ラベル 1800年代の人物 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 1800年代の人物 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2019年6月30日日曜日

ジュール=アンリ・ポアンカレ

ジュール=アンリ・ポアンカレ(1854年~1912年)

ジュール=アンリ・ポアンカレは、フランスの数学者です。
純粋数学、応用数学で優れた業績を残しました。


■ ポアンカレ予想

ポアンカレ予想とは、位相幾何学(トポロジー)における定理で、3次元球面の特徴づけを与えるものです。
「単連結な3次元閉多様体は3次元球面 S3 に同相である」
と主張しています。

ポアンカレ予想はクレイ数学研究所によりミレニアム懸賞問題の一つに指定され、証明した者には賞金100万ドルが与えられることになりました。
ロシアの数学者であるグリゴリー・ペレルマンがプレプリントサーバにポアンカレ予想の証明を2002年から2003年にかけて投稿し、数学者チームの検討の結果、誤りがないことが発表されました。
ペレルマンには2006年のフィールズ賞、2010年3月18日にミレニアム賞が贈られることになりましたが、ペレルマンは両方とも辞退しています。ミレニアム懸賞問題の賞金と賞品は保管されることとなりました。


★ジュール=アンリ・ポアンカレに関する雑学

アンリの従弟のレイモン・ポアンカレは、フランス共和国第10代大統領を務めました。


★備考

Jules-Henri Poincaré
生没年:1854年4月29日~1912年7月17日(58歳)
生地:フランス、ナンシー
没地:フランス、パリ
従弟:レイモン・ポアンカレ(フランス共和国第10代大統領)
1875年、エコール・ポリテクニク卒業
1879年、カーン大学講師
1881年、パリ大学
1885年、パリ大学教授
1887年、パリ科学アカデミー会員

2018年12月3日月曜日

フェルディナント・フォン・リンデマン

フェルディナント・フォン・リンデマン(1852年~1939年)

フェルディナント・フォン・リンデマンは、ドイツの数学者です。


■ 超越数

代数的数でない数のことを「超越数」と呼びます。これはどのような有理係数の代数方程式の解にもならないような複素数のことです。
超越数の例としては円周率 π 、自然対数の底 e があります。
超越数は 1831年に J.リュービルによって初めて存在が証明され, 1873年にはシャルル・エルミートによって e が超越数であることが示されました。リンデマンは 1882年にπ が超越数であることを証明しました。

この証明によって、円積問題の作図が不可能だということが証明されました。円積問題とは「与えられた長さの半径を持つ円に対して、定規とコンパスのみの有限回の操作で、その円と面積の等しい正方形を作図することができるか」という問題で、古代からの未解決問題として知られていました。

★備考

Carl Louis Ferdinand von Lindemann
生没年:1852年4月12日~1939年3月6日
生地:ドイツ、ハノーバー
没地:ドイツ、ミュンヘン
1873年、エアランゲン大学卒業
1879年、フライブルク大学教授
1883年、ケーニヒスベルク大学教授、
1893年、ミュンヘン大学教授
1904年、ミュンヘン大学学長

2017年8月31日木曜日

ソフィア・コワレフスカヤ

ソフィア・ヴァシーリエヴナ・コワレフスカヤ(1850年~1981年)

ソフィア・コワレフスカヤはロシアの数学者です。

コワレフスカヤは父や叔父の影響で、幼少時から数学に興味を持っていました。しかし当時のロシアでは女性が高等教育を受けることは許されておらず、ハイデルベルク大学では非公式の聴講生として講義を受講していました。
そのような不遇な状況に置かれていたコワレフスカヤでしたが、ハイデルベルク大学での師であるレオ・ケーニヒスベルガーから、カール・ワイエルシュトラスへの賞賛の言葉を何度も耳にし感化されます。後にコワレフスカヤはドイツ、ベルリン大学のワイエルシュトラスを訪れ、彼に才能を認められ長きに渡り数学の教えを受けることとなりました。

1884年にはスウェーデンの数学者であるミッタク=レフラーの支援によりストックホルム大学非常勤講師となり、その後1889年に晴れて教授となります。ロシア人女性としては初の大学教授でした。


