2012年8月30日木曜日

チャールズ・バベッジ

チャールズ・バベッジ(1791年~1871年)

チャールズ・バベッジは、イギリスの数学者です。計算機の設計の研究で知られています。


■自動計算機

当時の科学計算に用いる対数表や三角関数表は、70~80人の人の手によって計算されて作られていました。しかし人による計算だと多くの誤りが含まれてしまうことから、バベッジは機械的な計算は機械にやらせれば素早く間違いのない計算結果が得られると考えました。

1822年にはバベッジは王立天文学会で階差機関の構想を発表し、その後イギリス政府から1万7千ポンドの資金援助を受けます。しかしバベッジは新しい考えを思いつく度にそれまでの研究物を反故にしたり技師への給料の支払いが遅れたりといったことがあったため、信用を失い資金の援助は打ち切られてしまいました。

その後ロマン派の詩人ジョージ・バイロンの娘で数学愛好家であるオーガスタ・エイダ・キングがバベッジの解析期間の論文に感激し、解説を付けてフランス語に翻訳をしました。
バベッジの亡くなった翌年には息子のヘンリーが解析機関の一部を完成させ、現在はロンドンの国立科学産業博物館に展示されています。


★チャールズ・バベッジに関する雑学

月にあるクレーターには、バベッジにちなんで名前がつけられたものもあります。


★備考

Charles Babbage
生没年:1791年12月26日~1871年10月18日
生まれ:イギリス
父:ベンジャミン・バベッジ(Benjamin Babbage)、銀行家
母:ベッツィー・バベッジ (Betsy Plumleigh Babbage)
妻:ジョージアナ・ホイットモア(Georgiana Whitmore)
息子:ヘンリー・プレヴォスト・バベッジ

2012年8月23日木曜日

ニコライ・イワノビッチ・ロバチェフスキー

ニコライ・イワノビッチ・ロバチェフスキー(1792年~1856年)

ニコライ・イワノビッチ・ロバチェフスキーロシアの数学者です。非ユークリッド幾何学の研究で知られています。


■非ユークリッド幾何学

ユークリッド幾何学には5つの公準がありますが、第5公準と呼ばれるものは以下のようなものでした。

「与えられた直線上にないある1点を通って、それに平行な直線はただ1本だけ引くことができる」

数学者たちの間ではこの第5公準は他の定義や公理、公準から証明できるのではないかと考えられていたのですが、証明に成功した数学者はいませんでした。

この第5公準について、ロバチェフスキーは「第5公準がなくても幾何学が成立するのではないか」と考え、研究に取り組みました。彼は「与えられた直線上にないある1点を通って、それに平行な直線は少なくとも2本引くことができる」としました。


★ニコライ・イワノビッチ・ロバチェフスキーに関する備考

Nikolai Ivanovich Lobachevsky
生没年:1792年12月1日~1856年2月24日
生まれ:ロシア
父:不明
母:不明
主な著書:1836年『想像の幾何学』

2012年8月20日月曜日

オーギュスタン=ルイ・コーシー

オーギュスタン=ルイ・コーシー(1789年~1857年)

オーギュスタン=ルイ・コーシーはフランスの数学者です。
コーシーは800近くという膨大な数の論文を書いており、1876年からは『コーシー全集』として論文集が編集されました。この『コーシー全集』は1882年から1974年に渡り刊行されました。


■コーシー列

任意の ε>0 に対して、ある自然数 N が存在して、n≧N 、 m≧N となる任意の n 、 m に対して

 | a(n) - a(m) | < ε

が成り立つとき、数列 {a(n)} をコーシー列といいます。


★オーギュスタン=ルイ・コーシーに関する雑学

エッフェル塔にはフランスの科学に貢献した72人の科学者の名前が刻まれていますが、その中にはコーシーの名も含まれています。


★オーギュスタン=ルイ・コーシーに関する備考

Augustin Louis Cauchy
生没年:1789年8月21日~1857年5月23日
生まれ:フランス、パリ
父:不明
母:不明
妻:アロイズ・ド・ビュール(Aloise de Bure)
主な著書:1821年『解析教程』(Cours d'analyse de l'Ecole royale polytechnique)

2012年8月17日金曜日

ジャン=ヴィクトル・ポンスレ

ジャン=ヴィクトル・ポンスレ(1788年~1867年)

ジャン=ヴィクトル・ポンスレはフランスの数学者、工学者です。

ポンスレは1812年のナポレオンのロシア遠征に参加しますが、ロシア軍の捕虜となってしまいます。収容所でポンスレは射影幾何学を研究し、後に『解析学と幾何学の応用』を著すことになります。


