何人かの数学者と証明について議論をし、1813年には『一般代数方程式の解法についての考察』という論文を出版します。しかしそれでも数学界の反応は薄いままでした。5次方程式が公式で解けないという考えは、当時はまだ受け入れがたいものだったのです。

ルフィニの証明を評価した人物としては、フランスの数学者オーギュスタン=ルイ・コーシーがいます。
ルフィニの証明には欠陥があったのですが、5次方程式の解法に関する味方に大きな影響を残しました。


★パオロ・ルフィニに関する雑学

ベルギーの天文学者エリック・ヴァルター・エルストが発見した小惑星は、ルフィニの名に因んでパオロ・ルフィニと命名されました。この惑星はチリのヨーロッパ南天天文台で発見されました。


★パオロ・ルフィニに関する備考

Paolo Ruffini
生没年:1765年9月22日~1822年5月10日
生まれ:イタリア、ヴァレンティノ
父:バジリオ・ルフィニ
母:マリア・フランチェスカ・イッポリティ
主な著書:1799年『方程式の一般理論』

2012年7月16日月曜日

クリスティアン・クランプ

クリスティアン・クランプ(1760年~1862年)

クリスティアン・クランプはフランスの数学者です。クランプは医学を学びましたが、後に数学の教授となっています。


■階乗記号「!」

自然数について、1 から n までの数を全て乗じたもの、つまり

n × (n-1) × (n-2) × …… × 3 × 2 × 1

のことを「n の階乗」といい、「n!」で表します。

階乗の考え方自体は既に知られていましたが、階乗の記号として初めて「!」を用いたのはクランプとなります。
元々は別の表記法がありましたが、印刷をする上で新しい記号ではなく既存の記号を用いる方が良かったために「!」が採用されたといわれています。
「!」が選ばれた理由としては、階乗では n が大きくなるにつれて驚くほど数が増えていくために「!」が用いられた、という説があります。


★クリスティアン・クランプに関する備考

Christian Kramp
生没年:1760年7月8日~1862年5月13日
生まれ:フランス
父:不明
母:不明

2012年7月13日金曜日

ラザール・ニコラ・マルグリット・カルノー

ラザール・ニコラ・マルグリット・カルノー(1753年~1823年)

ラザール・ニコラ・マルグリット・カルノーはフランスの政治家、数学者です。王立工兵士官学校において、同じフランスの数学者ガスパール・モンジュに数学の教えを受けました。
カルノーは数学者としてよりも政治家として有名で、フランス革命期には大きな政治的功績を上げたことで知られています。またカルノーの子孫は、色々な分野で業績を残しています。


■カルノーの定理

三角形ABCの外接円の中心をO、外接円の半径をR、内接円の半径をr、Dから辺BC、CA、ABの下ろした垂線の足をそれぞれD、E、Fとしたとき、

|OD| + |OE| + |OF| = R + r

が成り立ちます。
これをカルノーの定理と呼びます。


★ラザール・ニコラ・マルグリット・カルノーに関する雑学

・エッフェル塔
エッフェル塔には、フランスの科学に貢献した72人の科学者の名前が刻まれていますが、その中にはカルノーの名も含まれています。


★ラザール・ニコラ・マルグリット・カルノーに関する備考

Lazare Nicolas Marguerite Carnot
生没年:1753年5月13日~1823年8月2日
生まれ:フランス、ブルゴーニュ地方、ノレー
父:不明
母:不明
妻:ソフィー
長男:ニコラ・レオナール・サディ・カルノー(物理学者)
次男の子:ラザール・イポリット・カルノー(政治家)
孫:マリー・アドルフ・カルノー(化学者)
主な著書:『無限小算法についての形而上学的考察』、『位置の幾何学について』

2012年7月11日水曜日

アドリアン=マリ・ルジャンドル

アドリアン=マリ・ルジャンドル(1752年~1833年)

アドリアン=マリ・ルジャンドルはフランスの数学者です。


■フェルマーの最終定理

「フェルマーの最終定理」(3以上の自然数nについて、x^n+y^n=z^nとなる0でない自然数x、y、zの組み合わせは存在しない)について、n=4 の場合はピエール・ド・フェルマー自身が1640年に証明をし、n=3 の場合はスイスの数学者レオンハルト・オイラーが1770年に証明を公表していました。

ルジャンドルは1825年にフェルマーの最終定理の n = 5 の場合の証明を与えました。
ドイツの数学者ヨハン・ペーター・グスタフ・ルジューヌ・ディリクレも1828年にほぼ同じ証明を、ルジャンドルとは独立に行なっています。

■ルジャンドルの記号

a と p が互いに素であるとき、合同式

x^2 ≡ a (mod p)

が解を持つとき、 a は p を法として平方剰余でいい、
解を持たないときは平方非剰余であるといいます。

ここで

pの倍数でない x が p を法として、平方剰余ならば (x/p) = 1
x が p の倍数ならば (x/p) = 0
pの倍数でない x が p を法として、平方非剰余ならば (x/p) = -1

このように定義される (x/p) を、ルジャンドルの記号といいます。


★アドリアン=マリ・ルジャンドルに関する雑学

・エッフェル塔
エッフェル塔には、フランスの科学に貢献した72人の科学者の名前が刻まれていますが、その中にはルジャンドルの名も含まれています。


★アドリアン=マリ・ルジャンドルに関する備考

Adrien-Marie Legendre
生没年:1752年9月18日~1833年1月10日
生まれ:フランス、パリ
父:不明
母:不明

2012年7月8日日曜日

ピエール=シモン・ラプラス

ピエール=シモン・ラプラス(1749年~1827年)

ピエール=シモン・ラプラスはフランスの数学者です。ラプラス変換の発見者として知られています。


■決定論

ラプラスは著書の『確率論の解析理論』において、「ある瞬間の全ての物質の状態が分かれば、その後に起こる全ての現象は事前に計算できる」との考えを述べました。


★ピエール=シモン・ラプラスに関する雑学

・ナポレオンとの会話
当時のフランス皇帝ナポレオンは献上されたラプラスの著書『天体力学概論』について、「神について書かれていないではないか」と問いました。それに対しラプラスは「陛下、私には神という仮説は必要ないのです」と答えたという逸話があります。

・エッフェル塔
エッフェル塔には、フランスの科学に貢献した72人の科学者の名前が刻まれていますが、その中にはラプラスの名も含まれています。


★ピエール=シモン・ラプラスに関する備考

Pierre-Simon Laplace
生没年:1749年3月23日~1827年3月5日
生まれ:フランス、フランス、ノルマンディ、ボーモン・タン・オージュ
父:不明
母:不明
主な著書:『天体力学概論』、『確率論の解析理論』

2012年7月5日木曜日

ジャン=バティスト・ジョゼフ・ドランブル

ジャン=バティスト・ジョゼフ・ドランブル(1749年~1822年)

ジャン=バティスト・ジョゼフ・ドランブルは、フランスの数学者、天文学者です。


■ドランブルの公式

球面三角法の公式として、以下のドランブルの公式があります。

cos{(A+B)/2}cos(c/2) = cos{(a+b)/2}sin(C/2)
sin{(A+B)/2}cos(c/2) = cos{(a-b)/2}cos(C/2)
cos{(A-B)/2}sin(c/2) = sin{(a+b)/2}sin(C/2)
sin{(A-B)/2}sin(c/2) = sin{(a-b)/2}cos(C/2)


★ジャン=バティスト・ジョゼフ・ドランブルに関する備考

Jean-Baptiste Joseph Delambre
生没年:1749年9月19日~1822年8月19日
生まれ:フランス、アミアン
父:不明
母:不明
主な著書:『天文学史』(Histoire de l'astronomie)

2012年7月2日月曜日

ジョン・プレイフェア

ジョン・プレイフェア(1748年~1819年)

ジョン・プレイフェアはスコットランドの数学者です。ユークリッドの第5公準を、扱いやすい形に書き換えたことで知られています。


■ユークリッドの第5公準

古代ギリシャの数学者ユークリッドは、著書『原論』において、幾何学に関する公理と公準をいくつか示しましたが、その中の第5公準と呼ばれる以下のものがありました。

公準5
一本の直線が他の二直線と交わり、同じ側にある内角の和が二直角より小さい場合は、これらの二直線を限りなく延長すれば内角の和が二直角よりも小さい側で交わる

この第5公準は他のものと比べて長く分かりにくくなっており、公理や他の4つの公準を用いて証明できるのではないかといった見方もなされていたのです。
ここでプレイフェアは、1795年の著書『Elments of geometry』において、この第5公準を

「直線以外の一点を通り、その直線と平行な直線は一本しか引けない」

と、より扱いやすい形に書き改めました。
第5公準をこの形にしたものは「平行線公準」、「プレイフェアの公理」とも呼ばれています。


★ジョン・プレイフェアに関する備考

John Playfair
生没年:1748年3月10日~1819年7月20日
生まれ:スコットランド、ベンヴィ
父:不明
母:不明
主な著書:1795年『Elments of geometry』

2012年6月28日木曜日

ガスパール・モンジュ

ガスパール・モンジュ(1746年~1818年)

ガスパール・モンジュは、フランスの数学者です。画法幾何学の創始者として知られています。


★ガスパール・モンジュに関する雑学

・蜃気楼

モンジュは1798年のナポレオンのエジプト遠征に同行しました。この時に砂漠の蜃気楼の原因解明を後に行ったことが知られています。
また「mirage」という単語は、ナポレオン遠征時にモンジュが命名したという説もあります。

・エッフェル塔
エッフェル塔には、フランスの科学に貢献した72人の科学者の名前が刻まれていますが、その中にはモンジュの名も含まれています。

・ミサイル追跡艦
フランス海軍のミサイル追跡艦にはモンジュという名のものがありますが、これはガスパール・モンジュにちなんで名付けられました。


★ガスパール・モンジュに関する備考

Gaspard Monge
生没年:1746年5月9日~1818年7月28日
生まれ:フランス、ブルゴーニュ、コート=ドール県、ボーヌ
父:ジャック・モンジュ
母:不明
弟:ルイ、ジャン
主な著書:1799年『画法幾何学』(Geometrie descriptive)、1804年『解析学の幾何学への応用』(Application de l'analyse a la geomerie)

2012年6月25日月曜日

ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ

ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ(1736年~1813年)

ジョゼフ=ルイ・ラグランジュは、イタリアの数学者です。フランスの理工系高等教育機関エコール・ポリテクニークの初代校長としても知られています。


■四平方定理

「全ての自然数は、高々四個の平方数の和で表される」という性質について、ラグランジュが証明をしたことから「ラグランジュの四平方定理」と呼ばれています。


■5次方程式

4次までの方程式については既に解法が見つかっていましたが、5次以上の方程式については長い間解法が見つからないままでした。
ラグランジュは5次方程式についての研究において、方程式がべき根によって解けるかどうかは解の置換に関する対称性によって決まる、ということを発見しました。


■ラグランジュの定理

群論において「有限群Gの部分群Hの位数は、Gの位数を割り切る」という定理は「ラグランジュの定理」と呼ばれています。
ラグランジュは代数方程式の解法について研究した際に、解の置換に関する対称性に着目してこの定理を証明しました。当時は群の概念はまだまとめられていなかったのですが、ラグランジュの考えは群論の先駆けとなるものでした。


★ジョゼフ=ルイ・ラグランジュに関する雑学

・歴史上の偉人たちとの関係
ラグランジュはマリー・アントワネットの数学教師でした。
またラグランジュについて、ナポレオン・ボナパルトは「数学界のピラミッド」、フリードリヒ2世は「ヨーロッパ最大の数学者」と讃えたといわれています。

・エッフェル塔
エッフェル塔には、フランスの科学に貢献した72人の科学者の名前が刻まれていますが、その中にはラグランジュの名も含まれています。


★ジョゼフ=ルイ・ラグランジュに関する備考

Joseph-Louis Lagrange
生没年:1736年1月25日~1813年4月10日
生まれ:イタリア、トリノ
父:不明
母:不明
主な著書:『解析力学』

2012年6月22日金曜日

エドワード・ウェアリング

エドワード・ウェアリング(1734年~1798年)

エドワード・ウェアリングはイギリスの数学者です。「ウェアリングの問題」の提唱者として知られています。「ウィルソンの定理」で知られるジョン・ウィルソンは、ウェアリングの弟子となります。


■ウェアリングの問題

ウェアリングは1770年に『Meditationes Algebraicae』を著しましたが、その中で

2以上の自然数に対して、
「全ての自然数は s 個の負でない k 乗数の和で表される」
という性質を満たす整数 s が存在するか

という問題を提示しました。
ウェアリング自身はこの問題に照明はつけなかったのですが、1909年にドイツの数学者ダフィット・ヒルベルトがこの問題を解決しました。


■対称式

任意の対称式は、基本対称式を用いて表すことができます。このことはウェアリングやフランスの数学者アレクサンドル=テオフィル・ヴァンデルモンドによって示されました


★エドワード・ウェアリングに関する備考

Edward Waring
生没年:1734年~1798年8月15日
生まれ:イングランド、シュロップシャー州オールド・ヒース
父:ジョン・ウェアリング
母:エリザベス
主な著書:1770年『Meditationes Algebraicae』

2012年6月19日火曜日

ヨハン・ハインリッヒ・ランベルト

ヨハン・ハインリッヒ・ランベルト(1728年~1777年)

ヨハン・ハインリッヒ・ランベルトは、ドイツの数学者です。ユークリッド幾何学の第5公準についての研究や、円周率が無理数であることを証明したことなどで知られています。


■円周率は無理数である

1761年、ランベルトは円周率が無理数であることを証明しました。円周率が無理数であることは紀元前にアリストテレスが予想していましたが、証明はランベルトによるものが初めてとなりました。
厳密な証明は1794年フランスの数学者アドリアン=マリ・ルジャンドル、円周率が超越数であることの証明は1881年ドイツの数学者フェルディナント・フォン・リンデマンによるものとなります。


ヨハン・ハインリッヒ・ランベルトに関する備考

Johann Heinrich Lambert
生没年:1728年8月26日~1777年9月25日
生まれ:フランス、アルザス、ミュールハウゼン
父:不明
母:不明
主な著書:『新オルガノン』

2012年6月15日金曜日

ジャン・エティエンヌ・モンテュクラ

ジャン・エティエンヌ・モンテュクラ(1725年~1799年)

ジャン・エティエンヌ・モンテュクラはフランスの数学者です。
1758年に『Histoire des mathematiques』(数学史)を著し、フランスにおける近代数学史に多大な貢献を残しました。


★ジャン・エティエンヌ・モンテュクラに関する雑学

古代ギリシアの数学者アルキメデスは、地面に描いた幾何学図形に夢中になっていて敵国の兵士に従わず、そのことが原因で命を絶たれてしまいました。
フェルマーの最終定理についての研究で知られるフランスの女性数学者ソフィ・ジェルマンは、モンテュクラの『数学史』に記されていたこのアルキメデスの最期に感激し、数学を学ぶ決意をしたといわれています。


★ジャン・エティエンヌ・モンテュクラに関する備考

Jean Etienne Montucla
生没年:1725年9月5日~1799年12月18日
生まれ:フランス、リヨン
父:不明
母:不明
主な著書:1758年『Histoire des mathematiques』(数学史)

2012年6月12日火曜日

マリア・ガエターナ・アニェージ

マリア・ガエターナ・アニェージ(1718年~1799年)

マリア・ガエターナ・アニェージは、イタリアの数学者です。
マリアはボローニャ大学の教授となりましたが、女性としては当時史上2人目の大学教授となりました。


■アニェージの曲線

y = a^3/(x^2 + a^2) または (x^2 + a^2)y - a^3 = 0
によって表される曲線のことをアニェージの曲線の曲線といいます。アニェージがこの曲線を研究したことから、アニェージの名が付けられました。


★マリア・ガエターナ・アニェージに関する雑学

アニェージは史上2人目の女性大学教授として知られていますが、1人目はイタリアの物理学者ラウラ・バッシ、3人目はロシアの数学者ソフィア・ヴァシーリエヴナ・コワレフスカヤとなります。


★マリア・ガエターナ・アニェージに関する備考

Maria Gaetana Agnesi
生没年:1718年5月16日~1799年1月9日
生まれ:イタリア・ミラノ
父:ピエトロ
母:
妹:マリア・テレーザ・アニェージ(音楽家)
主な著書:1748年『Instituzioni analitiche ad uso della gioventu italiana』

2012年6月8日金曜日

ジャン・ル・ロン・ダランベール

ジャン・ル・ロン・ダランベール(1717年~1783年)