■コーシー=コワレフスカヤの定理

コワレフスカヤはクレレ誌において偏微分方程式についての研究論文を発表し、この中で現在「コーシー=コワレフスカヤの定理」と呼ばれる定理を証明しました。
この理論はまずコーシーが特別な場合の解を与え、コワレフスカヤは更に一般的な場合の解を与えて理論を完成させました。


★ソフィア・コワレフスカヤに関する雑学

・コワレフスカヤはロシアで初めて女性大学教授となりました。
ヨーロッパを含めるとラウラ・バッシが初めて、マリア・ガエターナ・アニェージが2番目、コワレフスカヤが3番目となります。

・ノーベル賞には数学賞がありません。その理由は明らかになっていませんが、一説ではノーベルのコワレフスカヤへの恋心が実らず、もしもノーベル数学賞を作ったらコワレフスカヤと親しいミッタク=レフラー(スウェーデンの数学者、1846年3月16日~1927年7月7日)が受賞するかもしれないと考えたためではないか、とも言われています。

・コワレフスカヤは数学の他に文学的才能も持ち併せており、彼女の執筆した小説は多くの国々で翻訳・出版されています。


★備考

Sofia Vasilyevna Kovalevskaya
生没年:1850年1月15日~1891年2月10日(インフルエンザのため)
生地:ロシア、モスクワ
没地:スゥエーデン、ストックホルム
夫:ウラジーミル・オヌーフリエヴィチ・コワレフスキー (地質学・古生物学者)
父:ヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチ・コールヴィン=クルコーフスキー
 ( ロシア帝国軍陸軍中将 、1800年~1874年 )
母:エリザヴェータ・フョードロヴナ・シューベルト
祖父:テオドール・シューベルト(数学者・天文学者)
叔父:ピョートル・ヴァシーリエヴィチ・クルコーフスキー
姉:アンナ(作家、1843年~1887年)
弟:フョードル(ロシア帝国軍将軍 )
主な著書:『ソーニャ・コヴァレフスカヤ―自伝と追想』
 
 

2016年10月8日土曜日

フェリックス・クライン

フェリックス・クリスティアン・クライン(1849年~1925年)

フェリックス・クラインはドイツの数学者です。幾何学の研究指針について示した「エルランゲン・プログラム」が大きな業績です。


■エルランゲン・プログラム

1872年、クラインはエルランゲン大学の教授となりましたが、その時の就任講演において幾何学の研究の指針についての考えを示しました。その内容は「幾何学とは、変換によって不変な図形の性質を研究するものである」というもので、「エルランゲン・プログラム」と呼ばれています。この考えにより当時の様々な幾何学が、変換群という視点で分類できるようになりました。


■クラインの壺

クラインは下図のように、矢印を付けた正方形について対辺を矢印の向きが合うように貼り合わせた図形を考案しました。

 ・←←←・
↓ ・ ・ ・ ↓
↓ ・ ・ ・ ↓
 ・→→→・

この図形は「クラインの壺」と呼ばれ、表裏の区別がなく境界もない図形となっています。
クラインの壺は3次元空間に存在することはできません。


★備考

Felix Christian Klein
生没年:1849年4月25日~1925年6月22日
生まれ:ドイツ、デュッセルドルフ
父:プロイセン王国政府首長秘書
妻:アンネ・ヘーゲル
主な著書:『19世紀の数学』、『高い立場からみた初等数学』、『正20面体と5次方程式』
 

2016年2月27日土曜日

ゲオルク・カントール

ゲオルク・フェルディナント・ルートヴィッヒ・フィリップ・カントール
(1845年3月3日~1918年1月6日)