■仕事率の単位「ポンスレ」

19世紀のフランスで用いられた仕事率の単位として「ポンスレ」(poncelet)がありますが、これはジャン=ヴィクトル・ポンスレにちなんで名付けられたものです。
1ポンスレは、1秒間につき1キンタル(100キログラム)の重量のものを、垂直に1メートル持ち上げるときの仕事率と定義されています。


★ジャン=ヴィクトル・ポンスレに関する雑学

・エッフェル塔
エッフェル塔には、フランスの科学に貢献した72人の科学者の名前が刻まれていますが、その中にはポンスレの名も含まれています。


★ジャン=ヴィクトル・ポンスレに関する備考

Jean-Victor Poncelet
生没年:1788年7月1日~1867年12月22日
生まれ:フランス、メス
父:クロード・ポンスレ(弁護士)
母:不明
主な著書:1822年、1862年~1864年『解析学と幾何学の応用』(Applications d'analyse et de ge'ome'trie)

2012年8月14日火曜日

アウグスト・レオポルド・クレレ

アウグスト・レオポルド・クレレ(1780年~1855年)

アウグスト・レオポルド・クレレはドイツの土木技師です。アマチュアの数学者でもあり、数学雑誌『純粋・応用数学雑誌』(通称『クレレ誌』)を発刊しました。
ノルウェーの数学者ニールス・ヘンリック・アーベルの支援者としても知られています。


■アーベルの論文

1825年に、クレレの元をアーベルが訪れました。クレレは数学の話でアーベルと意気投合し、1826年にクレレが創刊した数学雑誌『純粋・応用数学雑誌』にアーベルの数学論文を何本も掲載することになります。
創刊号にはアーベルの論文が6本も掲載されていましたが、このうちの1本が一般的な5次方程式の代数的解法の不可能性についての論文でした。

クレレはアーベルの数学的才能を見抜きベルリン大学の数学教授に推薦をする活動もしていましたが、ベルリン大学への採用通知が届いたのはアーベルの死後のことでした。アーベルは1829年4月6日に病死してしまいますが、その2日後の4月8日にベルリン大学への採用通知がクレレから届いたのです。


★アウグスト・レオポルド・クレレに関する備考

August Leopold Crelle
生没年:1780年3月17日~1855年10月6日
生まれ:ドイツ
父:不明
母:不明

2012年8月11日土曜日

ヨハン・カール・フリードリヒ・ガウス

ヨハン・カール・フリードリヒ・ガウス(1777年~1855年)

ヨハン・カール・フリードリヒ・ガウスはドイツの数学者、天文学者、物理学者です。
代数学の基本定理など、非常に多くの功績を残したことで知られています。


■和の計算

ガウスが小学生の頃、学校で教師が1から100までの自然数の和を計算せよとの問題を出題しました。
普通の子供たちはこの問題を1から順番に足していくところですが、ガウスはこの問題を、

1 + 100 = 101、2 + 99 = 101、3 + 98 = 101 …… 50 + 51 = 101

のように数を組み合わせ、101が50個だから5050だと計算したといわれています。


■正17角形の作図可能性

定規とコンパスによる正多角形の作図問題は、古代ギリシャから研究されてきた数学的問題でした。正三角形と正五角形については作図できることが分かっていましたが、ガウスは新たに正17角形が作図できることを発見しました。このことがガウスが数学の道に進むきっかけになったといわれています。
この発見は1796年3月30日に行われましたが、この日からガウスは数学的発見を日記につけ始めます。この日記はガウスの死後43年経ってから、学会に公表されました。

またガウスは正17角形を自分の墓標に刻むように希望しましたが、結局実現しませんでした。ガウスの記念碑には正17角形が刻まれています。


■代数学の基本定理

「複素数係数の任意のn 次代数方程式は、複素数の根をちょうど n 個持つ」という定理を、代数学の基本定理と呼びます。
この定理の完全な証明は、ガウスが1799年に与えました。


★ヨハン・カール・フリードリヒ・ガウスに関する雑学

・10マルク紙幣

1989年から2001年までの10ドイツマルク紙幣には、ガウスの肖像画、正規分布曲線の図と式が描かれていました。

・ガウス賞

ガウス賞は、2002年にガウスの生誕225周年を記念してドイツ数学会と国際数学連合が共同で設けた賞です。

・小惑星ガウシア

クリミア半島のシメイズ天文台でソビエト連邦の天文学者セルゲイ・ベリャフスキーによって発見された小惑星ガウシアは、ガウスにちなんで命名されました。


★ヨハン・カール・フリードリヒ・ガウスに関する備考

Carolus Fridericus Gauss
生没年:1777年4月30日~1855年2月23日
生まれ:ブラウンシュヴァイク
父:不明
母:不明
妻:ヨハンナ・オストホフ
長男:ヨゼフ
長女;ヴィルヘルミーナ
次男:ルイス
妻:フリーデリカ・ヴィルヘルミーネ・ヴァルトエック
長男:オイゲネ
次男:ヴィルヘルム
長女:テレーズ