ジャン・ル・ロン・ダランベールは、フランスの数学者・物理学者・哲学者です。
『百科全書』という百科事典の編集で知られています。


■『百科全書』

ダランベールはフランスの思想家であるドゥニ・ディドロと共に、百科事典である『百科全書』の責任編集者として活動しました。『百科全書』において、ダランベールは『序論』も執筆しています。
執筆者の人数は184人におよび、モンテスキュー、ルソー、ヴォルテール等の著名人も含まれています。『百科全書』の執筆陣は、「百科全書派」とも呼ばれています。


★ジャン・ル・ロン・ダランベールに関する雑学

ダランベールの母親は生まれたばかりのダランベールを、パリのサン・ジャン・ルロン教会の前の石段の上に置き去りにしました。ダランベールの名前は、この協会にちなんで付けられたことが知られています。


★ジャン・ル・ロン・ダランベールに関する備考

Jean Le Rond d'Alembert
生没年:1717年11月16~1783年10月29日
生まれ:フランス
父:ルイ=カミュ・デトゥシュ
母:クローディーヌ・アレクサンドリーヌ・ド・タンサン
主な著書:1743年『動力学論』、1751年『百科全書』

2012年6月5日火曜日

レオンハルト・オイラー

レオンハルト・オイラー(1707年~1783年)

レオンハルト・オイラーはスイスの数学者です。
オイラーの父はヤコブ・ベルヌーイから数学を学び、オイラー自身は父から数学を学び、その後ヤコブの弟であるヨハン・ベルヌーイから数学を学ぶようになりました。またヨハンの息子のニコラス、ダニエルも数学者となりますが、彼らとも親交を持つようになります。


■ケーニヒスベルクの橋の問題

18世紀の初等、プロイセンの首都・ケーニヒスベルクという町の中央に、プレーゲル川という川が流れていました。その川には7つの橋が架けられていたのですが、
「同じ橋を2度通らずに、7つの橋を全て通ることはできるか」(ただしどこから出発してもよいとする)
という疑問が提起されました。
この問題についてオイラーは「同じ橋を2度通らずに、全ての橋を通ることはできない」ことを証明しました。


★レオンハルト・オイラーに関する雑学

スイスで1979年11月5日に発行された第6次紙幣の10フラン紙幣には、表にオイラーの肖像画、裏に発電用水車、太陽系等、オイラーの研究をモチーフにした絵柄が描かれています。


★レオンハルト・オイラーに関する備考

Leonhard Euler
生没年:1707年4月15日~1783年9月18日
生まれ:スイス・バーゼル
父:パウル・オイラー(牧師)
母:マルガレータ・ブルッカー

2012年6月2日土曜日

ダニエル・ベルヌーイ

ダニエル・ベルヌーイ(1700年~1782年)

ダニエル・ベルヌーイはスイスの数学者・物理学者です。
ベルヌーイ家は多くの学者を輩出しましたが、同じ数学者であるヨハン・ベルヌーイの子がダニエルとなります。また数学者のヤコブ・ベルヌーイは、ダニエルの伯父にあたります。


■サンクトペテルブルクのパラドクス

「コインを最初に表が出るまで投げ続け、初めて表が出たのがn回目だったとした時に2^n円の賞金がもらえるとする。ただしゲームに参加するには、参加料を支払わなければならない」というルールのゲームがあるとします。ここで「このゲームの参加料がいくらまでなら、参加者が利益を得られると期待できるだろうか」という問題があります。

ここで賞金の期待値を計算すると無限大となってしまうため、「参加料が有限の金額ならばいくら支払ってもゲームに参加するべきである」という結論が出てしまいます。しかし現実の直感からするとこれはおかしな結論と感じるため、この問題は「サンクトペテルブルクのパラドクス」と呼ばれています。

ベルヌーイはこのパラドクスについて、「100万円が200万円になる時の満足度(効用)と、1000万円が1100万円になる時の効用は同じではない」より大きい。賞金の期待値ではなく、効用の期待値を考えるべきである」という主張をしました。


★ダニエル・ベルヌーイに関する備考

Daniel Bernoulli
生没年:1700年2月9日~1782年3月17日
生まれ:オランダ・フローニンゲン
父:ヨハン・ベルヌーイ
母:不明
伯父:ヤコブ・ベルヌーイ
主な著書:1738年『水力学』(Hydrodynamica)

2012年5月30日水曜日

ヨハン・ベルヌーイ

ヨハン・ベルヌーイ(1667年~1748年)

ヨハン・ベルヌーイはスイスの数学者で、有名な学者を多く輩出したベルヌーイ家の生まれです。ヨハンはロピタルの定理の発見者として知られています。
また、ヨハンはレオンハルト・オイラーに数学を教えました。オイラーの父はオイラーに神学の道にに進むことを希望していましたが、ベルヌーイ家の説得によりオイラーは数学の道に進むことができました。


■ロピタルの定理

ヨハン・ベルヌーイはギヨーム・ド・ロピタルに数学を教えていましたが、ロピタルはベルヌーイの研究について使用してもよいという取引をしました。
その後ロピタルが出版した数学書にはベルヌーイの業績も多く含まれていましたが、その一つに「ロピタルの定理」があります。


★ヨハン・ベルヌーイに関する備考

Johann Bernoulli
生没年:1667年7月27日~1748年1月1日
生まれ:スイス
父:ニコラス・ベルヌーイ
母:不明
兄:ヤコブ・ベルヌーイ
息子:ニコラスII世、ダニエル、ヨハンII世

2012年5月27日日曜日

アブラーム・ド・モアブル

アブラーム・ド・モアブル(1667年~1754年)

アブラーム・ド・モアブルは、フランスの数学者です。
ド・モアブルの定理で知られています。


■ド・モアブルの定理

任意の整数nに対して

(cos θ + i sin θ)^n = cos nθ + i sin nθ

が成り立ちます。
これはド・モアブルが三角関数の加法定理を用いて証明し、「ド・モアブルの定理」と呼ばれています。この定理を元にして、三角関数n倍角の公式を導くことができます。


★アブラーム・ド・モアブルに関する雑学

ド・モアブルはある日、自分の睡眠時間が毎日15分ずつ長くなっていることに気がつきました。
彼は等差数列を用いて睡眠時間が24時間となる日を算出し、自分はその日に死ぬだろうと予測したのですが、ド・モアブルが予想したその日に彼は本当に亡くなったという逸話があります。


★アブラーム・ド・モアブルに関する備考

Abraham de Moivre
生没年:1667年5月26日~1754年11月27日
生まれ:フランス、シャンパーニュ地方
父:不明
母:不明

2012年5月24日木曜日

ヨハン・ハインリッヒ・ラーン

ヨハン・ハインリッヒ・ラーン


ヨハン・ハインリッヒ・ラーンは、除算記号を考案したことで知られています。


■除算記号「÷」

除算記号は、ラーンの1659年に代数学の書『Teutsche Algebra』において発表されました。

「÷」の記号は割り算を分数として表わした形を示しており、横線の上下の「・」は、分子と分母を表わしているという説があります。
これとは別に、「÷」の記号は割り算を分数で表わしたときの横線で、横線上下の「・」は「-」(マイナス)の記号と区別するためにつけられたもの、ともいわれています。

除算記号については、同書の編集者だったイングランドの数学者ジョン・ペルを考案者とする説もあります。ラーンはジョン・ペルの弟子でした。
なお『Teutsche Algebra』では「*」も乗算記号として使われていました。


■「∴」

「ゆえに」を表す記号「∴」は、ラーンが1656年に自著で使用したのが最初であるといわれています。


★ヨハン・ハインリッヒ・ラーンに関する備考

生没年:不明
生まれ:不明
父:不明
母:不明
主な著書:1659年『Teutsche Algebra』

2012年5月21日月曜日

ギヨーム・ド・ロピタル

ギヨーム・ド・ロピタル(1661年~1704年)


ギヨーム・ド・ロピタルは、フランスの数学者です。
ロピタルの定理の名で知られますが、この定理の発見者はロピタルではなく、ヨハン・ベルヌーイによるものとされています。


■ロピタルの定理(ベルヌーイの定理)

ロピタルの定理は、ヨハン・ベルヌーイによって発見されたものとされています。
ロピタルはベルヌーイから数学を学んだのですが、ベルヌーイの発見をロピタルの著書へ使用する契約を結びます。
ロピタルは欧州で最初の微分積分学の教科書『無限小の解析』を出版しますが、その中にはこの定理を含むベルヌーイの業績が多く含まれていました。


★ギヨーム・ド・ロピタルに関する備考

Guillaume Francois Antoine Marquis de l'Hopital
生没年:1661年~1704年2月2日
生まれ:フランス・パリ
父:不明
母:不明
主な著書:1696年『無限小の解析』(l'Analyse des Infiniment Petits pour l'Intelligence des Lignes Courbes)

2012年5月17日木曜日

ヤコブ・ベルヌーイ

ヤコブ・ベルヌーイ(1654年~1705年)


ヤコブ・ベルヌーイはスイスの数学者です。ベルヌーイ家は多くの学者を生んだことで有名です。レオンハルト・オイラーの父に数学を教えたことでも知られています。他にはゴットフリード・ウィルヘルム・ライプニッツとも交流を持ち、数学の発展に貢献しました。


■ベルヌーイ試行

・AかBのどちらか一方しか起こらない
・試行をn回繰り返すとき、1試行ごとの成功確率が一定
・試行をn回繰り返すとき、試行ごとの結果は互いに独立である

このような試行のことを「ベルヌーイ試行」と呼びますが、これはヤコブ・ベルヌーイにちなんで名付けられました。


★ヤコブ・ベルヌーイに関する備考

Jakob Bernoulli
生没年:1654年12月27日~1705年8月16日
生まれ:スイス・バーゼル
父:ニコラス・ベルヌーイ
母:不明
弟:ヨハン・ベルヌーイ
主な著書:1713年『推測法』(Ars Conjectandi, Opus Posthumum)

2012年5月14日月曜日

エーレンフリート・ヴァルター・フォン・チルンハウス

エーレンフリート・ヴァルター・フォン・チルンハウス(1651年~1708年)

エーレンフリート・ヴァルター・フォン・チルンハウスは、ドイツの哲学者、数学者、物理学者です。チルンハウス変換の他、ヨーロッパにおいて白磁器の発明に貢献した人物としても知られています。


■チルンハウス変換

3次方程式はタルターリアとカルダーノ、4次方程式はフェラーリにより、解の公式が発見されました。次の問題は一般的な5次方程式

ax^5 + bx^4 + cx^3 + dx^2 + ex + f = 0

について、「四則演算と根号操作によって解を求めることができるかどうか」を証明することでした。

4次方程式についてはフェラーリが4次の方程式を2次や3次の方程式に帰着させることにより解かれたのですが、5次方程式についても次数の低い方程式に変換しようとするアプローチが行われました。
チルンハウスはこの変換を考え出し、5次方程式の4次と3次の項をなくすことに成功しました。


★エーレンフリート・ヴァルター・フォン・チルンハウスに関する備考

Ehrenfried Walther von Tschirnhaus
生没年:1651年4月10日~1708年10月11日
生まれ:ドイツ
父:不明
母:不明

2012年5月11日金曜日

ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ

ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646年~1716年)

ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツはドイツの哲学者、数学者です。微積分法の発見の他、ベルリン科学アカデミーの設立に貢献し、初代会長となったことでも知られています。


■微積分法

微積分法の発見者としてはアイザック・ニュートンが知られていますが、ライプニッツはニュートンとは独立して微積分法を発見しました。ライプニッツは微積分法について1684年に発表しています。
ニュートンとライプニッツの微積分法では別々の記号が使用されていましたが、ライプニッツの記号の方が優れていたため、今日ではライプニッツの表し方が使われています。


★ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツに関する雑学

月のクレーターには、ライプニッツにちなんで名付けられたものがあります。
小惑星にも、ライプニッツにちなんで名付けられたものがあります。


★ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツに関する備考

Gottfried Wilhelm Leibniz
生没年:1646年7月1日~1716年11月14日
生まれ:ドイツ・ライプチヒ
父:大学の道徳哲学教授
母:法律学者の娘
主な著書:『形而上学叙説』

2012年5月8日火曜日

関孝和

関孝和(1642年~1708年)

関孝和は日本の数学者です。点竄術の考案で知られています。


■点竄術(てんざんじゅつ)

中国で生まれた代数問題の解法を「天元術」と呼びますが、沢口一之著『古今算法記』にある天元術を、関は大幅に改良しました。「点竄術(てんざんじゅつ)」を考案し、筆算式の代数学を考案したのです。これは1674年の『発微算法』の中で用いられ、「算木」という棒を用いる計算ではなく、紙の上の文字を用いて計算をする、筆算式の代数学となりました。
ただし関の記号は加・減・乗だけで、除については関の弟子である建部賢弘によるものとなります。


■円周率

関は円に内接する正多角形の周を計算することで、円周率を小数第11位まで求めました。
関が計算した円周率は、3.14159265359となります。これは正131072角形を用いて求められました。


★関孝和に関する雑学

上毛かるたの「わ」の札では、「和算の大家 関孝和」と詠われています。



★関孝和に関する備考

生没年:1642年~1708年12月5日
生まれ:上野国藤岡(現在の群馬県藤岡市)もしくは江戸(現在の東京都小石川)
父:内山永明
母:不明
主な著書:『発微算法』

2012年5月5日土曜日

アイザック・ニュートン

アイザック・ニュートン(1643年~1727年)

アイザック・ニュートンはイギリスの自然哲学者、数学者です。
光の分解、万有引力、微積分法の発見は、ニュートンの3大業績といわれています。


■プリンキピア

1687年に『プリンキピア』(自然哲学の数学的諸原理)を著しました。この中で万有引力や運動方程式について書かれており、ニュートン力学として知られることになりました。

微積分については、古代から「取り尽くし法」や面積・体積の考察等において、微積分法につながる考え方は用いられていました。ニュートンは、微積分法の概念を数理物理学の問題を解くのに用います。
ゴットフリート・ライプニッツは微積分法の考え方を体系化しましたが、当初はニュートンの盗作だと非難されました。現在では、ニュートンとライプニッツは、互いに独立して微分積分学を発明したとされています。


★アイザック・ニュートンに関する備考

生没年:1643年1月4日~1727年3月31日
生まれ:イングランド・リンカーンシャー州・ウールスソープ-カールスターワース村
父:アイザック・ニュートン
母:ハナ・アスキュー
主な著書:『プリンキピア』(Principia)

2012年5月2日水曜日

ブレーズ・パスカル

ブレーズ・パスカル(1623年~1662年)


ブレーズ・パスカルはフランスの哲学者、思想家、数学者、物理学者、宗教家です。
「人間は考える葦である」という言葉で有名です。数学ではパスカルの定理やパスカルの三角形などの発見で知られています。
10歳にもならない時分に、三角形の内角の和が二直角であることや、1からnまでの和が(1+n)n/2であることを自力で証明した、という逸話があります。


■パスカルの三角形

最上段に1を、それより下の行はその位置の右上の数と左上の数の和を配置していくと、下のような三角形が出来上がります。これを「パスカルの三角形」と呼びます。

     1
    1 1
   1 2 1
  1 3 3 1
 1 4 6 4 1
1 5 10 10 5 1

この三角形の各行の数は、以下のように(a+b)のべき乗の展開式の係数に対応しています。

(a+b)^1 = a + b
(a+b)^2 = a^2 + 2ab + b2^
(a+b)^3 = a^3 + 3a^2*b + 3ab^2 + b^3
(a+b)^4 = a^4 + 4a^3*b + 6a^2*b^2 + 4ab^3 + b^4
(a+b)^5 = a^5 + 5a^4*b + 10a^3*b^2 + 10a^2*b^3 + 5ab^4 + b^5

この三角形にはパスカルの名前がついていますが、実際にはパスカルより何世紀も前の数学者達も研究していたことが分かっています。


★ブレーズ・パスカルに関する雑学

フランスで発行されていた500フラン紙幣には、パスカルの肖像が使用されていたこともあります。


★ブレーズ・パスカルに関する備考

Blaise Pascal
生没年:1623年6月19日~1662年8月19日
生まれ:フランス中部・クレルモン
父:税務官
母:不明
主な著書:『パンセ』

2012年4月29日日曜日

ピエール・ド・フェルマー

ピエール・ド・フェルマー(1607年頃~1665年)