ゲオルク・カントールはドイツの数学者です。集合論や無限に関する研究で業績を残しました。


■超限数

カントールは無限には異なる種類があることを見出し、超限数と名付けました。現代数学では無限集合同士の大小を比較するために、「濃度」という概念を用いています。
超限数は「 ℵ (アレフ)」の記号で表されます。無限集合のうちで濃度が最小のものは「 ℵ0 (アレフ・ゼロ)」で表し、自然数全体の集合 N がこれにあたり「可算濃度」と呼びます。また、整数全体の集合 Z や有理数全体の集合 Q の濃度も ℵ0 となります。一方、実数全体の集合 R の濃度は 2^ℵ0 となります。


■連続体仮説

カントールは、「可算濃度と連続体濃度の間には他の濃度が存在しない」、つまり「 ℵ0 より濃度が大きく 2^ℵ0 より濃度が小さい無限は存在しない」とする仮説を立てました。
カントールは対角線論法により可算濃度より連続体濃度の方が大きいことを証明しましたが、連続体仮説については証明することができませんでした。
この連続体仮説は1900年の第2回国際数学者会議において、ドイツの数学者ダフィット・ヒルベルトによる「ヒルベルトの23の問題」の第1問題として挙げられました。後にクルト・ゲーデル、ポール・コーエンの研究により、連続体仮説は証明も反証もできない命題であることが証明されています。


★備考

Georg Ferdinand Ludwig Philipp Cantor
生没年:1845年3月3日~1918年1月6日
生まれ:ロシア、サンクトペテルブルク
父:ゲオルク・ヴァルデマール・カントール
母:マリア・アンナ
弟:コンスタンティン
妹:ゾフィー・ノビリンク
妻:ファリー・グットマン
息子:2名
娘:4名
主な著書:1885 年『実無限に関するさまざまな立場について 』
 

2016年1月12日火曜日

アナトール・リュカ

フランソワ・エドゥアール・アナトール・リュカ(1842年4月4日~1891年10月3日)

アナトール・リュカはフランスの数学者です。フィボナッチ数の研究等で知られています。


■リュカ数

初項が0、次の項が1、それ以降の項はその前の2つの項の和となっている数列をフィボナッチ数列と呼びます。リュカはこのフィボナッチ数列を研究しました。
初項を2、次の項を1とし、それ以降の項は前2項の和になっている数列のことをリュカ数と呼び、n番目のリュカ数をLnで表したとき、

L = 2L= 1
Ln+2 = L+ Ln+1

となります。


■メルセンヌ数
2^n - 1 (n は自然数)の形の自然数をメルセンヌ数と呼び、 Mn で表します。この中で素数であるメルセンヌ数のことをメルセンヌ素数と呼びます。
リュカは1876年に、  M127 が素数であることを証明しました。


■ハノイの塔

リュカは数学的なパズルにも関心を持ち、「ハノイの塔」と呼ばれるパズルを考案しました。
この「ハノイの塔」は板に3本の杭がついており、はじめの状態では左端の杭に、大きさの異なる円盤(中心に穴が開いている)が何個かはめられています。この状態から、

・円盤は一度に1枚ずつどれかの杭に移動させることができる
・小さい円盤の上に大きい円盤を乗せることはできない

上記2点のルールを守った上で、円盤を全て右端の杭に移動させることがこのパズルの目的です。
円盤がn枚あるとき、全ての円盤を左端から右端まで移動させるためには、最低 2^n - 1 回の操作が必要であることが分かっています。
リュカはこのパズルを販売し、そのパッケージには「Li-sou-stian大学勤務のシャム出身のN. Claus教授」と書かれていましたが、これはリュカの偽名であるといわれています。


★備考

François Édouard Anatole Lucas
生没年:1842年4月4日~1891年10月3日
生まれ:フランス、アミアン
 

2015年12月30日水曜日

サミュエル・ロイド

サミュエル・ロイド(1841年~1911年)

サミュエル・ロイドはアメリカのパズル作家です。


■15パズル

ロイドは14歳の時に、考案したチェスのパズルが雑誌に掲載されました。それ以降チェスを題材にしたパズルやコラムをいくつかの雑誌で担当し、ロイドは著名なチェス問題作者となりました。

