2012年2月27日月曜日

ウマル・ハイヤーム

ウマル・ハイヤーム(1048年~1131年)

ウマル・ハイヤームはセルジューク朝期ペルシアの学者・詩人です。
ジャラーリー暦と呼ばれる暦を作成しましたが、これは33年に8回の閏年をおいていて、グレゴリウス暦よりも正確なものでした。彼が著した「ルバイヤート」という四行詩集は、イラン文学史に残る作品とされています。
数学では二項定理の発見や、特殊な形をしたいくつかの3次方程式の解法を幾何学的な手法を用いて示したことで知られています。


■三次方程式の解法

放物線と円の間の交点を用いて、ある特定の形をした三次方程式を解く方法を考案しました。この解法のアプローチは古代ギリシアの数学者・メナイクモスなどによって既に試みられていましたが、ハイヤームはその方法を発展させて一般化したという功績があります。


■ユークリッドを批判

ハイヤームはユークリッドの平行線の理論に対する批判書を著し、これが欧州に伝わりました。このことが後の「非ユークリッド幾何学」の発展に繋がっていくことになります。


★ウマル・ハイヤームに関する雑学

ソビエトの天文学者リュドミーラ・ジュラヴリョーワがクリミア天体物理天文台で発見した小惑星は、ハイヤームにちなんで名づけられました。

2012年2月25日土曜日

アル・フワーリズミ

アル・フワーリズミ(780年頃~850年頃)

アル・フワーリズミはアラビアの数学者、天文学者です。
アル・フワーリズミの名は「アルゴリズム」の語源となり、またその著書は「代数学(アルジェブラ)」の語源となりました。


■「アル・ジェブル・アル・ムカバラ」

アル・フワーリズミは「アル・ジェブル・アル・ムカバラ」という本を出版しましたが、これは「移項と同類項の整理」という意味です。
この本を書く際にギリシャ人の知識だけでなく、インド人の知識も取り入れました。インド人は「ゼロ」の概念を発見していて、どんなに大きな数でも0から9までの数字だけで書き表せるようになりました。これは記数法における大きな革命でした。このように、アル・フワーリズミは自著を通してインド人の記数法をヨーロッパに広めたのです。


★アル・フワーリズミに関する雑学

・代数学(アルジェブラ)の語源

「代数学(アルジェブル)」は、アル・フワーリズミの著書「al-jabr waal-muqabalah(アル・ジェブル・アル・ムカバラ)」に由来しています。「アル・ジェブル・アル・ムカバラ」はラテン語に翻訳されヨーロッパで広く読まれましたが、この時に「al-jabr(アル・ジェブル)」だけが残り、「代数学(アルジェブラ)」の語源となったのです。

また課題を解決するための計算手順や処理手順のことを「アルゴリズム」といいますが、これはアル・フワーリズミの名に由来しています。「アル・ジェブル・アル・ムカバラ」が翻訳された際にアル・フワーリズミの名も「アルゴリズム」と変えられ、アルゴリズムの語源となりました。

・algebrista(接骨医)

「algebrista」はスペイン語で代数学者の他に接骨医という意味もあります。
「al-jabr」は「復元」という意味を持ちますが、接骨医がバラバラになったものを復元するイメージに通じています。

2012年2月24日金曜日

ブラマグプタ

ブラマグプタ(598年~660年頃)

ブラマグプタはインドの数学者・天文学者です。
現在のインド中央部に位置するウッジャインという町で暮らしていましたが、その他のことはほとんど分かっていません。


■ブラマグプタの公式

円に内接する四角形の4辺の長さをa、b、c、dとするとき、四角形の面積Sは、

S=√{(s-a)(s-b)(s-c)(s-d)} (ただし s=(a+b+c+d)/2 とする)

で求めることができます。
これはヘロンの公式をブラマグプタが一般化させて得た公式で、「ブラマグプタの公式」と呼ばれています。この公式により、円に内接する四角形の4辺の長さを用いてその面積を求めることができます。
ただしブラマグプタは「円に内接する」という条件を明示しなかったため、彼が示したものは不正確なものであるとされています。