ピエール・ド・フェルマーはフランスの数学者です。
裁判に関わる仕事をしており数学は余暇に学んだものですが、数論に偉大な貢献をなしました。


■解析幾何学

フェルマーはデカルトとは独立に、解析幾何学を発明しました。デカルトは平面上の解析幾何学にとどまりましたが、フェルマーは3次元空間についても考えたといわれています。
またフェルマーは、ニュートンやライプニッツに先がけて、微積分の計算法についても述べました。


■整数論、ディオファントス「算術」への書き込み

古代ギリシャの数学者・ディオファントスは「算術」という本を著しましたが、16世紀にフランスのフランスの言語学者・古典学者であるクロード=ガスパール・バシェ・ド・メジリアクという人物が、このディオファントスの「算術」をラテン語に翻訳して出版しました。
「算術」の翻訳本を入手したフェルマーは、この本から多くの数学的知識、特に整数の性質について学んでいきます。

この「算術」には100以上の問題が記されていましたが、その余白にフェルマーは自身の考えを多く記しました。フェルマーの書き込みは48ヶ所あり、後にフェルマーの長男であるクレマン・サミュエル・フェルマーがこの書き込みを合わせて「P・ド・フェルマーによる所見を含むディオファントスの算術」として出版しました。


■フェルマーの最終定理

「フェルマーの最終定理」として知られるものは、「算術」の問題8の横の余白に書き込まれたフェルマーのメモから生まれました。その余白には以下のように記されています。

「ある3乗数を2つの3乗数の和で表すこと、あるいはある4乗数を2つの4乗数の和で表すこと、および一般に、2乗よりも大きい冪の数を同じ冪の2つの数の和で表すことは不可能である。
私はこの命題の真に驚くべき証明をもっているが、余白が狭すぎるのでここに記すことはできない」

フェルマーの48の書き込みのうち、「フェルマーの最終定理」以外の47の命題は、後の数学者達により真偽の証明がなされました。「フェルマーの最終定理」だけは300年以上も真偽の証明が成功せず、この問題の解決は数学者達の長年の課題でした。この「フェルマーの最終定理」は、1995年にアンドリュー・ワイルズが証明することになります。



★ピエール・ド・フェルマーに関する備考

Pierre de Fermat
生没年:1607年頃~1665年1月12日
生まれ:南フランス、ボーモン・ド・ロマーニュ
父:エドゥアール
母:マリー
息子:クレマン・サミュエル・フェルマー

2012年4月26日木曜日

ジョン・ペル

ジョン・ペル(1611年~1685年)

ジョン・ペルは、イングランドの数学者です。


■ペル方程式

平方数ではない自然数nに対して

x^2 - ny^2 = 1

を、ペル方程式(Pell's Equation)と呼びます。

方程式において整数解や有理数解について考えるものを「ディオファントス方程式」と呼びますが、ペルはディオファントス方程式を好んで研究しました。ペル方程式の解法についてはウィリアム・ブランカーの功績なのですが、レオンハルト・オイラーはこの方程式を研究したのはペルであると誤解し「ペル方程式」と命名しました。以後、その呼び名が定着することとなりました。


■除算記号

除算記号を考案したことで知られるヨハン・ハインリッヒ・ラーンは、ペルの弟子でした。
この除算記号については、ペルを発明者とする説もあります。ラーンは1659年に『Teutsche Algebra』を出版しますが、この時ペルは編集者として関わっており、この本において除算記号が使われていました。


★ジョン・ペルに関する備考

John Pell
生没年:1611年3月1日~1685年12月12日
生まれ:イングランド南東部のサセックス、サウスウィック
父:不明
母:不明
兄弟:トーマス・ペル(医師)

2012年4月23日月曜日

吉田光由

吉田光由(1598年~1673年)

吉田光由は日本・江戸時代の和算家です。『塵劫記』という数学書を著したことで知られています。『塵劫記』は和算の数学書で、1627年に出版されました。全4巻からなるこの書は身近で実用的な計算を多く解説しており、挿絵入りだったこともあり広く流布しました。


■『塵劫記』

光由は和算家である毛利重能から数学を学びました。中国のそろばん書である『算法統宗』を入手した光由はその本に書かれていることを重能に教えてもらおうとしましたが、重能はその本を完全には読むことはできませんでした。そこで光由は一族の漢学者・角倉素庵に教えてもらい、この本を参考に『塵劫記を記しました。なおこの『塵劫記』では、円周率を3.16としています。

『塵劫記』は好評を得たため、光由は何度も版を重ね、その度に色々な工夫をしました。
寛永18年には解答を付けずに12の問題を載せ、その問題を解いた読者が解答と新たな問題を自分の本に載せて出版する等、日本の数学の発展に多大な貢献を果たしました。


■数の単位

『塵劫記』では「一、十、百、千、万」等の数の単位の呼び名(命数法)についても書かれています。
これは『算法統宗』を参考に考えられたものですが、『塵劫記』は何度も改訂されており、版によって命名が異なっています。


★吉田光由に関する備考

生没年:1598年~1673年1月8日
生まれ:不明
父:不明(京都嵯峨野角倉一族)
母:不明
主な著書:『塵劫記』

2012年4月20日金曜日

ルネ・デカルト

ルネ・デカルト(1596年~1650年)

ルネ・デカルトはフランスの哲学者・数学者です。自己の存在を証明する「我思う、ゆえに我あり」(コギト・エルゴ・スム)という言葉で有名です。
ラ・フレーシュの町の学院では、マラン・メルセンヌがデカルトの同室でした。メルセンヌとは人生を通しての友人となります。


■デカルト座標系

平面上の点の位置を2つの実数を用いて表すという方法は、デカルトが考案しました。これはデカルトの著書「方法序説」の中で初めて用いられたものです。この座標を「デカルト座標」、デカルト座標を用いた平面を「デカルト平面」と呼びます。このデカルト座標とデカルト平面は、解析学の発展に繋がっていきます。


■文字の使用

フランソワ・ヴィエトは定数を表すのに子音、未知数を表すのに母音を用いましたが、デカルトは定数を表すのにa、b、c等のアルファベットの最初の方の文字、未知数を表すのにx、y、z等の最後の方の文字を用いました。


■虚数「imaginary number」

負の数の平方根である虚数は1572年にラファエル・ボンベリによって定義されましたが、当時は虚数は数学者達の間では重要視されていませんでした。
デカルトも虚数に対しては否定的で、著書の中で「想像上の数」と名づけ、英語の「imaginary number」の語源となりました。


★ルネ・デカルトに関する備考

René Descartes
生没年:1596年3月31日~1650年2月11日
生まれ:フランス・アンドル=エ=ロワール(旧トゥレーヌ州)・ラエの町
父:ブルターニュの高等法院評定官
母:不明
主な著書:『方法序説』


2012年4月17日火曜日

マラン・メルセンヌ

マラン・メルセンヌ(1588年~1648年)

マラン・メルセンヌはフランスの神学者です。

修道院で数学を学び、自らも数学を教えるようになったメルセンヌは、パリの修道院に移り多くの数学者達と交流を持つようになります。
当時の数学者達は自分の研究を他の数学者に漏らすことはせず、秘密主義的な風潮が主流となっていました。しかしメルセンヌは知識は共有するべきであるとの考えから、積極的に学問について論じ合う姿勢をとりました。メルセンヌの活動は後にパリ科学アカデミーの創立に繋がる等、ヨーロッパにおける学者達の交流に大いに貢献しました。
メルセンヌが交流した人物はジラール・デザルグ、ピエール・ド・フェルマー、ルネ・デカルト、ガリレオ・ガリレイの他、多数に渡ります。


■メルセンヌ数

2の冪よりも 1 だけ小さい自然数、つまり「2n - 1」の形をした自然数のことを、メルセンヌ数と呼びます。また、素数であるメルセンヌ数をメルセンヌ素数と呼びます。


■12平均律

1オクターブ等の音程を均等な周波数比で分割した音律を「平均律」と呼びます。平均律についてはメルセンヌ以前から知られていましたが、メルセンヌは1636年の著書「普遍的和声法」において、平均律の数学的基礎を確立しました。
十二平均律は、1オクターブを12等分した音律となります。


★マラン・メルセンヌに関する備考

Marin Mersenne
生没年:1588年9月8日~1648年9月1日
生まれ:フランス、メイン、ワーズ
父:不明
母:不明
主な著書:1636年『Harmonie universelle』、1644年『Cogitata Physico-Mathematica 』

2012年4月14日土曜日

クロード=ガスパール・バシェ・ド・メジリアク

クロード=ガスパール・バシェ・ド・メジリアク(1581年~1638年)

クロード=ガスパール・バシェ・ド・メジリアクは、フランスの言語学者・古典学者です。ディオファントスの『算術』をラテン語に翻訳して出版したことで知られています。


■パズル集

バシェが初めて著した本は、『楽しくて面白い数の問題』というパズル集でした。
このパズル集には数当て問題等の数学的な問題が多く含まれていました。


■ディオファントスの『算術』の翻訳

バシェはディオファントスの『算術』をラテン語に翻訳して出版しました。
当時のヨーロッパでは数学は重要視されていなかったのですが、バシェが『算術』をラテン語で出版したことにより、古代の数学的知識がヨーロッパで再認識されることに繋がりました。
「フェルマーの最終定理」で知られるピエール・ド・フェルマーも、このバシェが翻訳した『算術』で数学を学び、余白に自らの考えを書き込んだことが知られています。バシェが翻訳した『算術』には余白が多くあったため、フェルマーは内容についての自分の所見を書き込むことができました。
「フェルマーの最終定理」について、「私は真に驚くべき証明を見つけたが、この余白はそれを書くには狭すぎる」というフェルマーの有名な書き込みは、バシェの『算術』の第2巻第8問「平方数を2つの平方数の和に表せ」の欄外の余白に書き込まれたものです。この他、フェルマーの注釈は全部で48ヶ所にも及んでいます。


★クロード=ガスパール・バシェ・ド・メジリアクに関する備考

Claude-Gaspard Bachet de Méziriac
生没年:1581年~1638年
生まれ:不明
父:不明
母:不明
主な著書:1621年ディオファントス『算術』のラテン語訳

2012年4月11日水曜日

パウル・ギュルダン

パウル・ギュルダン(1577年~1643年)

パウル・ギュルダンはスイスで生まれた数学者です。グラーツ大学、ウィーン大学で数学の教授を務めました。
回転体の体積に関する「パップス=ギュルダンの定理」で知られています。


■パップス・ギュルダンの定理

パップス・ギュルダンの定理は、回転体の体積に関する定理です。この定理はギュルダン以前にアレキサンドリアのパップスによって発見されていたのですが、後にギュルダンも独立して発見したために両者の名前がつけられています。

パップス・ギュルダンの定理は、以下となります。

平面上にある図形 F の面積を S、
F と同じ平面上にあり、 F を通らない軸 l の回りで F を 1 回転させた回転体の体積を V
とします。
回転させる図形 F の重心 G から回転軸 l までの距離を R としたとき、

V = 2 π R S
(回転体の体積 V) =(回転による図形 F の重心の移動距離)×(図形 F の面積 S)

が成り立ちます。

2012年4月8日日曜日

ウィリアム・オートレッド

ウィリアム・オートレッド(1574年~1660年)

ウィリアム・オートレッドは、イギリスの数学者です。「×」の記号の考案で知られています。
三角関数において「sin」、「cos」と表記する方法も、オートレッドの考案であるといわれています。


■「×」の記号の使用

当時は「×」といった記号は使用されておらず、例えば5かける5であれば「5 multiplied by 5」と言葉を用いて記していました。
この掛け算の記述に対して初めて「×」という記号を用いたのがオートレッドです。「×」の記号は、オートレッドの著書「数学の鍵」(1631年)で初めて使われました。彼は教会の十字架からの連想で「×」という記号を思いついたといわれています。


■計算尺

ジョン・ネイピアが対数を発明したことで掛け算を足し算に変換することができるようになりましたが、その対数の仕組みを利用して、1620年にイギリスのガンターが対数尺を発明しました。その後1622年にはオートレッドが計算尺を発明しましたが、これは2つの対数尺を組み合わせることで乗法と除法を計算できるようになるものでした。
このように複数の尺を用いる計算尺は、以後主流となって行きます。

2012年4月5日木曜日

ヘンリー・ブリッグス

ヘンリー・ブリッグス(1561年~1630年)

ヘンリー・ブリッグスはイングランドの数学者で、ジョン・ネイピアの対数を元にして常用対数を考え出したことで知られています。


■常用対数

グレシャム大学で幾何学と天文学の研究をしていたブリッグスは、ジョン・ネイピアが1614年に発表した対数に感心し、スコットランド・エディンバラのネイピアの元を訪れます。
この後二人は協力して対数の研究を進め、ブリッグスの進言により10を底とする対数(常用対数)が生まれました。常用対数はブリッグスの名にちなんで「ブリッグス対数」と呼ばれることもあります。

1617年に1000までの常用対数を計算した結果を出版し、1924年には20,000までの数の14桁の対数と、90,000~100,000までの対数を記した対数表を発表しました。この対数表で抜けていた20,000から90,000の部分は、1628年にオランダのアドリアン・ブラックが完成させています。


★ヘンリー・ブリッグスに関する雑学

月のクレーターには、ブリッグスの名にちなんで名づけられたクレーターがあります。

2012年4月2日月曜日

トマス・ハリオット

トマス・ハリオット(1560年~1621年)

トマス・ハリオットはイギリスの天文学者、占星術師、数学者です。

■不等号「>」と「<」の使用

ハリオットは「>」と「<」という記号を初めて用いました。
当時はオートレッドが用いていた別の記号が主流だったのですが、その記号は互いに混同しやすく、オートレッドの本の中でも両者は混同して使われている場面もありました。一方ハリオットの「>」と「<」は互いに向きが逆なだけで更にはこの記号の左右に置かれた数のどちらが大きいかを明確に表しているため、このハリオットの記号が使われていくことになります。
なお「≦」、「≧」という記号を初めて用いたのは、フランスのピエル・ボーガーとなります。


★トマス・ハリオットに関する雑学

1609年末にガリレオ・ガリレイが望遠鏡を自作し、世界で初めて望遠鏡で月を観測したとされていました。しかし調査によって、1609年7月26日にはハリオットが初めて月の地図を描いていたことが明らかになりました。

2012年3月30日金曜日

ジョン・ネイピア

ジョン・ネイピア(1550年~1617年)

ジョン・ネイピアはスコットランドの数学者、物理学者、天文学者、占星術師です。
対数の発見で知られています。


■対数の発見

16世紀の天文学者達は、星の位置を計測するために何十桁もある数値の計算を行っていました。また当時の船乗り達は星の位置を元に船の現在地や進行方向を計算していたのですが、桁数が非常に多い数値を計算しないといけないため間違いやすく、航海の安全に悪影響をもたらす原因の一つとなっていました。

これらの事情を知ったネイピアは、桁数の多い掛け算を足し算に置き換える方法として対数を考え出したのです。ネイピアは20年という長い歳月をかけて対数の表を作成し、1614年に7桁の数の対数表を発表しました。
しかしネイピアの対数は複雑だったため、当初は理解されませんでした。そこへイングランドの数学者ヘンリー・ブリッグスがネイピアの元を訪れます。二人は対数に関する議論を重ね改良していき、ブリッグスは10を底とすることを提案し、これが常用対数となります。
ブリッグスは常用対数の表を作成することをネイピアと約束し、表を完成させますが、その時にはネイピアは既に亡くなっていました。

この対数の発明により計算が簡易になり精度も高くなったため、大航海時代の長い航海をより安全に行えるようになりました。更に後の時代のフランスの数学者ピエール=シモン・ラプラスからは、「対数は天文学者の寿命を2倍にした」と讃えられました。


★ジョン・ネイピアに関する雑学

対数の概念は、ネイピアよりも前にイタリアの数学者ミハイル・シュティーフェルが著書「完全算術」の中で記述していました。ただしシュティーフェルは対数について研究を進めることはなかったので、対数の発見者はネイピアであるとされるようになりました。
ネイピアはシュティーフェルが考えた対数の概念については知らなかったとされていて、二人は全く独立して対数を発見したといわれています。

2012年3月27日火曜日

シモン・ステヴィン

シモン・ステヴィン(1548年~1620年)

シモン・ステヴィンはヨーロッパの旧フランドル地方、ブルッヘ(ベルギーのブルージュ)で生まれた数学者、物理学者、会計学者です。十進小数の導入で知られています。


■十進小数

小数自体はバビロニア数学の時代から存在していましたが、小数点を表すものがなかったため、前後の文脈から数値を判断しなくてはいけないという不便なものでした。
ステヴィンは1585年に出版した「十進分数論」において小数を発表し、ヨーロッパに小数を導入しました。ただし表記法は現在用いられているものとは異なり、「0.678」は「6①7②8③」と表しています。
後にジョン・ネイピアによって、小数点による表記法が提唱されました。


