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2012年4月23日月曜日

吉田光由

吉田光由(1598年~1673年)

吉田光由は日本・江戸時代の和算家です。『塵劫記』という数学書を著したことで知られています。『塵劫記』は和算の数学書で、1627年に出版されました。全4巻からなるこの書は身近で実用的な計算を多く解説しており、挿絵入りだったこともあり広く流布しました。


■『塵劫記』

光由は和算家である毛利重能から数学を学びました。中国のそろばん書である『算法統宗』を入手した光由はその本に書かれていることを重能に教えてもらおうとしましたが、重能はその本を完全には読むことはできませんでした。そこで光由は一族の漢学者・角倉素庵に教えてもらい、この本を参考に『塵劫記を記しました。なおこの『塵劫記』では、円周率を3.16としています。

『塵劫記』は好評を得たため、光由は何度も版を重ね、その度に色々な工夫をしました。
寛永18年には解答を付けずに12の問題を載せ、その問題を解いた読者が解答と新たな問題を自分の本に載せて出版する等、日本の数学の発展に多大な貢献を果たしました。


■数の単位

『塵劫記』では「一、十、百、千、万」等の数の単位の呼び名(命数法)についても書かれています。
これは『算法統宗』を参考に考えられたものですが、『塵劫記』は何度も改訂されており、版によって命名が異なっています。


★吉田光由に関する備考

生没年:1598年~1673年1月8日
生まれ:不明
父:不明(京都嵯峨野角倉一族)
母:不明
主な著書:『塵劫記』

2012年4月20日金曜日

ルネ・デカルト

ルネ・デカルト(1596年~1650年)

ルネ・デカルトはフランスの哲学者・数学者です。自己の存在を証明する「我思う、ゆえに我あり」(コギト・エルゴ・スム)という言葉で有名です。
ラ・フレーシュの町の学院では、マラン・メルセンヌがデカルトの同室でした。メルセンヌとは人生を通しての友人となります。


■デカルト座標系

平面上の点の位置を2つの実数を用いて表すという方法は、デカルトが考案しました。これはデカルトの著書「方法序説」の中で初めて用いられたものです。この座標を「デカルト座標」、デカルト座標を用いた平面を「デカルト平面」と呼びます。このデカルト座標とデカルト平面は、解析学の発展に繋がっていきます。


■文字の使用

フランソワ・ヴィエトは定数を表すのに子音、未知数を表すのに母音を用いましたが、デカルトは定数を表すのにa、b、c等のアルファベットの最初の方の文字、未知数を表すのにx、y、z等の最後の方の文字を用いました。


■虚数「imaginary number」

負の数の平方根である虚数は1572年にラファエル・ボンベリによって定義されましたが、当時は虚数は数学者達の間では重要視されていませんでした。
デカルトも虚数に対しては否定的で、著書の中で「想像上の数」と名づけ、英語の「imaginary number」の語源となりました。


★ルネ・デカルトに関する備考

René Descartes
生没年:1596年3月31日~1650年2月11日
生まれ:フランス・アンドル=エ=ロワール(旧トゥレーヌ州)・ラエの町
父:ブルターニュの高等法院評定官
母:不明
主な著書:『方法序説』


2012年4月17日火曜日

マラン・メルセンヌ

マラン・メルセンヌ(1588年~1648年)

マラン・メルセンヌはフランスの神学者です。

修道院で数学を学び、自らも数学を教えるようになったメルセンヌは、パリの修道院に移り多くの数学者達と交流を持つようになります。
当時の数学者達は自分の研究を他の数学者に漏らすことはせず、秘密主義的な風潮が主流となっていました。しかしメルセンヌは知識は共有するべきであるとの考えから、積極的に学問について論じ合う姿勢をとりました。メルセンヌの活動は後にパリ科学アカデミーの創立に繋がる等、ヨーロッパにおける学者達の交流に大いに貢献しました。
メルセンヌが交流した人物はジラール・デザルグ、ピエール・ド・フェルマー、ルネ・デカルト、ガリレオ・ガリレイの他、多数に渡ります。


■メルセンヌ数

2の冪よりも 1 だけ小さい自然数、つまり「2n - 1」の形をした自然数のことを、メルセンヌ数と呼びます。また、素数であるメルセンヌ数をメルセンヌ素数と呼びます。