1878年には「15パズル」を用いたパズルを考案し、このパズルに1000ドルの懸賞金をかけて発表します。
15パズルとは、1から15までの数字が書かれたタイルを4×4の16マスの格子に配置したものです。1マス分のスペースが空いているので、このスペースを利用してタイルを上下左右に滑らせ、数字の順番を変えて遊べるようになっています。

ロイドが発表したパズルでは最初の配置が14と15が逆、つまり「1、2、3、……、12、13、15、14」となっているものでした。ロイドはこの初期配置からタイルを滑らせていって、14と15の順番だけを入れ替える(「1、2、3、……、12、13、14 、15」)手順を示すことができた最初の者に1000ドルの賞金を与えると宣言しました。

このパズルは大評判となりましたが、ロイドの指定通りに解くことは不可能な問題であったため、ロイドが賞金を支払うことになる心配はありませんでした。


★サミュエル・ロイドに関する雑学

・ロイドの息子は1914年に、父親のパズルを集めた本『パズルの百科事典』( Cyclopedia of Puzzles )を出版しました。

・ロイドはイギリスのパズル作家ヘンリー・アーネスト・デュードニーと親交を深めていましたが、ロイドがデュードニーのパズルを自分のものとして無断で発表するなどしたため、関係は悪化しました。


★備考

Samuel Loyd
生没年:1841年1月31日~1911年4月10日
生まれ:アメリカ、フィラデルフィア
父:不明
母:不明
主な著書:1903年 『タンの8番目の本』(The Eighth Book of Tan)

2015年12月14日月曜日

リヒャルト・デーデキント

ユリウス・ヴィルヘルム・リヒャルト・デーデキント (1831年~1916年)

リヒャルト・デーデキント はドイツの数学者です。代数学、数論の分野で業績を残しました。


■デーデキントの切断

全順序集合Kについて、次の性質を満たす2つの集合A、Bに分けるとします。

1. K = A∪B
2. A∩B = ∅ 、A ≠ ∅、B ≠ ∅
3. a∈A かつ b∈B ⇒ a<b

これらの性質を満たす集合A、Bの対(A、B)を、デーデキントの切断 (Dedekind’s cut)と呼びます。また、Aを下組、Bを上組と呼びます。


★ユリウス・ヴィルヘルム・リヒャルト・デーデキントに関する雑学

・デーデキントは成人してから、名前のうちのはじめの2つは削ったと言われています。

・1981年に、デーデキントの生誕150周年記念として東ドイツで切手が発行されました。この切手には、素イデアル分解を表す式が書かれています。


★備考

Julius Wilhelm Richard Dedekind
生没年:1831年10月6日~1916年2月12日
生まれ:ドイツ、ブラウンシュヴァイク
父:ユリウス・レヴィン・ウルリッヒ・デーデキント(法学教授)
母:不明
兄:法学者
姉:ユリー(小説家)、マチルデ
主な著書:1872年『連続性と無理数』

2015年11月27日金曜日

ベルンハルト・リーマン

ゲオルク・フリードリヒ・ベルンハルト・リーマン(1826年~1866年)

ベルンハルト・リーマンは、ドイツの数学者です。解析学や数論の分野で業績を上げました。


■リーマン予想

18世紀のフランスの数学者アドリアン=マリ・ルジャンドルは、与えられた1つの数よりも小さい素数の個数を求める公式を研究していました。ルジャンドルの公式は完全なものではなく、リーマンはこの問題を解こうとしていました。

1859年に、リーマンはベルリン学士院月報に論文『与えられた数より小さい素数の個数について』を発表します。

ζ(s) = 1 + 1/(2^s) + 1/(3^s) 1/(4^s) 1/(5^s) + ……

( s は複素数、u、v は実数で、 s = u + iv )

このζ(s)は「リーマンのゼータ関数」と呼ばれており、リーマンは「ζ(s) の自明でない零点 s は、全て実部が 1/2 の直線上に存在する」という予想を立てました。これは「リーマン予想」と呼ばれており、現在まで未証明のままとなっています。