■力の平行四辺形の法則

平行四辺形を用いて力の合成と分解を最初に考えたのはステヴィンでした。彼は1586年に表した書籍の中で、力の平行四辺形について述べています。


★シモン・ステヴィンに関する雑学

ベルギーのブルージュには「シモン・ステヴィン広場」という場所があり、シモン・ステヴィンの像があります。


★人物・家族・経歴等

Simon Stevin
生没年:1548年~1620年
生地:フランドル(現ベルギー)、ブルッヘ
没地:オランダ、ハーグ
父:アンソニー・ステヴィン
妻:キャサリン・クライ
子:ヘンドリック、 スサンナ、レヴィナ、フレデリック
主な著書:
1585年『十進法』
1586年『吊り合いの原理』、『水の重さの原理』


(2012年3月27日投稿)
(2018年12月5日追記)

2012年3月24日土曜日

フランソワ・ヴィエト

フランソワ・ヴィエト(1540年~1603年)

フランソワ・ヴィエトはフランスの数学者です。方程式の記述において「係数」という言葉を初めて使用したことや、解と係数の発見で知られています。


■文字の使用

方程式ax^2+bx+c=0においてa、b、cを「係数」と呼びますが、この言葉を初めて用いたのがヴィエトです。
また著書「解析論入門」において、既知の量は子音b、c、d、未知の量は母音a、e、i、o、u等を用いて表しています。
ディオファントスの「算術」において未知数やそのべき乗は頭文字で表されていましたが、既知の定数までをも一つの文字で表したのはヴィエトが初めてでした。
ただしギリシア時代から1次は線分、2次は面積、3次は体積として互いに異質なものとして考えられ、厳しく区別されていました。そのため同じ次数のものだけが互いに比較されるべきであるという考えがあり、この考え方からはヴィエトも脱却できませんでした。


★フランソワ・ヴィエトに関する雑学

・アドリアーン・ファン・ローメンの挑戦

ベルギーの数学者アドリアーン・ファン・ローメンが「数学の概念」という本を著し、その中に次のような45次の方程式を載せました。

x^45 - 45×^43 + 945×^41 - 12300×^39 + 111150×^37 - 740459×^35 + 3764565×^33 - 14945040×^31 + 469557800×^29 - 117679100×^27 + 236030652×^25 - 378658800×^23 + 483841800×^21 - 488494125×^19 + 384942375×^17 - 232676280×^15 + 105306075×^13 - 34512074×^11 + 7811375×^9 - 1138500×^7 + 95634×^5 - 3795×^3 + 45x = C

ローメンは当時の数学者達に対して「その方程式を解いてみよ」と挑戦し、当時のフランスの王アンリ四世はネーデルランド大使に「この問題を解ける数学者はフランスにはいないだろう」と挑発されます。
そこでアンリ四世はヴィエトに助けを求めるのですが、ヴィエトは数分で正の解を見つけたという逸話があります。ヴィエトはその問題は三角法の利用が有効であると見抜き、更にはその方程式には23個の正の解と22個の負の解があることも示した、といわれています。

2012年3月21日水曜日

クリストファー・クラヴィウス

クリストファー・クラヴィウス(1538年~1612年)

クリストファー・クラヴィウスはドイツのバンベルクに生まれた数学者・天文学者です。
グレゴリオ暦作成の中心人物だった他、数学ではユークリッドの「原論」の注解書を著しました。クラヴィウスはローマやポルトガルで学んだ後にローマに戻り、ローマ学院の数学教授となりました。天文学では天動説を支持していましたが、天動説がもつ矛盾点も認識していました。


■グレゴリオ暦

16世紀の後半まではユリウス暦という暦が使われていました。これは紀元前45年にユリウス・カエサルによって制定されたもので、1年を原則365日とし、4年ごとの閏年の2月末に1日を加えて366日とするものでした。このユリウス暦は16世紀には実際の季節と暦のずれが大きくなっており、これに代わるより精密なものとして制定されたのがグレゴリオ暦です。グレゴリオ暦では、400年間に97回の閏年を置くこととしています。クラヴィウスはこのグレゴリオ暦の作成に関わった人物の中の一人です。

2012年3月18日日曜日

ラファエル・ボンベリ

ラファエル・ボンベリ(1526年~1572年)

ラファエル・ボンベリは、イタリアのボローニャ生まれの数学者です。虚数の研究で知られ、「代数学」という数学書を著しました。


■虚数の研究

3次方程式を解く過程で、解が実数の場合でも途中の段階で負の数の平方根が出てくる場合があります。これは後に「虚数」と呼ばれることになる概念なのですが、カルダーノは著書「アルス・マグナ」で3次方程式の解法を示す際に、この虚数については明確な説明をできないままで終わっていました。当時は0や負の数でさえまだ認められておらず、「負の数の平方根」である虚数は「役に立たないもの」としか認識されていなかったのです。

ボンベリはこの「負の数の平方根」という概念を重要なものであると認識し定義を与え、「虚数」というものの研究が進んでいくきっかけを作ることとなりました。
1637年にはルネ・デカルトが初めて「虚数(imaginary number)」という言葉を用い、1777年にはレオンハルト・オイラーが虚数をiと表しました。


★ラファエル・ボンベリに関する雑学

月のクレーターには、ボンベリにちなんで名づけられたものがあります。

2012年3月16日金曜日

ルドヴィコ・フェラーリ

ルドヴィコ・フェラーリ(1522年~1565年)

ルドヴィコ・フェラーリはイタリアの数学者で、4次方程式の解法の発見で知られています。
彼は14歳の時に数学者ジェローラモ・カルダーノの家に召使として働き始めましたが、その才能を認められカルダーノから数学の教えを受け、研究の手伝いをするようになりました。


■4次方程式の解法

カルダーノは同じイタリアの数学者ニコロ・タルターリアから、ある特定の形をした3次方程式の解法を教わりました。この解法はまだ世間一般には公表されておらず、カルダーノは「解法を公表しない」との誓いの元でタルターリアから教わったものです。

解法を得たカルダーノは弟子のフェラーリと共に一般的な3次方程式の解法等の研究に取り組みます。
この研究の過程で、フェラーリは4次方程式の解法を発見しました。
これは4次方程式を3次方程式に帰着させるという手法だったのですが、この手法は一般的な4次方程式にも使える方法だったのです。

後にカルダーノは「アルス・マグナ」という数学書を出版しますが、この本の中でフェラーリの4次方程式の解法についても記しています。


■タルターリアとの論争

「解法を公表しない」との誓いを破られたタルターリアは激怒し、カルダーノのことを非難するようになります。
ここでカルダーノの弟子であるフェラーリは「自分もその場にいたがそのような誓いは立てていない」と主張しているのですが、真相は定かではありません。タルターリアはカルダーノとの論争を望んでいたのですがカルダーノはタルターリアの誘いには乗らず、以降タルターリアとフェラーリの論争が続いていくことになります。
最後はタルターリアとフェラーリが公開討論を行うことになり互いに31問ずつの問題を出し合うことになったのですが、この討論試合の詳細は明らかになっていません。フェラーリの勝利に終わったという説が有力です。

この討論試合の後フェラーリの名声は高まり、各方面から仕事の依頼が来るようになります。
皇帝の息子の家庭教師の依頼もあったのですが、フェラーリは割りのいい税務査定官の仕事に就きました。

2012年3月14日水曜日

ロバート・レコード

ロバート・レコード(1510年頃~1558年)

ロバート・レコードは、イギリス・ウェールズの医者、数学者です。彼は「=」の記号を初めて使用した人物として知られています。レコードは医師業の傍ら数学の講義を行い、算術書「技術の基礎」やイギリス初の代数書「知恵の砥石」等を英語で出版していました。
国王エドワード6世の侍医でもありました。


■「=」の記号

レコードは1557年に「知恵の砥石」という代数学の書物の中で、「=」という記号を用いました。
ただしレコードが最初使ったのは「=」ではなく「Z」のような形の記号で、後に現在のような「=」の記号になりました。
「=」を用いた理由としては、「2本の平行線ほど、等しいものは世の中にはない」としています。ただし当初はあまり普及せず、等しいものを表す記号としては「∥」、「ae」、「oe」が使用されていました。

「=」については後にイギリスのトマス・ハリオットが再び使用し、ルネ・デカルトが独自の記号を考案しました。最初は「=」の2本の線はとても長かったのですが、徐々に短くなっていったようです。

2012年3月11日日曜日

ジェローラモ・カルダーノ

ジェローラモ・カルダーノ(1501年~1578年)

ジェローラモ・カルダーノは、イタリアの医者・数学者です。
3次方程式の解法や、虚数の概念を導入したことで知られています。


■3次方程式の解法

当時のイタリアでは公開の場での数学試合が盛んに行われており、数学者達の間ではこの試合に勝つことが地位や名声を得る手段の一つとなっていました。

この試合でタルターリアが3次方程式の解法を知っているということが話題になり、数学書を執筆していたカルダーノは、タルターリアに解法を伝授してくれるように頼み込みます。
タルターリアは何度頼まれてもカルダーノの頼みを聞き入れなかったのですが、ミラノの有力者へ紹介するというカルダーノの誘いに乗り、ミラノで様々なもてなしを受けます。

その後しばらくしてカルダーノはついに解法をタルターリアから聞き出すことに成功するのですが、その際には「解法を公表しない」という誓いを立てさせられたといわれています。ただしカルダーノの弟子のルドヴィコ・フェラーリによるとそのような誓いは立てていないことになっており、真相は定かではありません。


タルターリアが得ていた解法はある特殊な形をした3次方程式のものだけだったのですが、タルターリアから解法を教ったカルダーノは、カルダーノは弟子のフェラーリと共に一般的な3次方程式の解法の研究に取り組みます。

この研究生活の中で、イタリア・ボローニャのシピオーネ・ダル・フェロという数学者が3次方程式の解法を発見しており、その解法が義理の息子アンニバーレ・デラ・ナーヴェに渡っているという噂がカルダーノの元に届きます。

ボローニャのナーヴェを訪ねたカルダーノはダル・フェロがタルターリアよりも早くに3次方程式の解法を得ていたことを知ります。

この後カルダーノは「アルス・マグナ(大いなる技法もしくは代数学の規則)」という数学書を出版しますが、その本に3次方程式の解法を載せていました。

このことを知ったタルターリアは激怒し公然とカルダーノを非難するようになります。
カルダーノは「アルス・マグナ」の中でタルターリアへの謝辞も述べているのですが、それでもタルターリアの怒りはおさまりませんでした。

タルターリアはカルダーノを討論試合の場に出させようとしたのですがカルダーノはこれを受けず、代わりに弟子のフェラーリと試合を行うことになります。

結果はフェラーリの勝利に終わります。
3次方程式の解法は「カルダーノの公式」として、後世に伝わっていくことになります。


■4次方程式の解法、虚数の概念の導入。

カルダーノの「アルス・マグナ」では、3次方程式の解を示す際にカルダーノが世界で初めて虚数の概念を導入しました。
またフェラーリが発見した4次方程式の解法についても記されており、この本はヨーロッパの数学界に大きな影響を与えました。

2012年3月9日金曜日

ニコロ・タルターリア

ニコロ・タルターリア(1499年~1557年)

ニコロ・タルターリアは、ブレシア生まれのイタリアの数学者です。「タルターリア」とは通称で、本名は「フォンタナ」といいます。彼は独学で数学を学び、後に数学教師となりました。
アルターリアは数学を用いて初めて大砲の弾道の計算を行ったことで有名です。タルターリアの研究は、後にガリレオ・ガリレイが実験により検証しています。


■三次方程式の解法

タルターリアは、ブレシアのツアンネ・デ・トニーニ・ダ・コイからの挑戦で、3次方程式x^3+3x^2=5を解くことに成功しました。

彼が3次方程式を解いたという噂は、ダル・フェロの弟子アントニオ・マリア・フィオルの元にまで届きます。フィオルはダル・フェロよりax^3+bx = cという形の3次方程式の解法を受け継いでいたのですが、タルターリアが3次方程式を解いたという話は信用しませんでした。
そこでフィオルは公開の場での数学試合においてタルターリアに勝つことができれば自分の名声も上がると踏んで、タルターリアに挑戦状を出しました。

試合では互いに30問を出題しあったのですが、フィオルのものは全てがax^3+bx = cの形に基づくもので、タルターリアの出題は様々なタイプのものがあったため、試合はタルターリアの圧勝で終わります。


■カルダーノとの騒動

フィオルとの数学試合の結果は、イタリア中で話題になりました。タルターリアの名声は一気に高まったのですが、この解法をすぐに発表するべきだとのダ・コイの助言をタルターリアはこれを断ります。彼はこの解法を題材にした本を書くつもりだと説明したそうです。

タルターリアの噂は医者であり数学者でもあるジェローラも・カルダーノの元へも届きます。
カルダーノは数学書を執筆しており、3次方程式の解法にも興味を持っていました。
そこでカルダーノは再三にわたりタルターリアに3次方程式の解法について教えを請うのですが、タルターリアはこれを断り続けます。

しかしある時ミラノの有力者への紹介されたことをきっかけにして、ついにカルダーノに解法を明かすことになります。

この際「解法は誰にも公表しない」という誓いをカルダーノに立てさせたといわれていますが、カルダーノの弟子ルドヴィコ・フェラーリの言によると、そのような誓いは立てていないといわれています。

この後カルダーノは、弟子のルドヴィコ・フェラーリと共にタルターリアの解法やその他の一般的な3次方程式、更には4次方程式の解法についての研究を始めます。
その中でダル・フェロという人物がタルターリアよりも前に同じ解法を導いていたことを知ります。ここまでの研究を元にカルダーノは「アルス・マグナ」という就学書を出版するのですが、この書に三次方程式の解法を載せてしまいます。
これを知ったタルターリアは激怒し、以後長年に渡り公の場でカルダーノを侮辱することになります。

タルターリアはカルダーノに公開討論を申し込みますがカルダーノに受け入れられず、弟子のフェラーリと討論試合をすることになるのですが、結局タルターリアは負けてしまいます。

この後3次方程式の解法は、「カルダーノ公式」として世に残っていくことになります。

2012年3月7日水曜日

ヨハネス・ウィッドマン

ヨハネス・ウィッドマン

ヨハネス・ウィッドマンは、数学において「+」、「-」記号を初めて使用した人物として知られています。

「+」という記号については、14世紀頃にラテン語の「および」を意味する「et」を速く書いているうちにこれが崩れ、「+」になったといわれています。「-」は「m」という文字が段々と省略されてできたものだとされています。
また当時の船乗り達は、水樽の重さの過不足を表すために「+」と「-」を目印として用いていました。水樽を管理する際に、使用した分を樽に「-」の線で記し、水が加えられた時には「-」の上から縦線を入れて「+」としていたのです。

この「+」、「-」の記号を数学的な記号として初めて用いたのが、ドイツのヨハネス・ウィッドマンです。彼は1489年に発表した「商業用算術書」という書物の中で、「+」、「-」を過不足を表す記号として使いました。ただしこの本の中では「プラス」という言葉は使われておらず、「-とは不足、+とは多すぎることである」と説明しています。ウィッドマンは加法や減法の記号としてではなく、正負を表す記号として考えていたようです。
ちなみに「plus(プラス)は「より多い」、「minus(マイナス)」は「より少ない」をラテン語で意味します。
ウィッドマンは記号「+」を「mer」、「-」を「minus」と呼びました。

加減の計算記号として+、-を用いたのは、1514年、オランダのファンデル・フッケとされています。
またイギリスのロバート・レコードは1557年に「The Whetstone of Witte」を表し、プラス記号とマイナス記号をイギリスへ持ち込みました。

2012年3月6日火曜日

アントニオ・マリア・フィオル

アントニオ・マリア・フィオル(1536年頃)

アントニオ・マリア・フィオル(ラテン名フロリドス)は功績のある数学者ではないのですが、16世紀のイタリアでの3次方程式の解法を巡る騒動の中で、重要な役割を果たしています。

