アントニオ・マリア・フィオル(1536年頃)
アントニオ・マリア・フィオル(ラテン名フロリドス)は功績のある数学者ではないのですが、16世紀のイタリアでの3次方程式の解法を巡る騒動の中で、重要な役割を果たしています。
16世紀のイタリアでは3次方程式の解法を発見することが、数学者達の課題であり夢でした。このイタリア・ボローニャにおいてフィオルの数学の師であるシピオーネ・ダル・フェロは、ax^3+bx = c という特殊な形の3次方程式の解を導くことに成功します。しかしダル・フェロはこの解法を世間に公表することはせず、義理の息子のアンニバーレ・デラ・ナーヴェと、弟子のアントニオ・マリア・フィオルにのみ解法を明かしました。
当時は公開の場で互いに数学の問題をいくつか出し合い、どちらが多く解けるかを競う「数学試合」がさかんに行われており、フィオルもこの数学試合に参加していました。
ある時イタリアの数学者ニコロ・タルターリアが3次方程式の解法を発見したという噂が、フィオルの元にまで届きます。しかいフィオルはこの話を信用しませんでした。そこで彼はタルターリアに数学試合を申し込、これに勝つことで自分の地位を高めようと考え、タルターリアに挑戦を申し込みます。タルターリアはこの挑戦を受け、互いに30の問題を出し合うことになりました。
フィオルはダル・フェロが残した特殊な形(ax^3+bx = c)の3次方程式の解法しか知らず、フィオルが出した30題は全てこの形のものでした。一方のタルターリアはダル・フェロのもの以外にもx^3+ax^2=bやax+b=x^3という形の3次方程式の解き方も知っており、彼が出した30題は様々な種類のものがありました。このためタルターリアは2時間ほどでフィオルの問題を解くことができたのですが、フィオルは相手の問題を1問も解けずに負けてしまったのです。
このタルターリアとフィオルの数学試合の話はイタリア中で話題になり、3次方程式の解法を巡る新たな進展へと繋がっていきます。