■12平均律

1オクターブ等の音程を均等な周波数比で分割した音律を「平均律」と呼びます。平均律についてはメルセンヌ以前から知られていましたが、メルセンヌは1636年の著書「普遍的和声法」において、平均律の数学的基礎を確立しました。
十二平均律は、1オクターブを12等分した音律となります。


★マラン・メルセンヌに関する備考

Marin Mersenne
生没年:1588年9月8日~1648年9月1日
生まれ:フランス、メイン、ワーズ
父:不明
母:不明
主な著書:1636年『Harmonie universelle』、1644年『Cogitata Physico-Mathematica 』

2012年4月14日土曜日

クロード=ガスパール・バシェ・ド・メジリアク

クロード=ガスパール・バシェ・ド・メジリアク(1581年~1638年)

クロード=ガスパール・バシェ・ド・メジリアクは、フランスの言語学者・古典学者です。ディオファントスの『算術』をラテン語に翻訳して出版したことで知られています。


■パズル集

バシェが初めて著した本は、『楽しくて面白い数の問題』というパズル集でした。
このパズル集には数当て問題等の数学的な問題が多く含まれていました。


■ディオファントスの『算術』の翻訳

バシェはディオファントスの『算術』をラテン語に翻訳して出版しました。
当時のヨーロッパでは数学は重要視されていなかったのですが、バシェが『算術』をラテン語で出版したことにより、古代の数学的知識がヨーロッパで再認識されることに繋がりました。
「フェルマーの最終定理」で知られるピエール・ド・フェルマーも、このバシェが翻訳した『算術』で数学を学び、余白に自らの考えを書き込んだことが知られています。バシェが翻訳した『算術』には余白が多くあったため、フェルマーは内容についての自分の所見を書き込むことができました。
「フェルマーの最終定理」について、「私は真に驚くべき証明を見つけたが、この余白はそれを書くには狭すぎる」というフェルマーの有名な書き込みは、バシェの『算術』の第2巻第8問「平方数を2つの平方数の和に表せ」の欄外の余白に書き込まれたものです。この他、フェルマーの注釈は全部で48ヶ所にも及んでいます。


★クロード=ガスパール・バシェ・ド・メジリアクに関する備考

Claude-Gaspard Bachet de Méziriac
生没年:1581年~1638年
生まれ:不明
父:不明
母:不明
主な著書:1621年ディオファントス『算術』のラテン語訳

2012年4月11日水曜日

パウル・ギュルダン

パウル・ギュルダン(1577年~1643年)

パウル・ギュルダンはスイスで生まれた数学者です。グラーツ大学、ウィーン大学で数学の教授を務めました。
回転体の体積に関する「パップス=ギュルダンの定理」で知られています。


■パップス・ギュルダンの定理

パップス・ギュルダンの定理は、回転体の体積に関する定理です。この定理はギュルダン以前にアレキサンドリアのパップスによって発見されていたのですが、後にギュルダンも独立して発見したために両者の名前がつけられています。

パップス・ギュルダンの定理は、以下となります。

平面上にある図形 F の面積を S、
F と同じ平面上にあり、 F を通らない軸 l の回りで F を 1 回転させた回転体の体積を V
とします。
回転させる図形 F の重心 G から回転軸 l までの距離を R としたとき、

V = 2 π R S
(回転体の体積 V) =(回転による図形 F の重心の移動距離)×(図形 F の面積 S)

が成り立ちます。

2012年4月8日日曜日

ウィリアム・オートレッド

ウィリアム・オートレッド(1574年~1660年)

ウィリアム・オートレッドは、イギリスの数学者です。「×」の記号の考案で知られています。
三角関数において「sin」、「cos」と表記する方法も、オートレッドの考案であるといわれています。


■「×」の記号の使用

当時は「×」といった記号は使用されておらず、例えば5かける5であれば「5 multiplied by 5」と言葉を用いて記していました。
この掛け算の記述に対して初めて「×」という記号を用いたのがオートレッドです。「×」の記号は、オートレッドの著書「数学の鍵」(1631年)で初めて使われました。彼は教会の十字架からの連想で「×」という記号を思いついたといわれています。