■ゼロの概念

ブラマグプタは628年に「ブラーマ・スプタ・シッダーンタ」という書物を著しました。この中で彼はゼロを数として定義し、更にはその演算結果も定義しています。「ゼロとは、ある数から同じ数を引いた答えである」、「ゼロを加えても結果は元のまま。ゼロを掛けると結果はゼロ」等の記述がありました。
ただし「ゼロ除算」についての考えは間違っており、「正または負の数をゼロで割ると、分母がゼロの分数となる。ゼロを正または負の数で割ると、ゼロになるか、またはゼロを分子とし有限数を分母とする分数になる。ゼロをゼロで割るとゼロになる」等と記述していました。

2012年2月23日木曜日

アリヤバータ

アリヤバータ(476年~550年頃)

アリヤバータはインドの数学者、天文学者です。彼はディオファントス方程式や円周率の近似値の研究で知られています。


■ディオファントス方程式の研究

一般に整数係数の多変数高次不定方程式を「ディオファントス方程式」といいますが、アリヤバータは著作「アーリヤバティーヤ」において、線型ディオファントス方程式 ay + bx = c の整数解の求め方を記しました。これはディオファントス方程式の解を連分数によって表すもので、「クッタカ法」と呼ばれています。彼はこの技法を応用して、連立線型ディオファントス方程式の整数解も求めました。更に不定線型方程式の一般的解法も発見しています。
ディオファントス方程式についての研究は、アリヤバータの純粋数学における最大の貢献とされています。


■円周率の近似値

著書の「アリヤバーティア」で、円周率の近似値を3.1416としました。どのようにしてこの値を求めたのかはこの本では明らかにされていません。
一般には円に内接する正n角形と正2n角形について、両者の周の長さの間に成り立つ関係式を利用したといわれています。ここから正384角形の周の長さを√9.8684(≒3.14156)とし、この平方根の近似値として3927/1250(=3.1416)を導いたとされています。


■アリヤバータの正弦表

アリヤバータは最も古い正弦表の一つであるアリヤバータの正弦表を作成しました。

★アリヤバータに関する雑学

インド初の人工衛星は、アリヤバータにちなんで命名されました。このアリヤバータの絵は、インドの紙幣の裏面に使用されていたことがあります。

2012年2月21日火曜日

ディオファントス

ディオファントス(200年頃~298年頃)

ディオファントスは古代ギリシャの数学者です。エジプトのアレクサンドリアに住んでいたということは分かっていますが、その他の詳細は知られていません。
ディオファントスは整数を解にもつ問題を作るのが得意でした。そのような問題は「ディオファントス問題」と呼ばれています。


■全13巻からなる大著「算術(Arithmetica)」

ディオファントスは著書の「算術」において、既に知られている問題をまとめ、更に自分でも新しい問題を作りました。この算術は翻訳され、16世紀以降のヨーロッパにおいて代数学の発展に大いに貢献することになります。
「算術」は全部で13巻から成っていましたが、残されているのは6つの巻のみで、残りの7つの巻は失われてしまいました。


★ディオファントスに関する雑学

・「算術」へのフェルマーの書き込み

「フェルマーの最終定理」(3以上の自然数nについて、x^n+y^n=z^nとなる0でない自然数x、y、zの組み合わせは存在しない)で知られる数学者ピエール・ド・フェルマーは、ディオファントスの「算術」で多くの数学的知識を学びました。フェルマーが手にした「算術」はクロード=ガスパール・バシェ・ド・メジリアクという人物によるラテン語訳のものでした。フェルマーの「私は真に驚くべき証明を見つけたが、この余白はそれを書くには狭すぎる」という有名な書き込みは、「算術」の第2巻第8問「平方数を2つの平方数の和に表せ」の欄外の余白に書き込まれたものです。
フェルマーの注釈は全部で48ヶ所にも及び、フェルマーの息子のクレマン・サミュエル・フェルマーはこの書き込みを含めて「P・ド・フェルマーによる所見を含むディオファントスの算術」として出版しました。

・墓碑銘

ディオファントスの生涯は謎に包まれており、生まれた年代もはっきりしていません。
彼の生涯については6世紀にまとめられたギリシャの詩集の中に、墓碑銘に以下のように刻まれていたという記述があります。

「このみ墓にディオファントスの眠りたまう。ああ、偉大なる人よ。
その生涯の六分の一をわらべとして過ごされ、十二分の一の歳月の後にはほぼ一面にひげが生えそろい、その後七分の一にして華燭の典をあげたまう。
結婚の後五年にして、一人息子を授かりぬ。ああ、不幸なる子よ!父の全生涯の半分でこの世を去ろうとは!
父、ディオファントスよ四年のあいだ数の学問にてその悲しみをまぎらわせ、ついに生涯を閉じたまう」