16世紀のイタリアでは3次方程式の解法を発見することが、数学者達の課題であり夢でした。このイタリア・ボローニャにおいてフィオルの数学の師であるシピオーネ・ダル・フェロは、ax^3+bx = c という特殊な形の3次方程式の解を導くことに成功します。しかしダル・フェロはこの解法を世間に公表することはせず、義理の息子のアンニバーレ・デラ・ナーヴェと、弟子のアントニオ・マリア・フィオルにのみ解法を明かしました。
当時は公開の場で互いに数学の問題をいくつか出し合い、どちらが多く解けるかを競う「数学試合」がさかんに行われており、フィオルもこの数学試合に参加していました。

ある時イタリアの数学者ニコロ・タルターリアが3次方程式の解法を発見したという噂が、フィオルの元にまで届きます。しかいフィオルはこの話を信用しませんでした。そこで彼はタルターリアに数学試合を申し込、これに勝つことで自分の地位を高めようと考え、タルターリアに挑戦を申し込みます。タルターリアはこの挑戦を受け、互いに30の問題を出し合うことになりました。

フィオルはダル・フェロが残した特殊な形(ax^3+bx = c)の3次方程式の解法しか知らず、フィオルが出した30題は全てこの形のものでした。一方のタルターリアはダル・フェロのもの以外にもx^3+ax^2=bやax+b=x^3という形の3次方程式の解き方も知っており、彼が出した30題は様々な種類のものがありました。このためタルターリアは2時間ほどでフィオルの問題を解くことができたのですが、フィオルは相手の問題を1問も解けずに負けてしまったのです。

このタルターリアとフィオルの数学試合の話はイタリア中で話題になり、3次方程式の解法を巡る新たな進展へと繋がっていきます。

2012年3月5日月曜日

シピオーネ・ダル・フェロ

シピオーネ・ダル・フェロ(1465年~1526年)

シピオーネ・ダル・フェロはイタリア・ボローニャ生まれの数学者です。ダル・フェロはボローニャ大学の数学科長の一人となり、同大学で教鞭をとりました。
特殊な形をした3次方程式の解法の発見者として知られています。


■三次方程式の解についての研究

当時の数学者達の間では3次方程式の解法の発見が大きな課題でしたが、ダル・フェロは ax^3+bx = c という形の3次方程式の解を導きました。
これは一般的な形の3次方程式(ax^3+bx^2+cx+d = 0)の解法ではありませんでしたが、一般の三次方程式はこの形に変形できます。したがって、三次方程式の解法を発見したのはダル・フェロであるといってもよいでしょう。
ダル・フェロはこの解法を世間に公表せず弟子にのみ明かしましたが、この解法は後の発見へと繋がっていくことになります。


★シピオーネ・ダル・フェロに関する雑学

・数学試合

特殊な形の3次方程式の解法を得たにもかかわらず、ダル・フェロはこれを公表しませんでした。
当時のボローニャでは公開の場での討論や論争が頻繁に行われており、数学についても「互いにいくつかの問題を出し合って、どちらが多く解けるかを競う」という試合」が行われていました。このような試合に勝つことは、学者や知識人が富や名声を得る手段となっていたのです。
試合に勝つには自分の手の内は明かさない方が有利になるため、ダル・フェロに限らず当時の数学者達の間では自分が発見した知識を公表しないのは、特に珍しいことではありませんでした。

ダル・フェロが3次方程式の解法を公表することはなかったのですが、義理の息子のアンニバーレ・デラ・ナーヴェと、弟子のアントニオ・マリア・フィオル(ラテン名フロリドス)には解法を明かしています。またダル・フェロは解法を詳しく書き記し、その手記は彼の死後、義理の息子の手に渡りました。
ダル・フェロから3次方程式の解法を伝えられたフィオルは、数学者ニコロ・タルターリアとの数学試合に臨みますが、タルターリアはax^3+bx^2=cという形の3次方程式の解法も得ていたため、試合には負けてしまいました。

・ダル・フェロのアパート

ダル・フェロが暮らしたボローニャのアパートの壁には、ダル・フェロの生家であることが刻まれたプレートが壁に飾られているそうです。

2012年3月4日日曜日

ルカ・パチョーリ

ルカ・パチョーリ(1445年~1517年)

ルカ・パチョーリはイタリアの数学者で、イタリア中部トスカーナ州の町、ボルゴ・サンセポルクロに生まれました。彼は同郷の画家ピエロ・デラ・フランチェスカに才能を認められ指導や援助を受け、数学的才能を伸ばしていくことができました。
自著の中でルネッサンス当時のヴェネツィア商人が使用していた複式簿記を初めて学術的に説明したため、「近代会計学の父」と呼ばれています。また修道僧でもありました。
師であるピエロ・デラ・フランチェスカから数学を教わり、更には有力者への紹介等の助力も得られ学問に打ち込む環境が整えられたこともあり、才能を伸ばしていきます。


■ピエロ・デラ・フランチェスカからの支援

パチョーリは同郷の画家ピエロ・デッラ・フランチェスカの元で数学を学びます。ピエロに数学の才能を認められたパチョーリは、数学を研究する上での様々な支援をピエロから受けることになります。
まずは地元領主ウルビーノ公フェデリコ・ダ・モンテフェルトロへ紹介されたことにより、公の館に付属していた図書館の利用を認められ、書物から多くの知識を得る機会が与えられました。


■数学書「スムマ」

1494年に、パチョーリは「スムマ(算術・幾何学・比例と比例関係大全)」という数学書を著しました。この書の中で彼は「3次と4次の方程式については、まだ一般的な解法が作られていない」と述べています。特殊な形をした3次や4次の方程式の解法は既に知られていましたが、一般的な形の3次・4次方程式の解法は発見されておらず、当時の数学者達の頭を悩ませていたのです。
この「スムマ」はイタリア語で書かれていたためにラテン語に通じていない多くの一般庶民も読むことができ、当時の人々に大きな数学的影響を与えました。


★ルカ・パチョーリに関する雑学

・インキュナブラ

活版印刷技術の発明は1440年代とされており、1500年までの活版印刷術の幼年期に印刷された本のことを「インキュナブラ(揺籃期本)」と呼びます。
パチョーリの「スムマ」は、このインキュナブラの一つに数えられています。

2012年3月3日土曜日

ピエロ・デラ・フランチェスカ

ピエロ・デラ・フランチェスカ(1412年~1492年)

ピエロ・デラ・フランチェスカはイタリアルネサンス期の画家で、イタリア中部トスカーナ州の町、ボルゴ・サンセポルクロに生まれました。数学や幾何学を研究した最初の画家の一人で、その作品にも数学研究の影響が見られます。1500年代の画家ヴァザーリはピエロについて「生涯を通じて数学と縁を切ることはなかった」と評した、といわれています。
ピエロは主に幾何学について研究し、「算術論」、「遠近法論」、「五つの正多面体論」の3冊の著作を残しました。


■幾何学の絵画への応用

ピエロは今では最も偉大なルネッサンスの画家の1人とされていますが、評価されたのは20世紀に入ってからだといわれています。彼の描いた絵画には幾何学的な知識に基づいて画面構成されたものが多く、特に緻密な遠近法が評価されています。


★ピエロ・デラ・フランチェスカに関する雑学

・ルカ・パチョーリの師

ピエロはルカ・パチョーリに数学を教え、その才を認めて様々な助力をしました。地元領主であったウルビーノ公フェデリコ・ダ・モンテフェルトロへパチョーリを紹介し、館付属の図書館の利用をパチョーリが利用できるになりました。
パチョーリは後に数学書「スムマ」を著し、その中で複式簿記を初めて学術的に説明し、「近代会計学の父」とよばれるようになります。

2012年3月2日金曜日

レオナルド・フィボナッチ

レオナルド・フィボナッチ(1179年頃~1250年頃)

フィボナッチはイタリアのピサの数学者です。正確には「レオナルド・フィリオ・ボナッチ」といいますが、これがなまって「フィボナッチ」と呼ばれるようになったとされています。
彼は少年時代に父親について現在のアルジェリアに渡り、そこでアラビア数字を学びました。当時の神聖ローマ皇帝・フリードリヒ2世は科学と数学を重んじていて、フィボナッチは宮殿に呼ばれ皇帝にも謁見しました。後にはピサ共和国から表彰もされました。


■アラビア数字

ローマ数字では「I, II, III, X, XV」のように文字を並べて記すため大きな数を扱うのには不便でした。対してアラビア数字はローマ数字に比べてとても分かりやすく、効率的で便利だったのです。そこでフィボナッチはアラビア数字を「算術の書」という書物にまとめ、母国に紹介しました。アラビア数字では0から9までの数字と位取り記数法が使われていますが、計算に使うにはとても便利だったために、ヨーロッパで広く受け入れられることになりました。


■フィボナッチ数列

「算術の書」の中には、親ウサギ・子ウサギの問題が紹介されています。

「1つのつがいのウサギは、産まれて2か月後から毎月1つがいずつのウサギを産む。どのウサギも死なないとした場合、1年の間に何つがいのウサギが産まれるか?」

1,1,2,3,5,8,13,21,34,55・・・

この数列は「隣り合う2つの数を加えると、次の数に等しくなる」という規則を持っています。
この数列はウサギの問題だけでなく、木の枝の分かれ方や花の花弁の数等、自然界にも当てはまる例が多く見られることが分かっています。この数列はインドの数学者たちの間では既に知られていましたが、ヨーロッパに紹介されたのは「算術の書」が初めてだったので、「フィボナッチ数列」と呼ばれるようになりました。


★レオナルド・フィボナッチに関する雑学

・黄金比

フィボナッチ数列の2つの連続する項の比は、次第に約1:1.618または約0.618:1に近づいていきます。この比は黄金比と呼ばれていて、人間が最も美しいと感じる比率といわれています。黄金比は以下のように様々なものに使われています。

ハガキの縦横比
ピラミッド
パリの凱旋門
パルテノン神殿
ミロのビーナスの体型

ちなみに法隆寺の五重塔や慈照寺の銀閣は1:√2の比になる構造を持っていて、これは「白銀比」と呼ばれています。この比は日本では古くから美しい比として知られていて、「大和比」とも呼ばれています。

2012年3月1日木曜日

バースカラ2世

バースカラ2世(1114年~1185年)

バースカラ2世はインドの数学者、天文学者です。


■著書「Lilavati(リラーバティ)」

バースカラ2世は「Lilavati」という算術の本を著しましたが、これは彼の娘Lilavatiのために書かれたものだという説があります。

バースカラ2世が娘の結婚について占ってみたところ、「ある特定の時刻に結婚しないと結婚後まもなく夫と死に別れる」という結果が出ました。バースカラ2 世は娘のためにその時刻を正しく計ろうと、底に小さな穴が開いた杯を水の上に沈め、予言された時刻になると杯が沈むようにしておきました。しかし娘の Lilavatiがうっかり杯を覗き込んでしまいます。その時に娘が身につけていた真珠が杯に落ち、水が正しく流れ込まなくなってしまいました。
このためLilavatiは幸せな結婚ができなくなってしまったのです。

バースカラ2世は娘を慰めるために、娘の名前で本を著すことにしました。娘の名前を後世にまで残すことで、娘の気分を和らげようとしたのです。


★バースカラ2世に関する雑学

インド宇宙研究機関が作成した人工衛星にはバースカラ1世とバースカラ2世にちなんで命名された2つの衛星があり、1号機と2号機が存在します。

2012年2月27日月曜日

ウマル・ハイヤーム

ウマル・ハイヤーム(1048年~1131年)

ウマル・ハイヤームはセルジューク朝期ペルシアの学者・詩人です。
ジャラーリー暦と呼ばれる暦を作成しましたが、これは33年に8回の閏年をおいていて、グレゴリウス暦よりも正確なものでした。彼が著した「ルバイヤート」という四行詩集は、イラン文学史に残る作品とされています。
数学では二項定理の発見や、特殊な形をしたいくつかの3次方程式の解法を幾何学的な手法を用いて示したことで知られています。


■三次方程式の解法

放物線と円の間の交点を用いて、ある特定の形をした三次方程式を解く方法を考案しました。この解法のアプローチは古代ギリシアの数学者・メナイクモスなどによって既に試みられていましたが、ハイヤームはその方法を発展させて一般化したという功績があります。


■ユークリッドを批判

ハイヤームはユークリッドの平行線の理論に対する批判書を著し、これが欧州に伝わりました。このことが後の「非ユークリッド幾何学」の発展に繋がっていくことになります。


★ウマル・ハイヤームに関する雑学

ソビエトの天文学者リュドミーラ・ジュラヴリョーワがクリミア天体物理天文台で発見した小惑星は、ハイヤームにちなんで名づけられました。

2012年2月25日土曜日

アル・フワーリズミ

アル・フワーリズミ(780年頃~850年頃)

アル・フワーリズミはアラビアの数学者、天文学者です。
アル・フワーリズミの名は「アルゴリズム」の語源となり、またその著書は「代数学(アルジェブラ)」の語源となりました。


■「アル・ジェブル・アル・ムカバラ」

アル・フワーリズミは「アル・ジェブル・アル・ムカバラ」という本を出版しましたが、これは「移項と同類項の整理」という意味です。
この本を書く際にギリシャ人の知識だけでなく、インド人の知識も取り入れました。インド人は「ゼロ」の概念を発見していて、どんなに大きな数でも0から9までの数字だけで書き表せるようになりました。これは記数法における大きな革命でした。このように、アル・フワーリズミは自著を通してインド人の記数法をヨーロッパに広めたのです。


★アル・フワーリズミに関する雑学

・代数学(アルジェブラ)の語源

「代数学(アルジェブル)」は、アル・フワーリズミの著書「al-jabr waal-muqabalah(アル・ジェブル・アル・ムカバラ)」に由来しています。「アル・ジェブル・アル・ムカバラ」はラテン語に翻訳されヨーロッパで広く読まれましたが、この時に「al-jabr(アル・ジェブル)」だけが残り、「代数学(アルジェブラ)」の語源となったのです。

また課題を解決するための計算手順や処理手順のことを「アルゴリズム」といいますが、これはアル・フワーリズミの名に由来しています。「アル・ジェブル・アル・ムカバラ」が翻訳された際にアル・フワーリズミの名も「アルゴリズム」と変えられ、アルゴリズムの語源となりました。

・algebrista(接骨医)

「algebrista」はスペイン語で代数学者の他に接骨医という意味もあります。
「al-jabr」は「復元」という意味を持ちますが、接骨医がバラバラになったものを復元するイメージに通じています。

2012年2月24日金曜日

ブラマグプタ

ブラマグプタ(598年~660年頃)

ブラマグプタはインドの数学者・天文学者です。
現在のインド中央部に位置するウッジャインという町で暮らしていましたが、その他のことはほとんど分かっていません。


■ブラマグプタの公式

円に内接する四角形の4辺の長さをa、b、c、dとするとき、四角形の面積Sは、

S=√{(s-a)(s-b)(s-c)(s-d)} (ただし s=(a+b+c+d)/2 とする)

で求めることができます。
これはヘロンの公式をブラマグプタが一般化させて得た公式で、「ブラマグプタの公式」と呼ばれています。この公式により、円に内接する四角形の4辺の長さを用いてその面積を求めることができます。
ただしブラマグプタは「円に内接する」という条件を明示しなかったため、彼が示したものは不正確なものであるとされています。


■ゼロの概念

ブラマグプタは628年に「ブラーマ・スプタ・シッダーンタ」という書物を著しました。この中で彼はゼロを数として定義し、更にはその演算結果も定義しています。「ゼロとは、ある数から同じ数を引いた答えである」、「ゼロを加えても結果は元のまま。ゼロを掛けると結果はゼロ」等の記述がありました。
ただし「ゼロ除算」についての考えは間違っており、「正または負の数をゼロで割ると、分母がゼロの分数となる。ゼロを正または負の数で割ると、ゼロになるか、またはゼロを分子とし有限数を分母とする分数になる。ゼロをゼロで割るとゼロになる」等と記述していました。

2012年2月23日木曜日

アリヤバータ

アリヤバータ(476年~550年頃)

アリヤバータはインドの数学者、天文学者です。彼はディオファントス方程式や円周率の近似値の研究で知られています。


■ディオファントス方程式の研究

一般に整数係数の多変数高次不定方程式を「ディオファントス方程式」といいますが、アリヤバータは著作「アーリヤバティーヤ」において、線型ディオファントス方程式 ay + bx = c の整数解の求め方を記しました。これはディオファントス方程式の解を連分数によって表すもので、「クッタカ法」と呼ばれています。彼はこの技法を応用して、連立線型ディオファントス方程式の整数解も求めました。更に不定線型方程式の一般的解法も発見しています。
ディオファントス方程式についての研究は、アリヤバータの純粋数学における最大の貢献とされています。