■計算尺

ジョン・ネイピアが対数を発明したことで掛け算を足し算に変換することができるようになりましたが、その対数の仕組みを利用して、1620年にイギリスのガンターが対数尺を発明しました。その後1622年にはオートレッドが計算尺を発明しましたが、これは2つの対数尺を組み合わせることで乗法と除法を計算できるようになるものでした。
このように複数の尺を用いる計算尺は、以後主流となって行きます。

2012年4月5日木曜日

ヘンリー・ブリッグス

ヘンリー・ブリッグス(1561年~1630年)

ヘンリー・ブリッグスはイングランドの数学者で、ジョン・ネイピアの対数を元にして常用対数を考え出したことで知られています。


■常用対数

グレシャム大学で幾何学と天文学の研究をしていたブリッグスは、ジョン・ネイピアが1614年に発表した対数に感心し、スコットランド・エディンバラのネイピアの元を訪れます。
この後二人は協力して対数の研究を進め、ブリッグスの進言により10を底とする対数(常用対数)が生まれました。常用対数はブリッグスの名にちなんで「ブリッグス対数」と呼ばれることもあります。

1617年に1000までの常用対数を計算した結果を出版し、1924年には20,000までの数の14桁の対数と、90,000~100,000までの対数を記した対数表を発表しました。この対数表で抜けていた20,000から90,000の部分は、1628年にオランダのアドリアン・ブラックが完成させています。


★ヘンリー・ブリッグスに関する雑学

月のクレーターには、ブリッグスの名にちなんで名づけられたクレーターがあります。

2012年4月2日月曜日

トマス・ハリオット

トマス・ハリオット(1560年~1621年)

トマス・ハリオットはイギリスの天文学者、占星術師、数学者です。

■不等号「>」と「<」の使用

ハリオットは「>」と「<」という記号を初めて用いました。
当時はオートレッドが用いていた別の記号が主流だったのですが、その記号は互いに混同しやすく、オートレッドの本の中でも両者は混同して使われている場面もありました。一方ハリオットの「>」と「<」は互いに向きが逆なだけで更にはこの記号の左右に置かれた数のどちらが大きいかを明確に表しているため、このハリオットの記号が使われていくことになります。
なお「≦」、「≧」という記号を初めて用いたのは、フランスのピエル・ボーガーとなります。


★トマス・ハリオットに関する雑学

1609年末にガリレオ・ガリレイが望遠鏡を自作し、世界で初めて望遠鏡で月を観測したとされていました。しかし調査によって、1609年7月26日にはハリオットが初めて月の地図を描いていたことが明らかになりました。

2012年3月30日金曜日

ジョン・ネイピア

ジョン・ネイピア(1550年~1617年)

ジョン・ネイピアはスコットランドの数学者、物理学者、天文学者、占星術師です。
対数の発見で知られています。


■対数の発見

16世紀の天文学者達は、星の位置を計測するために何十桁もある数値の計算を行っていました。また当時の船乗り達は星の位置を元に船の現在地や進行方向を計算していたのですが、桁数が非常に多い数値を計算しないといけないため間違いやすく、航海の安全に悪影響をもたらす原因の一つとなっていました。

これらの事情を知ったネイピアは、桁数の多い掛け算を足し算に置き換える方法として対数を考え出したのです。ネイピアは20年という長い歳月をかけて対数の表を作成し、1614年に7桁の数の対数表を発表しました。
しかしネイピアの対数は複雑だったため、当初は理解されませんでした。そこへイングランドの数学者ヘンリー・ブリッグスがネイピアの元を訪れます。二人は対数に関する議論を重ね改良していき、ブリッグスは10を底とすることを提案し、これが常用対数となります。
ブリッグスは常用対数の表を作成することをネイピアと約束し、表を完成させますが、その時にはネイピアは既に亡くなっていました。

この対数の発明により計算が簡易になり精度も高くなったため、大航海時代の長い航海をより安全に行えるようになりました。更に後の時代のフランスの数学者ピエール=シモン・ラプラスからは、「対数は天文学者の寿命を2倍にした」と讃えられました。