この記述が正しいとすると、ディオファントスは84まで生きたことになります。

2012年2月19日日曜日

プトレマイオス

プトレマイオス(83年頃~168年頃)

プトレマイオスは古代ローマの学者で、天文学、数学、地理を研究した他、占星術師でもありました。
彼は「地球が宇宙の中心にあり、その地球の周りを太陽やその他の惑星が回っていると」いう天動説を唱え、「アルマゲスト」を著したことで有名です。「アルマゲスト」はそれまでに知られていた天文学の知識を体系的にまとめ上げたもので、以後何世紀にも渡って天文学の教科書として使われていくことになります。


■トレミーの定理

 円に内接する四角形について、次の性質が知られています。

「円に内接する四角形ABCD において、対角線の積は対辺の積の和に等しい(AC・BD=AD・BC+AB・DC)」

これはプトレマイオスにちなんで「トレミーの定理」と呼ばれています。「トレミー」はプトレマイオスの綴りの英語読み(Ptolemy)です。


★プトレマイオスに関する雑学

・トレミーの48星座

プトレマイオスは古代ギリシャ由来の48星座をまとめ上げ、これらは「トレミーの48星座」と呼ばれています。これらに大航海時代に新たに考えられたものを加えた88星座が、現在一般的に用いられている星座名となりました。
トレミーの48星座のうちアルゴ座以外の47星座は現在まで残されています。アルゴ座は大きすぎたために、後に4つの星座(「船尾(とも)」、「帆(ほ)」、「竜骨(りうゅこつ)」、「羅針盤(らしんばん)」)に分割されました。

・「アテナイの学童」

ローマのバチカン宮殿に、ルネサンス期にイタリアの画家ラファエロ・サンティが描いた有名な絵画「アテナイの学堂」というものがあります。この絵には有名な古代ギリシアの哲学者たちが描かれていて、この絵の右下で後ろ向きで地球儀を持っている人物がプトレマイオスであるとされています。

2012年2月18日土曜日

ヘロン

ヘロン(紀元前2世紀後半~紀元前1世紀頃)

ヘロンはアレクサンドリアの工学者・数学者です。蒸気の圧力や気圧、水圧を利用した色々な装置を考案したことで知られています。サイフォンの原理を利用した「ヘロンの噴水」と呼ばれる噴水も有名です。
数学では「計量幾何学」という本を著し、様々な図形の面積の求め方を記しました。


■ヘロンの公式

「ヘロンの公式」は、三角形の三辺の長さを用いてその三角形の面積を求める公式です。
以下のようにして、三辺の長さが分かっている三角形の面積を求めることができます。

三角形の三辺の長さをそれぞれa、b、cとし、s=(a+b+c)/2とする。このとき三角形の面積Sは
S = √{s(s-a)(s-b)(s-c)}

この公式では三角形の高さは必要とされないため、土地の面積を求める際等に古くから使われてきました。この公式はヘロンの著書「計量幾何学」で証明されたためヘロンの名がつけられましたが、公式自体はヘロン以前に知られていたとされています。


★ヘロンに関する雑学

硬化投入式の自動販売機は、ヘロンが初めて考案したといわれています。てこの原理を応用し、投入された硬貨の重みで弁が開き、一定量の聖水が流れるという仕組みになっていました。ヘロンの著作「気体装置」の中でこの聖水自動販売機について、図を用いて紹介しています。ただしこの装置の発明者については、ヘロン以外の人物のものであるとする説もあります。
ヘロンの発明には、蒸気を用いた自動ドア等もあります。

2012年2月17日金曜日

ヒッパルコス

ヒッパルコス(紀元前190年頃~紀元前125年頃)

ヒッパルコスは古代ギリシャの天文学者です。彼は月や太陽までの距離を求め、恒星を記した世界最古の星表を作成しました。また恒星を6等級に分けましたが、この等級は現代でもほぼ同様のものが用いられています。
また彼は、現在の88星座のうちの46星座を設定したことで知られています。


■三角法

ヒッパルコスは天体を精密に観測するために、三角法を利用しました。
まず月が南中する時の地点と、月が地平線上に見える時の地点の2ヶ所で同時に月を観測します。そこから三角形を用いて月までの距離を計算したのです。
ヒッパルコスは角度に対する円弧の角度と弦の長さについての数表を初めて作成した人物だとされています。このため、彼は「三角法の父」と呼ばれています。