クレイ数学研究所は数学上の未解決問題の証明に100万ドルの懸賞金を設けており、これらの問題は「ミレニアム懸賞問題」と呼ばれています。ミレニアム懸賞問題は7つあり、リーマン予想もその1つとして挙げられています。ミレニアム懸賞問題のうちのポアンカレ予想は、グリゴリー・ペレルマンにより解決しています。


★ゲオルク・フリードリヒ・ベルンハルト・リーマンに関する備考

Georg Friedrich Bernhard Riemann
生没年:1826年9月17日~1866年7月20日
生まれ:ハノーファー王国ブレゼレンツ村
父:牧師
母:シャルロッテ・エーベル(宮廷顧問官の娘)
兄:1名
姉妹:マリー、他3名
妻:エリーゼ・コッホ
主な著書等:
1854年6月10日教授資格取得講演『幾何学の基礎にある仮説について』
1857年『アーベル関数の理論』
1859年『与えられた数より小さい素数の個数について』

2015年11月14日土曜日

レオポルト・クロネッカー

レオポルト・クロネッカー(1823年~1891年)

レオポルト・クロネッカーは、ドイツの数学者です。数論や方程式論の分野などで業績を残しました。

■著名数学者との反目

クロネッカーは、自然数と有限回の演算から得られる数のみが存在するものと考えていました。
このため無理数を扱っていたカール・ワイエルシュトラスや超越数を扱っていたゲオルク・カントールのことを、公然と批判していました。


★備考

Leopold Kronecker
生没年:1823年12月7日~1891年12月29日(68歳、気管支の病気により死亡、ベルリン)
生まれ:ドイツ、リーグニッツ
弟:フーゴー(Karl Hugo Kronecker、1839年1月27日~1914年6月6日、生理学者)
妻:ファニー・プラウスニッツェル(伯父の娘)
子:6人
主な著書・論文:
1845年『複素単数論』(De Unitatibus Complexis)
1858年『一般五次方程式の解法について』

2015年11月10日火曜日

フェルディナント・アイゼンシュタイン

フェルディナント・ゴットホルト・マックス・アイゼンシュタイン(1823年~1852年)

フェルディナント・アイゼンシュタインはドイツの数学者です。幼少の頃より数学的な才能を発揮し、ガウスの『整数論研究』の影響から特に整数論に興味を持っていました。


■アイゼンシュタイン整数

アイゼンシュタイン整数とは「a + bω」の形の複素数のことであり、a、bは整数、ωは
ω^2 + ω + 1 = 0 の根の一つです。

アイゼンシュタインは
「整数 n と素数 p に対して、合同式 x^3 ≡ n (mod p) が解を持つのはいかなる場合か」
という3乗剰余の問題の研究において、この「アイゼンシュタイン整数」と呼ばれることになる数を用いました。


★備考

Ferdinand Gotthold Max Eisenstein
生没年:1823年4月16日~1852年10月11日
生まれ:ドイツ、ベルリン

2015年10月31日土曜日

シャルル・エルミート

シャルル・エルミート(1822年~1901年)

シャルル・エルミートは、フランスの数学者です。5次方程式の楕円関数による解法などで知られています。


■超越数

有理数を係数とする代数方程式の解となるような数を「代数的数」といい、代数的数でない数のことを「超越数」といいます。エルミートは自然対数の底 e が、超越数であることを証明しました。


■5次方程式の解法

ヨハン・カール・フリードリヒ・ガウスによる「代数学の基本定理」によって、任意の複素数係数方程式は複素数の中に根が存在します。しかし5次以上の方程式には一般的な代数的解法は存在しないということが、ニールス・ヘンリック・アーベルによって証明されています。
エルミートは5次方程式について、代数的な方法ではなく楕円関数を用いて解くことに初めて成功しました。


★備考

Charles Hermite
生没年:1822年12月24日~1901年1月14日
生まれ:フランス、ロレーヌ、ディユーズ
父:製塩業者、衣料商人
母:マドレーヌ・ラルマン
主な著書・論文:
1842年『解析幾何学に於ける円錐曲線』
『5次方程式の代数的解法に関する考察』
1858年『一般5次方程式の解法について』