★ジョン・ネイピアに関する雑学

対数の概念は、ネイピアよりも前にイタリアの数学者ミハイル・シュティーフェルが著書「完全算術」の中で記述していました。ただしシュティーフェルは対数について研究を進めることはなかったので、対数の発見者はネイピアであるとされるようになりました。
ネイピアはシュティーフェルが考えた対数の概念については知らなかったとされていて、二人は全く独立して対数を発見したといわれています。

2012年3月27日火曜日

シモン・ステヴィン

シモン・ステヴィン(1548年~1620年)

シモン・ステヴィンはヨーロッパの旧フランドル地方、ブルッヘ(ベルギーのブルージュ)で生まれた数学者、物理学者、会計学者です。十進小数の導入で知られています。


■十進小数

小数自体はバビロニア数学の時代から存在していましたが、小数点を表すものがなかったため、前後の文脈から数値を判断しなくてはいけないという不便なものでした。
ステヴィンは1585年に出版した「十進分数論」において小数を発表し、ヨーロッパに小数を導入しました。ただし表記法は現在用いられているものとは異なり、「0.678」は「6①7②8③」と表しています。
後にジョン・ネイピアによって、小数点による表記法が提唱されました。


■力の平行四辺形の法則

平行四辺形を用いて力の合成と分解を最初に考えたのはステヴィンでした。彼は1586年に表した書籍の中で、力の平行四辺形について述べています。


★シモン・ステヴィンに関する雑学

ベルギーのブルージュには「シモン・ステヴィン広場」という場所があり、シモン・ステヴィンの像があります。


★人物・家族・経歴等

Simon Stevin
生没年:1548年~1620年
生地:フランドル(現ベルギー)、ブルッヘ
没地:オランダ、ハーグ
父:アンソニー・ステヴィン
妻:キャサリン・クライ
子:ヘンドリック、 スサンナ、レヴィナ、フレデリック
主な著書:
1585年『十進法』
1586年『吊り合いの原理』、『水の重さの原理』


(2012年3月27日投稿)
(2018年12月5日追記)

2012年3月24日土曜日

フランソワ・ヴィエト

フランソワ・ヴィエト(1540年~1603年)

フランソワ・ヴィエトはフランスの数学者です。方程式の記述において「係数」という言葉を初めて使用したことや、解と係数の発見で知られています。


■文字の使用

方程式ax^2+bx+c=0においてa、b、cを「係数」と呼びますが、この言葉を初めて用いたのがヴィエトです。
また著書「解析論入門」において、既知の量は子音b、c、d、未知の量は母音a、e、i、o、u等を用いて表しています。
ディオファントスの「算術」において未知数やそのべき乗は頭文字で表されていましたが、既知の定数までをも一つの文字で表したのはヴィエトが初めてでした。
ただしギリシア時代から1次は線分、2次は面積、3次は体積として互いに異質なものとして考えられ、厳しく区別されていました。そのため同じ次数のものだけが互いに比較されるべきであるという考えがあり、この考え方からはヴィエトも脱却できませんでした。


★フランソワ・ヴィエトに関する雑学

・アドリアーン・ファン・ローメンの挑戦

ベルギーの数学者アドリアーン・ファン・ローメンが「数学の概念」という本を著し、その中に次のような45次の方程式を載せました。

x^45 - 45×^43 + 945×^41 - 12300×^39 + 111150×^37 - 740459×^35 + 3764565×^33 - 14945040×^31 + 469557800×^29 - 117679100×^27 + 236030652×^25 - 378658800×^23 + 483841800×^21 - 488494125×^19 + 384942375×^17 - 232676280×^15 + 105306075×^13 - 34512074×^11 + 7811375×^9 - 1138500×^7 + 95634×^5 - 3795×^3 + 45x = C

ローメンは当時の数学者達に対して「その方程式を解いてみよ」と挑戦し、当時のフランスの王アンリ四世はネーデルランド大使に「この問題を解ける数学者はフランスにはいないだろう」と挑発されます。
そこでアンリ四世はヴィエトに助けを求めるのですが、ヴィエトは数分で正の解を見つけたという逸話があります。ヴィエトはその問題は三角法の利用が有効であると見抜き、更にはその方程式には23個の正の解と22個の負の解があることも示した、といわれています。