後にアレクサンドリアのプトレマイオスが「アルマゲスト」という数学と天文学の専門書を著しますが、この本の中ではヒッパルコスの文献から多くの引用がされています。
ヒッパルコスの文献そのものは残されていないため、彼の研究内容はこのアルマゲストにより後世にまで伝えられたことになります。


★ヒッパルコスに関する雑学

欧州宇宙機関が1988年に打ち上げた天体観測衛星Hipparcos(HIgh Precision PARallax COllecting Satellite)は、ヒッパルコス(Hipparchus)の名前にちなんで命名されました。
また彼にちなんで名づけられたものには、月のクレーター、火星のクレーター、小惑星もあります。

2012年2月15日水曜日

アポロニウス

アポロニウス(紀元前262年頃~紀元前190年頃)

アポロニウスは、ペルガに生まれた数学者・天文学者です。アレキサンドリアで学問を学びました。彼は円錐の断面について詳しく研究し、「円錐曲論論」という著書を残しました。


■円錐曲線

円錐を平面で切るとその断面には切り方によって「楕円」、「放物線」、「双曲線」の3種類の異なる図形が現れます。これらは円錐曲線と呼ばれますが、その基本的な性質はギリシア時代にメナイクモスによって発見されたといわれています。
しかしそれまでは3つの円錐曲線はそれぞれ直角円錐・鋭角円錐・鈍角円錐の切断面として考えられており、アポロニウスは3つ全てを一般的な任意の円錐から作り出せることを示したのです。
彼は更にこれらの図形に「楕円、放物線、双曲線」という名前を付け、それぞれの定義も与えました。


■アポロニウスの円

2つの定点A、Bをとり、その2定点からの距離の比が1ではない一定値である点P(AP:BP=m:n、m≠n、m>0、n>0)の軌跡がつくる円のことを、「アポロニウスの円」と呼びます。
このアポロニウスの円は、物理の電位について考える際にも利用されています。


★アポロニウスに関する雑学

月の東側の縁にあるクレーターには、アポロニウスにちなんで名づけられたクレーターがあります。

2012年2月13日月曜日

エラトステネス

エラトステネス(紀元前275年~紀元前194年)

エラトステネスはリビアのキュレネに生まれました。プトレマイオス3世に呼ばれて、アレキサンドリアのムセイオン(研究機関)の館長になりました。
月のクレーターや小惑星には、エラトステネスの名前がつけられたものもあります。


■地球の大きさ

エラトステネスは地球の全周を最初に測った人物です。彼はシエネのエレファンティン島とアレクサンドリアとでの夏至の正午の太陽の高度を元にして、地球の全周を計算しました。

シエナの町では夏至の日の正午に太陽の光が井戸の底までまっすぐ射し込み、底の水に太陽が映りますが、これは太陽が町の真上にあることを意味しています。
そこでアレクサンドリアで夏至の時に地面に棒を垂直に立て、影が作る角度を調べます。すると太陽が真上から7.2度傾いていることが分かりました。これがシエネとアレクサンドリアの緯度の差から生じるものとして比例式を立て、シエネとアレクサンドリアとの距離が地球の大円の1/50であることを導いたのです。
また紀元前255年頃には、初の天球儀を作成しています。


■エラトステネスの世界地図

エラトステネスは地球が球形であることを前提に地図を作りました。
この地図では経緯線に当たる線が引かれていて、アレクサンドリアとシエネは同じ線の上にあります。ただしこの直線は地図上の主要な地点を通る目安の線となっており、間隔は一定ではありませんでした。地図上に等間隔に線を引く経緯線を導入したのは、ヒッパルコスとなっています。
エラトステネスの地図は残されていないのですが、ギリシアの地理学者ストラボンが著作「地理誌」に一部を引用しており、部分的に地図の様子が分かっています。


■エラトステネスのふるい

エラトステネスは、指定された整数以下の全ての素数を発見する方法も考案しました。数の表を用い、合成数を次々に消去していき素数だけを残す方法ですが、数をふるいにかけるようなイメージを持つため「エラトステネスのふるい」と呼ばれています。


★エラトステネスに関する雑学

月の雨の海の南東にあるクレーターには、エラトステネスにちなんで名づけられたものがあります。このクレーターは、約32億年前に形成されたことが分かっています。
またパロマー天文台のトム・ゲーレルスとライデン天文台のファン・ハウテン夫妻が発見した小惑星も、エラトステネスの名がつけられました。