■円周率の近似値

著書の「アリヤバーティア」で、円周率の近似値を3.1416としました。どのようにしてこの値を求めたのかはこの本では明らかにされていません。
一般には円に内接する正n角形と正2n角形について、両者の周の長さの間に成り立つ関係式を利用したといわれています。ここから正384角形の周の長さを√9.8684(≒3.14156)とし、この平方根の近似値として3927/1250(=3.1416)を導いたとされています。


■アリヤバータの正弦表

アリヤバータは最も古い正弦表の一つであるアリヤバータの正弦表を作成しました。

★アリヤバータに関する雑学

インド初の人工衛星は、アリヤバータにちなんで命名されました。このアリヤバータの絵は、インドの紙幣の裏面に使用されていたことがあります。

2012年2月21日火曜日

ディオファントス

ディオファントス(200年頃~298年頃)

ディオファントスは古代ギリシャの数学者です。エジプトのアレクサンドリアに住んでいたということは分かっていますが、その他の詳細は知られていません。
ディオファントスは整数を解にもつ問題を作るのが得意でした。そのような問題は「ディオファントス問題」と呼ばれています。


■全13巻からなる大著「算術(Arithmetica)」

ディオファントスは著書の「算術」において、既に知られている問題をまとめ、更に自分でも新しい問題を作りました。この算術は翻訳され、16世紀以降のヨーロッパにおいて代数学の発展に大いに貢献することになります。
「算術」は全部で13巻から成っていましたが、残されているのは6つの巻のみで、残りの7つの巻は失われてしまいました。


★ディオファントスに関する雑学

・「算術」へのフェルマーの書き込み

「フェルマーの最終定理」(3以上の自然数nについて、x^n+y^n=z^nとなる0でない自然数x、y、zの組み合わせは存在しない)で知られる数学者ピエール・ド・フェルマーは、ディオファントスの「算術」で多くの数学的知識を学びました。フェルマーが手にした「算術」はクロード=ガスパール・バシェ・ド・メジリアクという人物によるラテン語訳のものでした。フェルマーの「私は真に驚くべき証明を見つけたが、この余白はそれを書くには狭すぎる」という有名な書き込みは、「算術」の第2巻第8問「平方数を2つの平方数の和に表せ」の欄外の余白に書き込まれたものです。
フェルマーの注釈は全部で48ヶ所にも及び、フェルマーの息子のクレマン・サミュエル・フェルマーはこの書き込みを含めて「P・ド・フェルマーによる所見を含むディオファントスの算術」として出版しました。

・墓碑銘

ディオファントスの生涯は謎に包まれており、生まれた年代もはっきりしていません。
彼の生涯については6世紀にまとめられたギリシャの詩集の中に、墓碑銘に以下のように刻まれていたという記述があります。

「このみ墓にディオファントスの眠りたまう。ああ、偉大なる人よ。
その生涯の六分の一をわらべとして過ごされ、十二分の一の歳月の後にはほぼ一面にひげが生えそろい、その後七分の一にして華燭の典をあげたまう。
結婚の後五年にして、一人息子を授かりぬ。ああ、不幸なる子よ!父の全生涯の半分でこの世を去ろうとは!
父、ディオファントスよ四年のあいだ数の学問にてその悲しみをまぎらわせ、ついに生涯を閉じたまう」

この記述が正しいとすると、ディオファントスは84まで生きたことになります。

2012年2月19日日曜日

プトレマイオス

プトレマイオス(83年頃~168年頃)

プトレマイオスは古代ローマの学者で、天文学、数学、地理を研究した他、占星術師でもありました。
彼は「地球が宇宙の中心にあり、その地球の周りを太陽やその他の惑星が回っていると」いう天動説を唱え、「アルマゲスト」を著したことで有名です。「アルマゲスト」はそれまでに知られていた天文学の知識を体系的にまとめ上げたもので、以後何世紀にも渡って天文学の教科書として使われていくことになります。


■トレミーの定理

 円に内接する四角形について、次の性質が知られています。

「円に内接する四角形ABCD において、対角線の積は対辺の積の和に等しい(AC・BD=AD・BC+AB・DC)」

これはプトレマイオスにちなんで「トレミーの定理」と呼ばれています。「トレミー」はプトレマイオスの綴りの英語読み(Ptolemy)です。


★プトレマイオスに関する雑学

・トレミーの48星座

プトレマイオスは古代ギリシャ由来の48星座をまとめ上げ、これらは「トレミーの48星座」と呼ばれています。これらに大航海時代に新たに考えられたものを加えた88星座が、現在一般的に用いられている星座名となりました。
トレミーの48星座のうちアルゴ座以外の47星座は現在まで残されています。アルゴ座は大きすぎたために、後に4つの星座(「船尾(とも)」、「帆(ほ)」、「竜骨(りうゅこつ)」、「羅針盤(らしんばん)」)に分割されました。

・「アテナイの学童」

ローマのバチカン宮殿に、ルネサンス期にイタリアの画家ラファエロ・サンティが描いた有名な絵画「アテナイの学堂」というものがあります。この絵には有名な古代ギリシアの哲学者たちが描かれていて、この絵の右下で後ろ向きで地球儀を持っている人物がプトレマイオスであるとされています。

2012年2月18日土曜日

ヘロン

ヘロン(紀元前2世紀後半~紀元前1世紀頃)

ヘロンはアレクサンドリアの工学者・数学者です。蒸気の圧力や気圧、水圧を利用した色々な装置を考案したことで知られています。サイフォンの原理を利用した「ヘロンの噴水」と呼ばれる噴水も有名です。
数学では「計量幾何学」という本を著し、様々な図形の面積の求め方を記しました。


■ヘロンの公式

「ヘロンの公式」は、三角形の三辺の長さを用いてその三角形の面積を求める公式です。
以下のようにして、三辺の長さが分かっている三角形の面積を求めることができます。

三角形の三辺の長さをそれぞれa、b、cとし、s=(a+b+c)/2とする。このとき三角形の面積Sは
S = √{s(s-a)(s-b)(s-c)}

この公式では三角形の高さは必要とされないため、土地の面積を求める際等に古くから使われてきました。この公式はヘロンの著書「計量幾何学」で証明されたためヘロンの名がつけられましたが、公式自体はヘロン以前に知られていたとされています。


★ヘロンに関する雑学

硬化投入式の自動販売機は、ヘロンが初めて考案したといわれています。てこの原理を応用し、投入された硬貨の重みで弁が開き、一定量の聖水が流れるという仕組みになっていました。ヘロンの著作「気体装置」の中でこの聖水自動販売機について、図を用いて紹介しています。ただしこの装置の発明者については、ヘロン以外の人物のものであるとする説もあります。
ヘロンの発明には、蒸気を用いた自動ドア等もあります。

2012年2月17日金曜日

ヒッパルコス

ヒッパルコス(紀元前190年頃~紀元前125年頃)

ヒッパルコスは古代ギリシャの天文学者です。彼は月や太陽までの距離を求め、恒星を記した世界最古の星表を作成しました。また恒星を6等級に分けましたが、この等級は現代でもほぼ同様のものが用いられています。
また彼は、現在の88星座のうちの46星座を設定したことで知られています。


■三角法

ヒッパルコスは天体を精密に観測するために、三角法を利用しました。
まず月が南中する時の地点と、月が地平線上に見える時の地点の2ヶ所で同時に月を観測します。そこから三角形を用いて月までの距離を計算したのです。
ヒッパルコスは角度に対する円弧の角度と弦の長さについての数表を初めて作成した人物だとされています。このため、彼は「三角法の父」と呼ばれています。

後にアレクサンドリアのプトレマイオスが「アルマゲスト」という数学と天文学の専門書を著しますが、この本の中ではヒッパルコスの文献から多くの引用がされています。
ヒッパルコスの文献そのものは残されていないため、彼の研究内容はこのアルマゲストにより後世にまで伝えられたことになります。


★ヒッパルコスに関する雑学

欧州宇宙機関が1988年に打ち上げた天体観測衛星Hipparcos(HIgh Precision PARallax COllecting Satellite)は、ヒッパルコス(Hipparchus)の名前にちなんで命名されました。
また彼にちなんで名づけられたものには、月のクレーター、火星のクレーター、小惑星もあります。

2012年2月15日水曜日

アポロニウス

アポロニウス(紀元前262年頃~紀元前190年頃)

アポロニウスは、ペルガに生まれた数学者・天文学者です。アレキサンドリアで学問を学びました。彼は円錐の断面について詳しく研究し、「円錐曲論論」という著書を残しました。


■円錐曲線

円錐を平面で切るとその断面には切り方によって「楕円」、「放物線」、「双曲線」の3種類の異なる図形が現れます。これらは円錐曲線と呼ばれますが、その基本的な性質はギリシア時代にメナイクモスによって発見されたといわれています。
しかしそれまでは3つの円錐曲線はそれぞれ直角円錐・鋭角円錐・鈍角円錐の切断面として考えられており、アポロニウスは3つ全てを一般的な任意の円錐から作り出せることを示したのです。
彼は更にこれらの図形に「楕円、放物線、双曲線」という名前を付け、それぞれの定義も与えました。


■アポロニウスの円

2つの定点A、Bをとり、その2定点からの距離の比が1ではない一定値である点P(AP:BP=m:n、m≠n、m>0、n>0)の軌跡がつくる円のことを、「アポロニウスの円」と呼びます。
このアポロニウスの円は、物理の電位について考える際にも利用されています。


★アポロニウスに関する雑学

月の東側の縁にあるクレーターには、アポロニウスにちなんで名づけられたクレーターがあります。

2012年2月13日月曜日

エラトステネス

エラトステネス(紀元前275年~紀元前194年)

エラトステネスはリビアのキュレネに生まれました。プトレマイオス3世に呼ばれて、アレキサンドリアのムセイオン(研究機関)の館長になりました。
月のクレーターや小惑星には、エラトステネスの名前がつけられたものもあります。


■地球の大きさ

エラトステネスは地球の全周を最初に測った人物です。彼はシエネのエレファンティン島とアレクサンドリアとでの夏至の正午の太陽の高度を元にして、地球の全周を計算しました。

シエナの町では夏至の日の正午に太陽の光が井戸の底までまっすぐ射し込み、底の水に太陽が映りますが、これは太陽が町の真上にあることを意味しています。
そこでアレクサンドリアで夏至の時に地面に棒を垂直に立て、影が作る角度を調べます。すると太陽が真上から7.2度傾いていることが分かりました。これがシエネとアレクサンドリアの緯度の差から生じるものとして比例式を立て、シエネとアレクサンドリアとの距離が地球の大円の1/50であることを導いたのです。
また紀元前255年頃には、初の天球儀を作成しています。


■エラトステネスの世界地図

エラトステネスは地球が球形であることを前提に地図を作りました。
この地図では経緯線に当たる線が引かれていて、アレクサンドリアとシエネは同じ線の上にあります。ただしこの直線は地図上の主要な地点を通る目安の線となっており、間隔は一定ではありませんでした。地図上に等間隔に線を引く経緯線を導入したのは、ヒッパルコスとなっています。
エラトステネスの地図は残されていないのですが、ギリシアの地理学者ストラボンが著作「地理誌」に一部を引用しており、部分的に地図の様子が分かっています。


■エラトステネスのふるい

エラトステネスは、指定された整数以下の全ての素数を発見する方法も考案しました。数の表を用い、合成数を次々に消去していき素数だけを残す方法ですが、数をふるいにかけるようなイメージを持つため「エラトステネスのふるい」と呼ばれています。


★エラトステネスに関する雑学

月の雨の海の南東にあるクレーターには、エラトステネスにちなんで名づけられたものがあります。このクレーターは、約32億年前に形成されたことが分かっています。
またパロマー天文台のトム・ゲーレルスとライデン天文台のファン・ハウテン夫妻が発見した小惑星も、エラトステネスの名がつけられました。

2012年2月11日土曜日

アルキメデス

アルキメデス(紀元前287年~紀元前212年)

アルキメデスは地中海にあるシチリア島のシラクサで生まれました。父親は天文学者で、アルキメデスは父親から多くのことを学びました。
アルキメデスは非常に優秀な数学者であり、また他の分野にも秀でていました。当時学問の中心であったエジプトのアレクサンドリアに留学し、その後はシラクサで過ごしました。数学では図形や回転体の面積・体積を求積法により求めたため、定積分法の祖といわれています。

第2次ポエニ戦争でシラクサの街が占拠された時、アルキメデスは地面に幾何学図形を描き思索にふけっていました。兵士はアルキメデスを連行しようとしたのですがアルキメデスが従わなかったため、兵士によって命を絶たれてしまいました。将軍はアルキメデスが優秀な科学者だということを知っていて「生きたまま丁重に迎えるように」という命令を下していたため、この知らせに激怒したといわれています。
兵士がアルキメデスを連行しようとした時に「私の図形を踏むな」と兵士に言ったという説もありますが、定かではありません。


■黄金製の王冠

シラクサの王ヒエロンは、ある時金細工師に金の王冠を作らせました。その王冠を見て「金の代わりに銀を混ぜて誤魔化しているのではないか」と疑った王は、アルキメデスに「黄金製の王冠に銀が混ぜられていないかを、王冠を壊さずに調べる」という依頼をします。

アルキメデスはこのことについて、入浴中にヒントを得ました。自分が浴槽に入ると水面が上昇することに気づいたのです。王冠を水槽に沈めれば王冠と同じ分だけ水面が上昇するため、これを利用して王冠の体積を測ることに成功しました。
王冠の重量とこの体積の比を元に密度が求められるため、もしも金よりも比重が軽い別の金属が混ざっていれば容易に判別がつくことになります。
アルキメデスはこのことに気づいた時に喜びのあまり「ヘウレーカ!(「わかった!」)」と叫びながら、服も着ずに裸のままで街を走り回ったという逸話が残っています。


■円周率

アルキメデス以前の時代では円の円周率はだいたい3であることが縄を使って知られていました。
彼は計算によって、これを「3と10/71(約3.14085)」と「3と1/7(約3.1426)」の間にあることまで求めました。
アルキメデスはまず円に内接する多角形と外接する多角形を作り、辺の数を多くすればするほどその形と面積が円のものに近づく、という方法で近似値を計算したのです。


■球と円柱

アルキメデスは球とその球に外接する円柱について、体積と表面積の比は常に2:3になることを発見しました。体積は球が4/3πr^3、円柱が2πr^3、表面積は球が4πr^2、円柱が6πr^2となります。


■てこの発見

支点(てこを支える点)の両側に重さの違うおもりを乗せた時に、どのようにすればてこがつりあうかの条件をアルキメデスが明らかにしました。更にアルキメデスはてこを使用した様々な発明をしました。
「我に支点を与えよ。さすれば地球を動かしてみせよう」という言葉を残したといわれています。


★アルキメデスに関する雑学

・フィールズ賞のメダル

「数学のノーベル賞」といわれているフィールズ賞ですが、受賞者に贈られるメダルには表にアルキメデスの横顔、裏には彼が球と円柱の関係を発見したことにちなんで球と円柱の絵が刻まれています。

・月のクレーター、小惑星

月のクレーターと小惑星には、アルキメデスの名がつけられたものがあります。

2012年2月9日木曜日

ユークリッド

ユークリッド(紀元前300年頃~紀元前275年頃)

ユークリッド(エウクレイデス)は古代ギリシャの幾何学者です。非常に有名な数学者ですが、その生涯についてはほとんど分かっていません。ユークリッドは当時知られていた数学の知識をまとめあげ整理し、「原論」という全13巻の書物に著しました。この「原論」は、数学史上で最も重要な著作物の一つであるとされています。

エジプトのプトレマイオス一世は学問を重要視し、首都アレクサンドリアを世界の学問の中心とするために様々な方策を打ちました。新しく大学を設立したこともその一つですが、この時に招かれた学者のうちの一人がユークリッドでした。ユークリッドはアレクサンドリアの地で数学を教える傍ら、研究を続けていくことになります。
プトレマイオスはユークリッドから幾何学を学んでいましたが、ある日「もっと簡単に幾何学を学ぶ近道はないのか」と聞いたところ、ユークリッドは「幾何学に王道なし」と答えたという逸話があります。


■世界一有名な教科書「原論」

ユークリッドは当時知られていた幾何学上の事実を、5つずつの公理と公準から演繹される定理の集合として体系化しました。これを書物としてまとめたものが「原論」で、数学史上最も重要な著作の1つとされています。それだけではなくこの「原論」は、様々な国の言語に翻訳・出版され世界に広まり、聖書に次ぐベストセラーと言われています。