2012年3月21日水曜日

クリストファー・クラヴィウス

クリストファー・クラヴィウス(1538年~1612年)

クリストファー・クラヴィウスはドイツのバンベルクに生まれた数学者・天文学者です。
グレゴリオ暦作成の中心人物だった他、数学ではユークリッドの「原論」の注解書を著しました。クラヴィウスはローマやポルトガルで学んだ後にローマに戻り、ローマ学院の数学教授となりました。天文学では天動説を支持していましたが、天動説がもつ矛盾点も認識していました。


■グレゴリオ暦

16世紀の後半まではユリウス暦という暦が使われていました。これは紀元前45年にユリウス・カエサルによって制定されたもので、1年を原則365日とし、4年ごとの閏年の2月末に1日を加えて366日とするものでした。このユリウス暦は16世紀には実際の季節と暦のずれが大きくなっており、これに代わるより精密なものとして制定されたのがグレゴリオ暦です。グレゴリオ暦では、400年間に97回の閏年を置くこととしています。クラヴィウスはこのグレゴリオ暦の作成に関わった人物の中の一人です。

2012年3月18日日曜日

ラファエル・ボンベリ

ラファエル・ボンベリ(1526年~1572年)

ラファエル・ボンベリは、イタリアのボローニャ生まれの数学者です。虚数の研究で知られ、「代数学」という数学書を著しました。


■虚数の研究

3次方程式を解く過程で、解が実数の場合でも途中の段階で負の数の平方根が出てくる場合があります。これは後に「虚数」と呼ばれることになる概念なのですが、カルダーノは著書「アルス・マグナ」で3次方程式の解法を示す際に、この虚数については明確な説明をできないままで終わっていました。当時は0や負の数でさえまだ認められておらず、「負の数の平方根」である虚数は「役に立たないもの」としか認識されていなかったのです。

ボンベリはこの「負の数の平方根」という概念を重要なものであると認識し定義を与え、「虚数」というものの研究が進んでいくきっかけを作ることとなりました。
1637年にはルネ・デカルトが初めて「虚数(imaginary number)」という言葉を用い、1777年にはレオンハルト・オイラーが虚数をiと表しました。


★ラファエル・ボンベリに関する雑学

月のクレーターには、ボンベリにちなんで名づけられたものがあります。

2012年3月16日金曜日

ルドヴィコ・フェラーリ

ルドヴィコ・フェラーリ(1522年~1565年)

ルドヴィコ・フェラーリはイタリアの数学者で、4次方程式の解法の発見で知られています。
彼は14歳の時に数学者ジェローラモ・カルダーノの家に召使として働き始めましたが、その才能を認められカルダーノから数学の教えを受け、研究の手伝いをするようになりました。


■4次方程式の解法

カルダーノは同じイタリアの数学者ニコロ・タルターリアから、ある特定の形をした3次方程式の解法を教わりました。この解法はまだ世間一般には公表されておらず、カルダーノは「解法を公表しない」との誓いの元でタルターリアから教わったものです。

解法を得たカルダーノは弟子のフェラーリと共に一般的な3次方程式の解法等の研究に取り組みます。
この研究の過程で、フェラーリは4次方程式の解法を発見しました。
これは4次方程式を3次方程式に帰着させるという手法だったのですが、この手法は一般的な4次方程式にも使える方法だったのです。

後にカルダーノは「アルス・マグナ」という数学書を出版しますが、この本の中でフェラーリの4次方程式の解法についても記しています。


■タルターリアとの論争

「解法を公表しない」との誓いを破られたタルターリアは激怒し、カルダーノのことを非難するようになります。
ここでカルダーノの弟子であるフェラーリは「自分もその場にいたがそのような誓いは立てていない」と主張しているのですが、真相は定かではありません。タルターリアはカルダーノとの論争を望んでいたのですがカルダーノはタルターリアの誘いには乗らず、以降タルターリアとフェラーリの論争が続いていくことになります。
最後はタルターリアとフェラーリが公開討論を行うことになり互いに31問ずつの問題を出し合うことになったのですが、この討論試合の詳細は明らかになっていません。フェラーリの勝利に終わったという説が有力です。