2012年2月11日土曜日

アルキメデス

アルキメデス(紀元前287年~紀元前212年)

アルキメデスは地中海にあるシチリア島のシラクサで生まれました。父親は天文学者で、アルキメデスは父親から多くのことを学びました。
アルキメデスは非常に優秀な数学者であり、また他の分野にも秀でていました。当時学問の中心であったエジプトのアレクサンドリアに留学し、その後はシラクサで過ごしました。数学では図形や回転体の面積・体積を求積法により求めたため、定積分法の祖といわれています。

第2次ポエニ戦争でシラクサの街が占拠された時、アルキメデスは地面に幾何学図形を描き思索にふけっていました。兵士はアルキメデスを連行しようとしたのですがアルキメデスが従わなかったため、兵士によって命を絶たれてしまいました。将軍はアルキメデスが優秀な科学者だということを知っていて「生きたまま丁重に迎えるように」という命令を下していたため、この知らせに激怒したといわれています。
兵士がアルキメデスを連行しようとした時に「私の図形を踏むな」と兵士に言ったという説もありますが、定かではありません。


■黄金製の王冠

シラクサの王ヒエロンは、ある時金細工師に金の王冠を作らせました。その王冠を見て「金の代わりに銀を混ぜて誤魔化しているのではないか」と疑った王は、アルキメデスに「黄金製の王冠に銀が混ぜられていないかを、王冠を壊さずに調べる」という依頼をします。

アルキメデスはこのことについて、入浴中にヒントを得ました。自分が浴槽に入ると水面が上昇することに気づいたのです。王冠を水槽に沈めれば王冠と同じ分だけ水面が上昇するため、これを利用して王冠の体積を測ることに成功しました。
王冠の重量とこの体積の比を元に密度が求められるため、もしも金よりも比重が軽い別の金属が混ざっていれば容易に判別がつくことになります。
アルキメデスはこのことに気づいた時に喜びのあまり「ヘウレーカ!(「わかった!」)」と叫びながら、服も着ずに裸のままで街を走り回ったという逸話が残っています。


■円周率

アルキメデス以前の時代では円の円周率はだいたい3であることが縄を使って知られていました。
彼は計算によって、これを「3と10/71(約3.14085)」と「3と1/7(約3.1426)」の間にあることまで求めました。
アルキメデスはまず円に内接する多角形と外接する多角形を作り、辺の数を多くすればするほどその形と面積が円のものに近づく、という方法で近似値を計算したのです。


■球と円柱

アルキメデスは球とその球に外接する円柱について、体積と表面積の比は常に2:3になることを発見しました。体積は球が4/3πr^3、円柱が2πr^3、表面積は球が4πr^2、円柱が6πr^2となります。


■てこの発見

支点(てこを支える点)の両側に重さの違うおもりを乗せた時に、どのようにすればてこがつりあうかの条件をアルキメデスが明らかにしました。更にアルキメデスはてこを使用した様々な発明をしました。
「我に支点を与えよ。さすれば地球を動かしてみせよう」という言葉を残したといわれています。


★アルキメデスに関する雑学

・フィールズ賞のメダル

「数学のノーベル賞」といわれているフィールズ賞ですが、受賞者に贈られるメダルには表にアルキメデスの横顔、裏には彼が球と円柱の関係を発見したことにちなんで球と円柱の絵が刻まれています。

・月のクレーター、小惑星

月のクレーターと小惑星には、アルキメデスの名がつけられたものがあります。

2012年2月9日木曜日

ユークリッド

ユークリッド(紀元前300年頃~紀元前275年頃)

ユークリッド(エウクレイデス)は古代ギリシャの幾何学者です。非常に有名な数学者ですが、その生涯についてはほとんど分かっていません。ユークリッドは当時知られていた数学の知識をまとめあげ整理し、「原論」という全13巻の書物に著しました。この「原論」は、数学史上で最も重要な著作物の一つであるとされています。

エジプトのプトレマイオス一世は学問を重要視し、首都アレクサンドリアを世界の学問の中心とするために様々な方策を打ちました。新しく大学を設立したこともその一つですが、この時に招かれた学者のうちの一人がユークリッドでした。ユークリッドはアレクサンドリアの地で数学を教える傍ら、研究を続けていくことになります。
プトレマイオスはユークリッドから幾何学を学んでいましたが、ある日「もっと簡単に幾何学を学ぶ近道はないのか」と聞いたところ、ユークリッドは「幾何学に王道なし」と答えたという逸話があります。