2015年10月14日水曜日

ジョージ・ブール

ジョージ・ブール(1815年~1864年)

ジョージ・ブールは、イギリスの数学者・哲学者です。記号論理学の研究で知られています。


■ブール代数

当時、数学は「数」や「図形」を扱う学問で、「論理」は哲学の分野であると考えられていました。
ブールは論理や推論を数学的に考えられるのではないかという発想を持ち、1844年の論文において「演算」を記号で表し、その記号同士の計算を考えました。更に1854年には著書『思考の法則の研究』の中で、数学的な記号を用いて論理的な結論を導き出す方法を提唱します。この考え方は、今日の「ブール代数」の元となっています。


★備考

George Boole
生没年:1815年11月2日~1864年12月8日
生まれ:イギリス、リンカーンシャー、リンカーン
父:ジョン・ブール(John Boole、靴職人)
母:不明
妻:メアリ・エベレスト(1832年~1916年)
長女:アリー・エレン・ブール(Mary Ellen Boole、1856年~?)
次女:マーガレット
三女:アリシア・ブール・ストット(1860年~1940年、オランダ、フローニンゲン大学名誉博士号)
四女:ルーシー・エベレスト(1862年~1905年)
五女:エセル・リリアン・ブール(Ethel Lilian Boole)
主な著書:
1847年『論理学の数学的分析』(Mathematical Analysis of Logic)
1854年『思考の法則の研究』(An Investigation of Laws of Thoughts)

2015年9月27日日曜日

オーガスタ・エイダ・キング

オーガスタ・エイダ・キング(1815年~1852年)

オーガスタ・エイダ・キングは、イギリス貴族の女性で数学の愛好者です。チャールズ・バベッジの解析機関に関する著作でで知られています。


■バベッジの解析機関

エイダの母親には数学の素養があったため、その影響からエイダも数学に興味を持ちます。
1833年にエイダは友人からイギリスの数学者チャールズ・バベッジを紹介され、数学を本格的に学び始めました。バベッジはコンピュータの元となる階差機関や解析機関の研究で知られています。

バベッジは1842年にイタリアを訪問しましたが、その折にイタリア人の数学者であるルイジ・メナブレアに会いました。メナブレアは解析機関に関する記録をフランス語で記し出版し、1843年にはエイダがこれを翻訳しています。

エイダはこの翻訳の際に、本文の量を上回る訳注を記述し、その中にはプログラムのコードも記されていました。このためエイダは「世界初のプログラマー」、「プログラマーの母」等と呼ばれています。
現在ではこの本のプログラムはバベッジが書いたもので、エイダはミスを指摘したものとされています。ただしバベッジが解析期間を計算機としか見ていなかったのに対し、エイダはそれ以上の可能性があることに言及していました。


★オーガスタ・エイダ・キングに関する雑学

プログラミング言語Adaは、エイダにちなんで名づけられました。


★備考

Augusta Ada King
生没年:1815年12月10日~1852年11月27日
父:ジョージ・ゴードン・バイロン(詩人)
母:アナベラ・ミルバンク
夫:ウィリアム・キング男爵(ラブレース伯爵)
娘:アン・ブラント
孫:ジュディス・ブラント

2015年9月10日木曜日

ピエール・ローラン・ヴァンツェル

ピエール・ローラン・ヴァンツェル(1814年~1848年)

ピエール・ローラン・ヴァンツェルは、フランスの数学者です。ギリシア時代からの作図問題を証明したことで知られています。


■三大作図問題

古来からの図形に関する問題で「定規とコンパスのみを用いた有限回の操作で、ある指定された図形を描けるかどうか」というものがあります。
ここで用いる定規は2点を通る直線を引くことのみに用い、長さを図ることはできません。またコンパスは、与えられた中心と半径の円を描くことと、既に作図されている二点間の長さを測ることができます。

多くの図形は定規とコンパスのみで作図可能であることが示されましたが、作図が可能か不可能か分かっていない図形もありました。

・与えられた円と等しい面積をもつ正方形を作ること(円積問題)
・与えられた立方体の体積の2倍に等しい体積をもつ立方体を作ること(立方体倍積問題、「デロス島の災難」の問題)
・与えられた角を三等分すること(角の三等分問題)