この討論試合の後フェラーリの名声は高まり、各方面から仕事の依頼が来るようになります。
皇帝の息子の家庭教師の依頼もあったのですが、フェラーリは割りのいい税務査定官の仕事に就きました。

2012年3月14日水曜日

ロバート・レコード

ロバート・レコード(1510年頃~1558年)

ロバート・レコードは、イギリス・ウェールズの医者、数学者です。彼は「=」の記号を初めて使用した人物として知られています。レコードは医師業の傍ら数学の講義を行い、算術書「技術の基礎」やイギリス初の代数書「知恵の砥石」等を英語で出版していました。
国王エドワード6世の侍医でもありました。


■「=」の記号

レコードは1557年に「知恵の砥石」という代数学の書物の中で、「=」という記号を用いました。
ただしレコードが最初使ったのは「=」ではなく「Z」のような形の記号で、後に現在のような「=」の記号になりました。
「=」を用いた理由としては、「2本の平行線ほど、等しいものは世の中にはない」としています。ただし当初はあまり普及せず、等しいものを表す記号としては「∥」、「ae」、「oe」が使用されていました。

「=」については後にイギリスのトマス・ハリオットが再び使用し、ルネ・デカルトが独自の記号を考案しました。最初は「=」の2本の線はとても長かったのですが、徐々に短くなっていったようです。

2012年3月11日日曜日

ジェローラモ・カルダーノ

ジェローラモ・カルダーノ(1501年~1578年)

ジェローラモ・カルダーノは、イタリアの医者・数学者です。
3次方程式の解法や、虚数の概念を導入したことで知られています。


■3次方程式の解法

当時のイタリアでは公開の場での数学試合が盛んに行われており、数学者達の間ではこの試合に勝つことが地位や名声を得る手段の一つとなっていました。

この試合でタルターリアが3次方程式の解法を知っているということが話題になり、数学書を執筆していたカルダーノは、タルターリアに解法を伝授してくれるように頼み込みます。
タルターリアは何度頼まれてもカルダーノの頼みを聞き入れなかったのですが、ミラノの有力者へ紹介するというカルダーノの誘いに乗り、ミラノで様々なもてなしを受けます。

その後しばらくしてカルダーノはついに解法をタルターリアから聞き出すことに成功するのですが、その際には「解法を公表しない」という誓いを立てさせられたといわれています。ただしカルダーノの弟子のルドヴィコ・フェラーリによるとそのような誓いは立てていないことになっており、真相は定かではありません。


タルターリアが得ていた解法はある特殊な形をした3次方程式のものだけだったのですが、タルターリアから解法を教ったカルダーノは、カルダーノは弟子のフェラーリと共に一般的な3次方程式の解法の研究に取り組みます。

この研究生活の中で、イタリア・ボローニャのシピオーネ・ダル・フェロという数学者が3次方程式の解法を発見しており、その解法が義理の息子アンニバーレ・デラ・ナーヴェに渡っているという噂がカルダーノの元に届きます。

ボローニャのナーヴェを訪ねたカルダーノはダル・フェロがタルターリアよりも早くに3次方程式の解法を得ていたことを知ります。

この後カルダーノは「アルス・マグナ(大いなる技法もしくは代数学の規則)」という数学書を出版しますが、その本に3次方程式の解法を載せていました。

このことを知ったタルターリアは激怒し公然とカルダーノを非難するようになります。
カルダーノは「アルス・マグナ」の中でタルターリアへの謝辞も述べているのですが、それでもタルターリアの怒りはおさまりませんでした。

タルターリアはカルダーノを討論試合の場に出させようとしたのですがカルダーノはこれを受けず、代わりに弟子のフェラーリと試合を行うことになります。

結果はフェラーリの勝利に終わります。
3次方程式の解法は「カルダーノの公式」として、後世に伝わっていくことになります。


■4次方程式の解法、虚数の概念の導入。

カルダーノの「アルス・マグナ」では、3次方程式の解を示す際にカルダーノが世界で初めて虚数の概念を導入しました。
またフェラーリが発見した4次方程式の解法についても記されており、この本はヨーロッパの数学界に大きな影響を与えました。