■世界一有名な教科書「原論」

ユークリッドは当時知られていた幾何学上の事実を、5つずつの公理と公準から演繹される定理の集合として体系化しました。これを書物としてまとめたものが「原論」で、数学史上最も重要な著作の1つとされています。それだけではなくこの「原論」は、様々な国の言語に翻訳・出版され世界に広まり、聖書に次ぐベストセラーと言われています。

「原論」はこれ以後二千年以上も、教科書として使われることになります。「原論」は幾何学的なことだけでなく、哲学や論理学の内容も含んでいたため、世に広く受け入れられることになりました。
「原論」でまとめられた幾何学体系は、今日では「ユークリッド幾何学」と呼ばれています。
この功績により、ユークリッドは「幾何学の父」と呼ばれています。


■「原論」の23の定義、5つの公理、5つの公準

「原論」の第1巻のはじめには、23の定義、5つの公理、5つの公準が掲げられています。
定義は「1.点とは部分をもたないものである」からはじまり、「23.同一の平面上にあり両側へどれだけ延長しても交わらない2直線は平行線と呼ばれる」まで があります。
公理と公準は次のようになっています。

公理1
同じものに等しいものは、互いに等しい
公理2
等しいものに等しいものを加えると、その和もまた等しくなる
公理3
等しいものから等しいものを引くと、その差もまた等しくなる
公理4
互いに一致するものは互いに等しい
公理5
全体は部分よりも大きい

公準1
任意の点から他の任意の点へ、ただ一本の直線を引くことができる
(どの点からどの点へも直線が引くことができる)
公準2
有限の線分は、これが直線となるように連続的に延長することができる
(直線はどこまでものばすことができる)
公準3
任意の点を中心とし、任意の長さを半径として一つの円を描くことができる
(点と半径が決まれば円がかける)
公準4
全ての直角は互いに等しい
公準5
一本の直線が他の二直線と交わり、同じ側にある内角の和が二直角より小さい場合は、これらの二直線を限りなく延長すれば内角の和が二直角よりも小さい側で交わる

ユークリッドの5つの公準のうち、最初の4つはとても分かりやすいものになっています。しかし第5公準だけは分かりにくく、公理や他の4つの公準を用いて証明できるのではないかといった見方も出てきました。
しかしユークリッド以後二千年余りが経っても第五公準の証明はできず、19世紀にロシアの数学者・ニコライ・イワノビッチ・ロバチェフスキーが新たな見方(「非ユークリッド幾何学」と呼ばれることになります)を提案するまで時を待つこととなります。


★ユークリッドに関する雑学

・「原論」の写本

エジプトのオクシリンコス遺跡からは歴史的に重要なギリシャの文書が多く発見されましたが、その中にはユークリッドの「原論」の写本もありました。これは現存する最古のものとなっています。

・「アテナイの学童」

ルネサンス期にイタリアの画家ラファエロ・サンティが描いた有名な絵画に、「アテナイの学堂」というものがあります。この絵には有名な古代ギリシアの哲学者たちが描かれているのですが、その中の一人がユークリッドであるといわれています。
絵画の右下に数人の人物がおり、その中に右手にコンパスのようなものを持ち床に置かれた板にかがんで図形を書いているように見える人物がいるのですが、それがユークリッドであるとされています。ただしこれはアルキメデスである、とする説もあります。

2012年2月6日月曜日

エウドクソス

エウドクソス(紀元前408年頃~紀元前355年頃)

エウドクソスは小アジアのクニドスの生まれで、ピタゴラス学派のアルキュタスの元で学びました。長年の間エジプトで暮らし、天文学について研究しました。
地球が中心にあり、他の天体は地球の周りを回っているする「同心天球説」を唱えたことで有名です。この考え方は、後にアリストテレスに影響を与えることになります。


■錐体、球体の体積についての証明

「錐の体積は、同じ底面を持つ柱の体積の3分の1である」ということを最初に述べた人物はデモクリトス(紀元前460頃~紀元前370頃)ですが、エウドクソスはこのことについての証明を行いました。また、「球の体積はその直径の3乗に比例する」ということも証明しました。
数学での功績については比例論もあります。
エウドクソスは多くの定理を発見しましたが、後にユークリッドが「原論」の中でまとめて紹介しました。