「原論」はこれ以後二千年以上も、教科書として使われることになります。「原論」は幾何学的なことだけでなく、哲学や論理学の内容も含んでいたため、世に広く受け入れられることになりました。
「原論」でまとめられた幾何学体系は、今日では「ユークリッド幾何学」と呼ばれています。
この功績により、ユークリッドは「幾何学の父」と呼ばれています。


■「原論」の23の定義、5つの公理、5つの公準

「原論」の第1巻のはじめには、23の定義、5つの公理、5つの公準が掲げられています。
定義は「1.点とは部分をもたないものである」からはじまり、「23.同一の平面上にあり両側へどれだけ延長しても交わらない2直線は平行線と呼ばれる」まで があります。
公理と公準は次のようになっています。

公理1
同じものに等しいものは、互いに等しい
公理2
等しいものに等しいものを加えると、その和もまた等しくなる
公理3
等しいものから等しいものを引くと、その差もまた等しくなる
公理4
互いに一致するものは互いに等しい
公理5
全体は部分よりも大きい

公準1
任意の点から他の任意の点へ、ただ一本の直線を引くことができる
(どの点からどの点へも直線が引くことができる)
公準2
有限の線分は、これが直線となるように連続的に延長することができる
(直線はどこまでものばすことができる)
公準3
任意の点を中心とし、任意の長さを半径として一つの円を描くことができる
(点と半径が決まれば円がかける)
公準4
全ての直角は互いに等しい
公準5
一本の直線が他の二直線と交わり、同じ側にある内角の和が二直角より小さい場合は、これらの二直線を限りなく延長すれば内角の和が二直角よりも小さい側で交わる

ユークリッドの5つの公準のうち、最初の4つはとても分かりやすいものになっています。しかし第5公準だけは分かりにくく、公理や他の4つの公準を用いて証明できるのではないかといった見方も出てきました。
しかしユークリッド以後二千年余りが経っても第五公準の証明はできず、19世紀にロシアの数学者・ニコライ・イワノビッチ・ロバチェフスキーが新たな見方(「非ユークリッド幾何学」と呼ばれることになります)を提案するまで時を待つこととなります。


★ユークリッドに関する雑学

・「原論」の写本

エジプトのオクシリンコス遺跡からは歴史的に重要なギリシャの文書が多く発見されましたが、その中にはユークリッドの「原論」の写本もありました。これは現存する最古のものとなっています。

・「アテナイの学童」

ルネサンス期にイタリアの画家ラファエロ・サンティが描いた有名な絵画に、「アテナイの学堂」というものがあります。この絵には有名な古代ギリシアの哲学者たちが描かれているのですが、その中の一人がユークリッドであるといわれています。
絵画の右下に数人の人物がおり、その中に右手にコンパスのようなものを持ち床に置かれた板にかがんで図形を書いているように見える人物がいるのですが、それがユークリッドであるとされています。ただしこれはアルキメデスである、とする説もあります。

2012年2月6日月曜日

エウドクソス

エウドクソス(紀元前408年頃~紀元前355年頃)

エウドクソスは小アジアのクニドスの生まれで、ピタゴラス学派のアルキュタスの元で学びました。長年の間エジプトで暮らし、天文学について研究しました。
地球が中心にあり、他の天体は地球の周りを回っているする「同心天球説」を唱えたことで有名です。この考え方は、後にアリストテレスに影響を与えることになります。


■錐体、球体の体積についての証明

「錐の体積は、同じ底面を持つ柱の体積の3分の1である」ということを最初に述べた人物はデモクリトス(紀元前460頃~紀元前370頃)ですが、エウドクソスはこのことについての証明を行いました。また、「球の体積はその直径の3乗に比例する」ということも証明しました。
数学での功績については比例論もあります。
エウドクソスは多くの定理を発見しましたが、後にユークリッドが「原論」の中でまとめて紹介しました。


■取り尽し法

図形に内接するような多角形を描き、それらの面積を元の図形に近づけていく方法です。
エウドクソスはこの取り尽し法を用いて、球や錐の体積の求め方を証明しました。


★エウドクソスに関する雑学

・黄金比

1:(1+√5)/2 ≒ 1:1.618 は、人間が本能的に美しいと感じる比率だとされています。この比率は「黄金比」と呼ばれていますが、この黄金比を発見したのがエウドクソスであるといわれています。
「黄金比」という名前を付けたのはイタリアのレオナルド・ダ・ヴィンチであるという説もありますが、1835年刊行のドイツの数学者マルティン・オームの著書「初等純粋数学」に、「黄金比」という言葉が既に登場しています。
 この黄金比はパルテノン神殿、ミロのヴィーナス、パリの凱旋門などの人工物の他、ひまわりの種、松ぼっくりのかさなど自然界にも多く見られます。

2012年2月4日土曜日

プラトン

プラトン(紀元前427頃~紀元前347頃)

プラトンはアテナイの生まれで、ソクラテスの弟子となり哲学を学びました。アリストテレスの師でもあります。プラトンはイタリア、シチリアを訪れ、ピタゴラス学派から知識を学んだといわれています。
プラトンは師であるソクラテスの哲学を基にして、古代ギリシアの伝統的な徳とは何かについて考えました。後には目に見える「現実の世界」と、そのもとになる真実の世界「イデア界」に分けるというイデア論を述べました。


■アカデメイア

プラトンは紀元前387年に、アテナイの郊外にアカデメイアという学校を設立しました。アカデメイアでは哲学、政治学、天文学、生物学、数学等の様々な学問が教えられましたが、そこでは対話が重んじられ、教師と生徒の問答によって教育が行われたといわれます。アリストテレスもこのアカデメイアに入学し、プラトンの弟子となりました。
アカデメイアの門には「幾何学を知らざるものは、この門をくぐるべからず」という文言が掲げられていたといわれています。


■プラトン数

プラトンは「国家論」の中で、「12960000」という数について「西洋における聖なる数である」と述べています。216に60000をかけると12960000になりますが、この216という数については以下のように色々な解釈がされています。

・3、4、5(宇宙の要素を現すとされていた数)を用いて「3^3+4^3+5^3=216」と表される
・結婚数と呼ばれていた6(男性数3、女性数2)を用いて「6^3=216」と表される
・調和数35と結婚数6を用いて「35×6+6=216」と表される


■プラトンのラムダ

プラトンの著書「ティマイオス」には「プラトンのラムダ」という数が出てきます。一番上に1、左下方には2の倍数(2、4、8……)、右下方には3の倍数(3、9、27……)と配置していき、三角形を作ります。「ラムダ」というのはギリシャ文字の「Λ」(λ)のことで、この形のような三角形ができあがります。

1
2 3
4   9
8     27

またこの間にある数についても、「左下方には2の倍数」「右下方には3の倍数」という規則にしたがって埋めていくこともできます。

1
2 3
4 6 9
8 12 18 27

これらの三角形は、規則を崩さずにいくらでも下方に伸ばしていくことができるのです。


■プラトン立体

「全ての面が同一の正多角形で構成されていて、なおかつ全ての頂点において接する面の数が等しい凸多面体」を「正多面体といいます。
正多面体には正四面体、正六面体、正八面体、正十二面体、正二十面体の5種類がありますが、これらについて研究をしたプラトンの名にちなんで「プラトン立体」と呼ばれています。
ピタゴラス学派はこの5種類の立体を「火は正四面体、空気は正八面体、水は正二十面体、土は正六面体の要素から成り、創造者は宇宙全体を正十二面体に考えた」と考えましたが、プラトンはその著書「ティマイオス」にこのピタゴラス学派の説を記しました。


★プラトンに関する雑学

・プラトンの本名

プラトンは祖父の名前にちなんでアリストクレスと名づけられましたが、立派な体格をしていて肩幅も広かったために、「大きい」という意味を持つ「プラトン」と呼ばれるようになり、以降その名で通るようになりました。

・月のクレーター

月の表側、雨の海の北東の沿岸に位置するクレーターは、プラトンにちなんで命名されたものがあります。

・「アテナイの学童」

ルネサンス期にイタリアの画家ラファエロ・サンティが描いた有名な絵画に、「アテナイの学堂」というものがあります。この絵には有名な古代ギリシアの哲学者たちが描かれていて、絵の中央の二人の人物のうち左側がプラトンであることが分かっています。プラトンが手に持っているのは、プラトンの著書「ティマイオス」です。
この絵に描かれている人物はラファエロと同時代の人物がモデルとなっていて、プラトンのモデルはレオナルド・ダ・ヴィンチであるとされています。
またプラトンと並んで階段を下りているのはアリストテレスで、「プラトンの哲学は中傷的であったので天を指さし、アリストテレスの哲学は現実的であったので地を指さしている」とする説があります。

2012年2月3日金曜日

アルキタス

アルキタス(紀元前428年~紀元前347年)

アルキタスは古代ギリシアの哲学者、数学者、天文学者です。数学を機械学に初めて応用した人物であるといわれています。


■立方体倍積問題

三大作図問題の1つに立方体倍積問題があります。立方体倍積問題とは「与えられた立方体の2倍の体積をもつ立方体を作る」というものです。
アルキタスは紀元前4世紀に、回転体の3つの面の交点としてこの立方体倍積問題を解いたといわれています。

立方体倍積問題についてはフランスの数学者ピエール・ヴァンツェルが1837年に、2の立方根は作図可能数ではないことから、定規とコンパスによる作図は不可能であることを証明しました。


★アルキタスに関する雑学

月のクレーターには、アルキタスにちなんで名付けられたものがあります。


★アルキタスに関する備考

Archytas
生没年:紀元前428年~紀元前347年
生まれ:マグナグラシア、ターレス
父:ムネサゴラスまたはヒスティアイオス
母:不明

2012/07/28更新

2012年2月2日木曜日

デモクリトス

デモクリトス(紀元前460頃~紀元前370頃)

古代ギリシア時代のエーゲ海北岸、トラキア地方・アブデラの生まれで、原子論者として有名です。レウキッポスを師とし、彼とともに古代原子論の祖といわれています。
デモクリトスは大きな財産を相続し、その財を資金に色々な土地を旅し、多くの学識者と交流を持ちました。しかし最後は財産を使い果たし、故郷で兄弟に養われたようです。彼は陽気な性格だったために「笑う哲学者」とも呼ばれました。


■アルケーはアトムである

デモクリトス以前にも多くの哲学者たちが「アルケー(万物の根源)とは何か」ということを考えてきましたが、デモクリトスは「万物は原子(アトム)から成り立っている」としました。「アトム」とは分割不可能な物質の単位で、その存在と運動の場所として上下のない「空虚」の中で、生成や消滅などの現象が起こる、と考えたのです。
しかし当時のギリシアではデモクリトスの考えは受け入れられず、彼が著したとされる約70冊の本も残されていません。デモクリトスとほぼ同じ時代の哲学者としてプラトンがいますが、プラトンはデモクリトスの学説を否定し、彼の書物を焼き払ったとまでいわれています。その後アリストテレスが登場し、万物の根源についての説としては「四大元素」が主流になっていきます。

デモクリトスの説については後にローマの哲学者で詩人でもあるルクレティウスが「物の本質について」という詩物語を書き、その中でデモクリトスの原子説を紹介しています。この本は評判を呼び、写本が数多く作られました。1400年代に活版印刷術が発明されるとその初期に印刷されたものの中に、この「物の本質について」も入っていました。
このようにして、デモクリトスの原子説は後世に伝えられることとなったのです。


■錐の体積

「錐の体積は、同じ底面を持つ柱の体積の3分の1である」ということが知られていますが、このことについて最初に述べた人物がデモクリトスである、とアルキメデスの「方法論」の中に記されています。証明自体は約50年後のエウドクソスが行いました。
他にも数学では幾何学についての著作が多数あったとされていますが、残されていません。一説には50以上もの著作があったといわれています。


★デモクリトスに関する雑学

・名言

「いかなることも偶然には起こりえない」、「多くの愚者を友とするより、一人の知者を友とするべきである」等、デモクリトスは多くの名言を残しています。

・月のクレーター、小惑星

月の表側、北部にあるクレーターには、デモクリトスにちなんで名づけられたものがあります。
このクレーターは氷の海の北に位置しています。
またエリック・エルストがヨーロッパ南天文台で発見した小惑星も、デモクリトスの名がつけられています。

2012年1月31日火曜日

ゼノン

ゼノン(前490頃頃~前429年頃)

ゼノンは南イタリアにあるギリシアの小都市・エレアの生まれです。当時の南イタリアでは大きな学派が二つあり、ゼノンはエレア派に属していました。エレア派は紀元前5世紀の初期に、パルメニデスという人物によって開かれた学派です。パルメニデスはギリシアの哲学者ですが、ゼノンは彼の養子となり、彼の元で多くのことを学んだといわれています。

当時のエレアはネアルコスという僭主に支配されていました。ゼノンは仲間と共にネアルコスを打ち倒そうとしましたが、捕らえられてしまいます。同志や計画について尋問されますが、打ち明け話があるふりをしてネアルコスに近づき耳に噛みついて、命を絶たれるまで離さなかったという逸話が残っています。


■帰謬法

「Aが真である」ということを示すために、一旦「Aは真ではない」と仮定しておいて、その過程に基づいて論理的に議論を展開していくと矛盾が生じることを示す、という方法があります。「Aは真ではない」と仮定して矛盾が起こるということは、「Aは真ではない」と仮定したことが間違っていた、つまり「Aは真である」ということになるのです。
これは帰謬法(背理法)といって現在の証明問題でも大いに使われている方法ですが、この帰謬法を初めて用いたのがゼノンです。アリストテレスはゼノンのことを「弁証法の祖」と呼びました。


■ゼノンのパラドックス

「一見正しそうに見える論証から受け入れがたい結論が導かれる」ものを「パラドックス」といいます。ゼノンはこのパラドックスの例をいくつか挙げたことでも有名です。「ゼノンのパラドックス」と呼ばれているものの一つに、「アキレスと亀」があります。

アキレス(アキレウス)というのはギリシャ神話に登場する俊足の英雄です。このアキレスと亀が競争し、ハンデをつけてアキレスのスタート地点は亀のスタート地点(地点A)よりも少し後ろにするとします。
両者のスタート後、アキレスが地点Aに着いた時には亀はいくらか先に進んでいて、その場所を地点Bとします。この後アキレスが地点Bに着いた時には亀は更に少し先の地点Cに着いていて、……というように同じことの繰り返しになり、この理屈でアキレスは永遠に亀を追い越せない、ということになります。

現実には亀を追い越せないというようなことは起こりえませんが、ゼノンはこのような運動に関するパラドックスをいくつか考え出しました。これらは後年にアリストテレスが「自然学」の中で紹介したことで、世に知られています。
「運動のパラドックス」には、上記の「アキレスと亀」の他に「二分法」、「飛んでいる矢は止まっている」、「競技場」と合わせて全部で4つがあります。


★ゼノンに関する雑学

・「アキレスと亀のパラドックス」に対する、無限等比級数を用いた解釈

「アキレスと亀のパラドックス」については、無限等比級数を用いると次のようにして「アキレスは亀に追いつける」とできます。

まずアキレスの速度を v とし、亀の速度はアキレスの速度のk倍、つまり kv とします。kについては亀はアキレスよりも遅いので 0<k<1 となります。また亀はアキレスよりも、はじめに距離Lだけ前にいるとします。

アキレスと亀が同時にスタートし、アキレスが亀のスタート地点まで到達する時間は L/v だけかかりますが、その時亀はアキレスよりも kv×L/v = kL だけ前方に進んでいます。
アキレスがその亀の位置まで到達する時間は L/v×k 後となり、その時亀は更に k^2×L だけ前方に進みます。これを無限に繰り返していくと、アキレスが亀の位置まで到達する時間の合計は

L/v + L/v×k + L/v×k^2 + L/v×k^3 +……

つまり

[{1-k^(n+1)}×(L/v)]/(1-k) となります。

ここで 0<k<1 より k^(n+1)の部分は0となり、上記の和は (L/v)/(1-k) という定数となります。


・量子ゼノン効果

量子物理学において、「粒子等の状態を頻繁に観測すればするほど、それが初期の状態から別の状態に移る確率が減少していく」という予測があります。これはゼノンの「飛んでいる矢も止まっている」というパラドックスにちなんで、「量子ゼノン効果」と呼ばれています。

2012年1月29日日曜日

ピタゴラス

ピタゴラス(紀元前582年頃~紀元前496年頃)