2012年8月8日水曜日

マリー=ソフィー・ジェルマン

マリー=ソフィー・ジェルマン(1776年4月1日~1831年6月27日)

マリー=ソフィー・ジェルマンは、フランスの女性数学者です。フェルマーの最終定理の研究で知られています。


■ル・ブラン

パリの高等理工科学校エコール・ポリテクニクでは、男性しか入学を許されていませんでしたが、ジェルマンはアントワーズ・オーギュスト・ル・ブランという男性の名前を借りて入学します。
この学校ではイタリアの数学者ジョゼフ=ルイ・ラグランジュも講座を担当していましたが、ある時ラグランジュはジェルマンの優秀な解答に目を留めます。このことがきっかけでジェルマンが女性であったことが知られてしまいますが、ラグランジュはジェルマンが女性であることに驚きながらも彼女の勉学の手助けをしたといわれています。

この後ジェルマンは未解決の問題であったフェルマーの最終定理の研究をし、ドイツの数学者ヨハン・カール・フリードリヒ・ガウスと文通を始めます。このガウスとの文通でも、ジェルマンはル・ブランの名前を使っていました。
1806年にナポレオンがドイツに攻め込むと、ガウスの安全を心配したジェルマンはフランス軍の将軍にガウスの安全を保証してくれるようにたのみます。この時にジェルマンの正体がガウスに知られることになります。


■ソフィー・ジェルマン素数

2p + 1 が素数となるような素数p のことを、ソフィー・ジェルマン素数と呼びます。2p + 1 については安全素数と呼びます。
最も小さいソフィー・ジェルマン素数はは 2 であり、ソフィー・ジェルマン素数が無数に存在するかどうか分かっていません。


■ソフィー・ジェルマンの定理

「ソフィー・ジェルマン素数(2p + 1 が素数であるような素数 p)について、x^p + y^p = z^p が成り立つとき、x、y、z のいずれかが p で割り切らねばならない」
この定理をソフィー・ジェルマンの定理と呼びます。


★マリー=ソフィー・ジェルマンに関する雑学

古代ギリシアの数学者アルキメデスは、地面に描いた幾何学図形に夢中になっていて敵国の兵士に従わず、そのことが原因で命を絶たれてしまいました。
フランスの数学者ジャン・エティエンヌ・モンテュクラは著書の『数学史』においてこのアルキメデスの逸話を紹介しましたが、これを読んだジェルマンはアルキメデスの最期に感激し、数学を学ぶ決意をしたといわれています。


★マリー=ソフィー・ジェルマンに関する備考

Marie Sophie Germain
生没年:1776年4月1日~1831年6月27日
生まれ:フランス、パリ
父:アンブロワーズ・フランソワ・ジェルマン
母:不明

2012年8月3日金曜日

ボヤイ・ファルカシュ


ボヤイ・ファルカシュ(1775年~1856年)

ボヤイ・ファルカシュは、ハンガリーの数学者、詩人です。


■平行線公準

古代ギリシャの数学者ユークリッドが『原論』において述べた幾何学に関する公理・公準の中に、後に「第5公準」と呼ばれるようになった以下のものがあります。

公準5
一本の直線が他の二直線と交わり、同じ側にある内角の和が二直角より小さい場合は、これらの二直線を限りなく延長すれば内角の和が二直角よりも小さい側で交わる

これは後にスコットランドの数学者ジョン・プレイフェアにより「直線以外の一点を通り、その直線と平行な直線は一本しか引けない」と扱いやすい形に書き直され、「平行線公準」と呼ばています。
この平行線公準についてファルカシュはドイツの数学者ヨハン・カール・フリードリヒ・ガウスと共に研究をしましたが、証明はできずに終わりました。
その後ファルカシュの息子のボヤイ・ヤーノシュも平行線公準の研究に取り組んでいます。


★ボヤイ・ファルカシュに関する雑学

1937年11月26日にハンガリーの天文学者クリン・ジェルジュがブダペストで発見した小惑星ボーヤイは、ボヤイ・ファルカシュの名にちなんで命名されました。


★ボヤイ・ファルカシュに関する備考

Bolyai Farkas
生没年:1775年2月9日~1856年11月21日
生まれ:ルーマニア
父:不明
母:不明
息子:ボヤイ・ヤーノシュ