■取り尽し法

図形に内接するような多角形を描き、それらの面積を元の図形に近づけていく方法です。
エウドクソスはこの取り尽し法を用いて、球や錐の体積の求め方を証明しました。


★エウドクソスに関する雑学

・黄金比

1:(1+√5)/2 ≒ 1:1.618 は、人間が本能的に美しいと感じる比率だとされています。この比率は「黄金比」と呼ばれていますが、この黄金比を発見したのがエウドクソスであるといわれています。
「黄金比」という名前を付けたのはイタリアのレオナルド・ダ・ヴィンチであるという説もありますが、1835年刊行のドイツの数学者マルティン・オームの著書「初等純粋数学」に、「黄金比」という言葉が既に登場しています。
 この黄金比はパルテノン神殿、ミロのヴィーナス、パリの凱旋門などの人工物の他、ひまわりの種、松ぼっくりのかさなど自然界にも多く見られます。

2012年2月4日土曜日

プラトン

プラトン(紀元前427頃~紀元前347頃)

プラトンはアテナイの生まれで、ソクラテスの弟子となり哲学を学びました。アリストテレスの師でもあります。プラトンはイタリア、シチリアを訪れ、ピタゴラス学派から知識を学んだといわれています。
プラトンは師であるソクラテスの哲学を基にして、古代ギリシアの伝統的な徳とは何かについて考えました。後には目に見える「現実の世界」と、そのもとになる真実の世界「イデア界」に分けるというイデア論を述べました。


■アカデメイア

プラトンは紀元前387年に、アテナイの郊外にアカデメイアという学校を設立しました。アカデメイアでは哲学、政治学、天文学、生物学、数学等の様々な学問が教えられましたが、そこでは対話が重んじられ、教師と生徒の問答によって教育が行われたといわれます。アリストテレスもこのアカデメイアに入学し、プラトンの弟子となりました。
アカデメイアの門には「幾何学を知らざるものは、この門をくぐるべからず」という文言が掲げられていたといわれています。


■プラトン数

プラトンは「国家論」の中で、「12960000」という数について「西洋における聖なる数である」と述べています。216に60000をかけると12960000になりますが、この216という数については以下のように色々な解釈がされています。

・3、4、5(宇宙の要素を現すとされていた数)を用いて「3^3+4^3+5^3=216」と表される
・結婚数と呼ばれていた6(男性数3、女性数2)を用いて「6^3=216」と表される
・調和数35と結婚数6を用いて「35×6+6=216」と表される


■プラトンのラムダ

プラトンの著書「ティマイオス」には「プラトンのラムダ」という数が出てきます。一番上に1、左下方には2の倍数(2、4、8……)、右下方には3の倍数(3、9、27……)と配置していき、三角形を作ります。「ラムダ」というのはギリシャ文字の「Λ」(λ)のことで、この形のような三角形ができあがります。

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4   9
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またこの間にある数についても、「左下方には2の倍数」「右下方には3の倍数」という規則にしたがって埋めていくこともできます。

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4 6 9
8 12 18 27

これらの三角形は、規則を崩さずにいくらでも下方に伸ばしていくことができるのです。


■プラトン立体

「全ての面が同一の正多角形で構成されていて、なおかつ全ての頂点において接する面の数が等しい凸多面体」を「正多面体といいます。
正多面体には正四面体、正六面体、正八面体、正十二面体、正二十面体の5種類がありますが、これらについて研究をしたプラトンの名にちなんで「プラトン立体」と呼ばれています。
ピタゴラス学派はこの5種類の立体を「火は正四面体、空気は正八面体、水は正二十面体、土は正六面体の要素から成り、創造者は宇宙全体を正十二面体に考えた」と考えましたが、プラトンはその著書「ティマイオス」にこのピタゴラス学派の説を記しました。


★プラトンに関する雑学

・プラトンの本名

プラトンは祖父の名前にちなんでアリストクレスと名づけられましたが、立派な体格をしていて肩幅も広かったために、「大きい」という意味を持つ「プラトン」と呼ばれるようになり、以降その名で通るようになりました。