ピタゴラスはギリシアのエーゲ海東部に浮かぶ島・サモス島に生まれました。
彼は数に特に興味を示し、「万物は数である」という考えの下、数についての研究に打ち込みました。
また音楽についても多大なる貢献をし、弦楽器が美しい協和音を奏でる時は2つの弦の長さは簡単な整数の比で表される、ということを発見したのもピタゴラスです。


■数の研究

彼は二十年ほど色々な地を訪れ、世界で知られている数学的知識を身につけたといわれています。その後は学問所を作るために故郷のサモス島に帰還したのですが、ピタゴラスがサモスの地を離れている間に、島は僭主ポリュクラテスに支配されてしまっていました。

ピタゴラスはポリュクラテスの家臣になるように誘われましたが、彼はこれを断り、島のはずれの洞窟に移り住みました。自由を奪われると考えたのです。そこでピタゴラスは研究の邪魔をされないようにと、しばらくの間隠れ家の洞窟で暮らしました。
この後はイタリア南部のクロトンという地に移り住みますが、そこでミロンという有力者の支援を得て、「ピタゴラス教団」という学問所を設立することになります。


■ピタゴラス学派

ピタゴラス教団は600名もの弟子がいたとされています。
教団は平等主義で相応の頭脳を持ち合わせている者ならば入門を許され、女性の弟子もいました。しかし平等であると同時に秘密主義でもあり、弟子達は数学上の発見を外部に漏らすことは決して許されなかったといわれます。この掟を破った者は命を絶たれたことすらあったのです。
更には教団が数学的成果を外部に分け与えなかったために周囲からの疑念や嫉妬を招き、それが後の悲劇に繋がったとの見方もあります。


■ピタゴラスの定理(三平方の定理)

「直角三角形の斜辺の二乗は、他の二辺の二乗の和に等しい」

この定理が述べている事象は、ピタゴラス以前にもバビロニア等で利用されていました。しかしこの定理が全ての直角三角形で成り立つことは知られておらず、これをピタゴラスが証明したためにピタゴラスの名がつけられました。ピタゴラスは、タレスから始まった演繹的手法を用いてこの定理を証明したのです。ピタゴラスがどのように証明したのかは分かっていないのですが、ピタゴラスの定理の証明法は現在では200以上あると言われています。
このように論理的な証明手法を用いて、ピタゴラス教団では数学的真理を探究していくことになります。


■無理数の存在は認めなかった

直角を挟む2辺の長さが1である直角二等辺三角形があるとします。この斜辺の長さはピタゴラスの定理により、√2であることが分かります。この√2や√3等は無理数と呼ばれています。
上記のように無理数の存在はピタゴラスの定理が示しているにもかかわらず、ピタゴラスは「全ての数は2つの整数の比で表される」という考えを持っていたために、無理数の存在は認めませんでした。


■ピタゴラス教団の終焉

紀元前510年頃、クロトンに近いシュバリスという町で反乱が起こりました。クロトンも侵攻を受けましたが、ミロンが優れた統率力を発揮し、勝利を収めます。
こうして戦いは終わりましたが、戦利品や奪った土地がピタゴラス教団を含む選ばれた人々だけに与えられてしまうのではないかという危惧が、町の人々の間に生まれはじめました。ピタゴラス教団の徹底した秘密主義が、人々の不信を招いたのです。

ここでキュロンという、以前ピタゴラス教団への入門を断られた人物が人々の前に現れます。このキュロンが民衆の声を代弁して、人々を扇動しました。ついには学問所に火が放たれ、この時にピタゴラスは多くの弟子たちと共に命を落としたといわれています。

ピタゴラスは悲劇的な最後を迎えましたが、数学的証明という概念は受け継がれ、世界に広がっていくことになります。


★ピタゴラスに関する雑学

・ピュタゴリアン

菜食主義の食生活をする人のことを「ベジタリアン」といいますが、以前はピタゴラスにちなんで「ピュタゴリアン」と呼んでいました。ピタゴラスは菜食主義だったために彼にちなんでこのように呼ばれていたのですが、1847年9月30日に英国ベジタリアン協会が設立された際に「ベジタリアン」という言葉が作られました。
これはラテン語の「Vegetus(活気のある、生命力にあふれた)」という言葉が語源なのですが、野菜の「ベジタブル」も連想される分かりやすい言葉だったために、以降は「ベジタリアン」の呼称の方が主流となりました。

・ピタゴリオン

ピタゴラスはエーゲ海東南部にあるサモス島に生まれましたが、彼にちなんで1955年に町名がピタゴリオンと名づけられました。
サモス島のピタゴリオンとヘラ神殿は、1992年に世界遺産に登録され、文化遺産となっています。

・「アテナイの学童」

ルネサンス期にイタリアの画家ラファエロ・サンティが描いた有名な絵画に、「アテナイの学堂」というものがあります。この絵は1509年と1510年の間に描かれたもので、有名な古代ギリシアの哲学者たちが描かれています。
この絵の左下に開いた書物に目を通している人物がおり、それがピタゴラスであるとされています。

2012年1月27日金曜日

アナクシメネス

アナクシメネス(紀元前585年頃~紀元前525年頃)

アナクシメネスはアナクシマンドロスの弟子であり、タレスやアナクシマンドロスに続いて、「アルケー(万物の根源)とは何か」について考えた人物です。アナクシメネスはタレス、アナクシマンドロスよりも後の時代の人物なのですが、その生涯についての資料は3人の中で一番少ないとされ、謎に包まれています。


■アルケーは空気である

アルケーについては、タレスは「水」、アナクシマンドロスは「無限なもの」としましたが、アナクシメネスは「アルケーは空気である」としました。アナクシマンドロスはアルケーを限りがないものとして考えましたが、アナクシメネスは逆に限りのあるものだと考えたのです。

彼は「全てのものは空気から生じ、空気へと還っていく」と考え、更には「空気の濃さによって、形を変えていく」と考えました。
空気が薄くなると「火」を生じ、逆に空気が濃くなるとその程度によって「風」→「雲」→「霧」→「水」と姿を変え、更には「土」→「石」といった固形物にもなるとしたのです。アナクシメネスはこのように、「空気」という一つのものが変化することにより、様々なものが生み出されるという独自の考えを示しました。


■「万物は数である」―ピタゴラスへ―

タレス、アナクシマンドロス、アナクシメネスを代表とするミレトス学派の哲学者たちにより、「万物の根源とは何か」について考える流れが生まれました。そしてこの後には「万物は数である」という思想を柱とするピタゴラス学派が登場し、数学の飛躍的な発展に繋がっていきます。


★アナクシメネスに関する雑学

月の表側にあるクレーターには、アナクシメネスにちなんで名前がつけられたものもあります。
このクレーターは月の北部にあり、地球から見た時の位置は北北西の縁の付近になります。

2012年1月25日水曜日

アナクシマンドロス

アナクシマンドロス(紀元前610年頃~紀元前546年)

アナクシマンドロスについては資料がほとんどありません。天体の運動や気象等の自然現象についての本を記したとされていますが、これらも現在には残されていないのです。
アナクシマンドロスはミレトスに住んでいたようで、タレス、アナクシメネスと共に「ミレトス学派」に分類されています。タレスとともに「最初の哲学者」とされることもが多いようです。初めて天球儀を作った人物としても有名です。


■「万物の根源(アルケー)」とは何か

アナクシマンドロスもタレス同様に万物の根源は何であるかについて考えましたが、「万物の根源」という概念を「アルケー」という言葉で表したのがアナクシマンドロスであるとされています。一説ではアナクシマンドロスはタレスの弟子であるとされているのですが、確かな資料は残っていません。

タレスはアルケーを水であるとしましたが、アナクシマンドロスは万物の根源は「無限なるもの」であると考えました。その理由は次のようなものが挙げられます。

・水は世界にたくさんあるとはいえ限りのあるもの、水のように有限なものが万物の根源であるとは考えられない

・水がアルケーであるならば、水からその反対の性質を持つ火が生成されるのはおかしい

・万物の根源は、この世界に目に見える形で存在するような特定のものであるはずがない

更には「水と火」のように、有限なものにはそれと相対する関係にあるものが必ず存在すると考えました。そのような相反する両者をアルケーは生み出さなければならず、ならばアルケーは「ものが相反する状態になる以前の状態」、「対称性を超えるもの」でないといけないと考えたのです。この考えが「アルケーは無限なるもの」という結論に繋がりました。


■「無限」という抽象性

タレスがアルケーであるとした「水」は元から自然界に存在し目にも見えるものでしたが、アナクシマンドロスがアルケーであるとした「無限のもの」は、抽象的な概念であるところが画期的でした。
この「抽象的なもの」を考察の対象にするということは、数学においても重要な要素となっていきます。


★経歴

生没年:紀元前610年頃~紀元前546年
生まれ:ミレトス(現在のトルコ西岸)


更新履歴
2020/11/17 経歴追加
2012/01/25 記事投稿

2012年1月24日火曜日

タレス

タレス(紀元前624年頃~前546年頃)

タレスは「最初の哲学者」と呼ばれ、数学者としてよりも哲学者として有名です。タレスの数学的功績としては、エジプトの測地術を幾何学という学問に高め人々に広めたことや、演繹的手法と呼ばれる考え方を取り入れたことが挙げられるでしょう。


■幾何学への貢献

タレスはギリシアにあるミレトスという都市国家に生まれました。ミレトスというのは現在のトルコ西岸、エーゲ海に面した場所にあります。彼は若い頃にバビロニアで天文学を、エジプトで幾何学を学んだといわれています。

エジプトではナイル川が毎年のように氾濫していましたが、氾濫する時期を予測するために天文学が発達していました。また氾濫が収まった後には農地を元通りに分配し直さないといけません。そのために土地の測量技術が発達していましたが、タレスはその測量術を応用して様々な幾何学的手法を発見していきました。
例えば自分の影の長さと身長とを対比させて、ピラミッドの影の長さからピラミッドの高さを求める方法を考えたのもタレスです。このように、タレスはエジプトの測量術を幾何学という普遍的学問としての域にまで高めたとされています。

またミレトスへと帰った後は天文学や幾何学について学んだ知識をミレトスの人達に話して聞かせましたが、学んだことをそのまま伝えるだけではありませんでした。学んだことを自分でも工夫をして発展させ、役に立つ様々な新しい方法を考え出したのです。

タレスが証明した幾何学的な定理としては「直径に対する円周角は直角である」というものがあり、これは「タレスの定理」と呼ばれています。タレス自身が円周上の点と円の中心を結び、2つの二等辺三角形を作ってこの定理を証明したためにタレスの名がつけられたのですが、タレスの定理と呼ばれるものはこの他にも全部で5つあります。


■「万物は水である」―観察による法則の発見―

当時の人達の間では、世界を構成する物は「神」が作ったものだと考えていました。
しかしタレスはエジプトを訪れた時にナイル川が氾濫し、陸地が水におおわれ、水が引いていくとその跡に新しい土が堆積しているのを見て、「陸は水が作ったものだ」と考えるようになったのです。更には海や陸からの水蒸気が空に上り、それが雨となりまた地上に降ってくるということから、「空も水で作られている」、「全宇宙は水から成っている」と考えるようになりました。「万物は水である」というのはタレスの有名な言葉です。
このように「神話的思考」から脱却し、ある事象を観察し自然法則を導くという「自然科学的方法」を初めて体現したのがタレスであると言われています。


■演繹的思考法

数学的な議論をするには、「既に知られ認められている知識から出発して、筋道の通った論理を積み重ね、最後の結論を導く」という演繹的手法を身につけていることが大切になります。このような演繹的手法を考案したのもタレスであると考えられています。
タレスは演繹的思考法を用いて、「二等辺三角形の二つの底角は等しい」といった幾何学の定理をいくつか導いたとされています。
この演繹的思考法はギリシアの数学者ピタゴラスやユークリッドに受け継がれ、数学の発展に大いに貢献していくことになります。


★タレスに関する雑学

・静電気の発見

タレスの生きた古代ギリシャの時代では、人々は琥珀を用いて作ったアクセサリーをお洒落の一つとして身につけていました。しかしこの琥珀はすぐに埃がついてしまい、その埃を落とすために擦ると余計に埃がついてしまいます。これは静電気によるためだったのですが、当時は静電気の性質については知られていませんでした。
ここで不思議に思ったタレスは色々な実験をして、琥珀を擦ると物を引き寄せる力が発生することを突き止めたのです。この静電気の性質が初めて記録されたものが、タレスによるものとなっています。

しかしタレスは琥珀を擦って発生する力は磁力と同じものだと考えており、電気現象と磁気現象が区別されるのは16世紀のジェロラモ・カルダーノを待つこととなります。


★タレスに関する備考

生没年:紀元前624年頃~前546年頃
生まれ:ミレトス(現在のトルコ西岸)
父:エクサミュアス
母:クレオブゥリネ

2012年1月23日月曜日

ミレトス学派の哲学者

■「三人の哲学者」

紀元前6世紀頃のミレトスという都市国家に、タレス、アナクシマンドロス、アナクシメネスという三人の哲学者が現れました。
ミレトスは現在のトルコ西岸、エーゲ海に面した場所にあったイオニア人の都市国家です。当時のミレトスは地理的な関係から、近隣諸国が地中海で交易を行う上での重要な拠点となっていて、交易の際には様々な国の人々がミレトスを訪れ文化交流も盛んに行われました。
このような状況の下で哲学が発展していったのですが、哲学的な問いが数学的な概念の発生につながったことも見逃せません。この頃の時代では、哲学者であると同時に数学者でもあった人物が多いのです。

■「ミレトス学派」

タレス、アナクシマンドロス、アナクシメネスの三人の哲学者は、宇宙を構成する「万物の根源(アルケー)」は何であるかを考えました。

彼らがアルケーについての考えを示すまでは、「世界は神が作ったもの」と考えるのが当たり前でした。しかしタレスたちはこの考え方から脱却し、アルケーについて、タレスは「水」、アナクシマンドロスは「無限のもの」、アナクシメネスは「空気」であると考えたのです。これらは彼らが「自然を観察すること」により導いた結論だったのです。

「神」については、誰もが納得するような合理的な説明をすることはできません。そのような考え方から脱却して、彼らは物質を構成するものについて合理的に説明しようとしたところが画期的でした。このような画期的な観点から、三人は今では「最初の哲学者」と呼ばれ、ミレトス学派に分類されています。そして彼らのように観察主義的な方法をとる姿勢が、以降の数学の発展に大きな影響を与えていくことになります。

次回からはミレトス学派の三人、タレス、アナクシマンドロス、アナクシメネスについて見ていきます。

2012年1月22日日曜日

歴史上の数学者たち

皆さんは歴史上の数学者たちに、どのようなイメージを持っているでしょうか?
数学は「紙と鉛筆さえあれば学ぶことができる」ともよくいわれます。このため「数学を研究する人は、机に向かって一人でひたすら紙の上で難しい計算をしている」といった、いわゆる「数学が得意な人は冷静沈着」、「数学はインドアで孤高な学問」というイメージを持っている方も多いかもしれませんね。

もちろんそういった人物もたくさんいたでしょう。現に歴史に残るような数学的大発見を、十年単位の歳月をかけてほぼ一人でなし得た人物もいます。
しかし現在では数学の研究は非常に細分化されているため、化学や物理等の他の学問と同様、研究者同士で情報を交換し協力しあい、常に最先端の知識を得る努力をしなければいけないといわれています。

今日の世界ではインターネットも発達していて、遠く離れた他国の研究者と交流をたくさん持つこともそれほど難しい話ではありません。昔からの学術的資料もたくさん残っています。しかしインターネットどころか航海技術や出版技術すらも発達していなかった時代には、数学者たちはどのようにして色々な数学的知識を身につけ、高めていったのでしょうか。また誰かが発見した数学的知識は、どのようにして世界に広がっていったのでしょうか。

数学の歴史は紀元前の時代にまでさかのぼります。
公開の場で数学の問題をいくつか互いに出し合い、相手の問題をどれだけ解けるかを競い合うという試合が行われていた時代もありました。重大な理論の完成にあと一歩まで迫りながら、他の研究者に先を越されてしまった人物もたくさんいます。ガロアというフランスの有名な数学者は、革命運動に参加しそれが原因で投獄もされ、更には個人的な事情での決闘が原因で命を落としてしまいました。
「紙と鉛筆だけ」で学ぶことができるといわれた数学でも、なかなかにドラマチックな出来事も数多くあるのです。

このブログでは紀元前の時代から続く数学の流れ等も踏まえながら、歴史上の数学者たちの功績について記していこうと思います。

管理人:mathemathe
メールアドレス:historicalmathematician@yahoo.co.jp