・月のクレーター

月の表側、雨の海の北東の沿岸に位置するクレーターは、プラトンにちなんで命名されたものがあります。

・「アテナイの学童」

ルネサンス期にイタリアの画家ラファエロ・サンティが描いた有名な絵画に、「アテナイの学堂」というものがあります。この絵には有名な古代ギリシアの哲学者たちが描かれていて、絵の中央の二人の人物のうち左側がプラトンであることが分かっています。プラトンが手に持っているのは、プラトンの著書「ティマイオス」です。
この絵に描かれている人物はラファエロと同時代の人物がモデルとなっていて、プラトンのモデルはレオナルド・ダ・ヴィンチであるとされています。
またプラトンと並んで階段を下りているのはアリストテレスで、「プラトンの哲学は中傷的であったので天を指さし、アリストテレスの哲学は現実的であったので地を指さしている」とする説があります。

2012年2月3日金曜日

アルキタス

アルキタス(紀元前428年~紀元前347年)

アルキタスは古代ギリシアの哲学者、数学者、天文学者です。数学を機械学に初めて応用した人物であるといわれています。


■立方体倍積問題

三大作図問題の1つに立方体倍積問題があります。立方体倍積問題とは「与えられた立方体の2倍の体積をもつ立方体を作る」というものです。
アルキタスは紀元前4世紀に、回転体の3つの面の交点としてこの立方体倍積問題を解いたといわれています。

立方体倍積問題についてはフランスの数学者ピエール・ヴァンツェルが1837年に、2の立方根は作図可能数ではないことから、定規とコンパスによる作図は不可能であることを証明しました。


★アルキタスに関する雑学

月のクレーターには、アルキタスにちなんで名付けられたものがあります。


★アルキタスに関する備考

Archytas
生没年:紀元前428年~紀元前347年
生まれ:マグナグラシア、ターレス
父:ムネサゴラスまたはヒスティアイオス
母:不明

2012/07/28更新

2012年2月2日木曜日

デモクリトス

デモクリトス(紀元前460頃~紀元前370頃)

古代ギリシア時代のエーゲ海北岸、トラキア地方・アブデラの生まれで、原子論者として有名です。レウキッポスを師とし、彼とともに古代原子論の祖といわれています。
デモクリトスは大きな財産を相続し、その財を資金に色々な土地を旅し、多くの学識者と交流を持ちました。しかし最後は財産を使い果たし、故郷で兄弟に養われたようです。彼は陽気な性格だったために「笑う哲学者」とも呼ばれました。


■アルケーはアトムである

デモクリトス以前にも多くの哲学者たちが「アルケー(万物の根源)とは何か」ということを考えてきましたが、デモクリトスは「万物は原子(アトム)から成り立っている」としました。「アトム」とは分割不可能な物質の単位で、その存在と運動の場所として上下のない「空虚」の中で、生成や消滅などの現象が起こる、と考えたのです。
しかし当時のギリシアではデモクリトスの考えは受け入れられず、彼が著したとされる約70冊の本も残されていません。デモクリトスとほぼ同じ時代の哲学者としてプラトンがいますが、プラトンはデモクリトスの学説を否定し、彼の書物を焼き払ったとまでいわれています。その後アリストテレスが登場し、万物の根源についての説としては「四大元素」が主流になっていきます。

デモクリトスの説については後にローマの哲学者で詩人でもあるルクレティウスが「物の本質について」という詩物語を書き、その中でデモクリトスの原子説を紹介しています。この本は評判を呼び、写本が数多く作られました。1400年代に活版印刷術が発明されるとその初期に印刷されたものの中に、この「物の本質について」も入っていました。
このようにして、デモクリトスの原子説は後世に伝えられることとなったのです。


■錐の体積

「錐の体積は、同じ底面を持つ柱の体積の3分の1である」ということが知られていますが、このことについて最初に述べた人物がデモクリトスである、とアルキメデスの「方法論」の中に記されています。証明自体は約50年後のエウドクソスが行いました。
他にも数学では幾何学についての著作が多数あったとされていますが、残されていません。一説には50以上もの著作があったといわれています。


★デモクリトスに関する雑学

・名言

「いかなることも偶然には起こりえない」、「多くの愚者を友とするより、一人の知者を友とするべきである」等、デモクリトスは多くの名言を残しています。

・月のクレーター、小惑星

月の表側、北部にあるクレーターには、デモクリトスにちなんで名づけられたものがあります。
このクレーターは氷の海の北に位置しています。
またエリック・エルストがヨーロッパ南天文台で発見した小惑星も、デモクリトスの名がつけられています。