これら3つはギリシア時代から解決されていない問題であることから、「ギリシアの三大作図問題」と呼ばれています。
ヴァンツェルは1837年に、立方体倍積問題と角の三等分問題は三次方程式を解かなくてはならないので、定規とコンパスのみでは作図できないことを示しました。
円積問題についてはドイツの数学者であるフェルディナント・フォン・リンデマンが1882年に作図不可能であることを示しています。


★備考

Pierre Laurent Wantzel
生没年:1814年6月5日~1848年5月21日
生まれ:フランス、パリ

2015年8月24日月曜日

エヴァリスト・ガロア

エヴァリスト・ガロア(1811年~1832年)

エヴァリスト・ガロアは、フランスの数学者です。代数方程式の解の構造を調べる等、代数学に多大な貢献を残しました。


■不遇の人生

1823年、12歳でルイ・ル・グラン高等中学校に入学したガロアは語学などの勉強に次第に飽きてしまい、落第してしまいます。その後フランスの有名な数学者アドリアン=マリ・ルジャンドルの幾何学の著作に出会ったことがきっかけで、ガロアは数学に熱中していくことになります。

1828年と1829年の二度、ガロアは理工科学校(エコール・ポリテクニーク)を受験しました。しかし口頭試問でのガロアの回答を理解できなかった試験管に苛立つなどの態度もあり、二度とも受験に失敗してしまいます。
この間ガロアはルイ=ポール=エミール・リシャールという教師に出会い、彼の勧めで論文を執筆します。その論文はフランス科学アカデミーに提出され、オーギュスタン=ルイ・コーシーに審査されるはずでした。しかしコーシーは論文を紛失してしまい、科学アカデミーからは満足な返事が得られませんでした。
その後ガロアは自分の論文に少し手を加え、科学アカデミー主催の賞に応募します。この時のアカデミー事務局長ジョゼフ・フーリエがガロアの論文を持ち帰りますが、不幸にも他界してしまいガロアの論文はまたもや発見されないままとなってしまいました。

1830年、ガロアは高等師範学校(エコール・ノルマル・シュペリオール)を受験、合格します。
当時のフランスは革命のさなかであり、王政派と共和主義派が激しく対立していました。共和主義だったガロアは校長のジョセフ・ダニエル・ギニョーと対立し、ついには放校処分となってしまいます。このエコール・ノルマルではオーギュスト・シュヴァリエという人物と出会い、生涯を通じての親友となります。
学校から離れたガロアは国民軍砲兵隊に入るなど、共和主義の活動に身を入れていきます。何度も投獄されることになりますが、数学の研究も続けていました。

1832年5月、ガロアは恋愛問題によって決闘を申し込まれます。決闘は5月30日の朝に行われることとなり、その前日の夜にガロアはオーギュスト・シュヴァリエに宛てて遺書を書き、その中でこれまでの数学に関する研究成果を書き記しました。
5月30日の早朝、ジャンティーユ地区グラシエールの沼の近くで決闘が行われました。ガロアは腹部を撃たれ、その場に放置され、午前9時30分にコシャン病院に運ばれました。外科医のドニ・ゲルボアが治療に当たりましたが、5月31日午前10時に弟アルフレッドに見守られながらガロアは息を引き取りました。

シュヴァリエが受け取った遺書はアカデミーに提出され、ジョゼフ・リウヴィルはこれを整理して1846年に自身が編集する『純粋・応用数学雑誌』に掲載しました。1897年には『ガロア全集』が刊行されています。

「五次以上の方程式には一般的な代数的解の公式がない」ということはニールス・ヘンリック・アーベルによって証明されていますが、方程式がどのような場合に代数的な解を持つかということは分かっていませんでした。ガロアの理論はこれを明らかにし、数学界での方程式に関する研究は大きく前進することになります。


★エヴァリスト・ガロアに関する雑学

・ルイ・ル・グラン時代のノート

ルイ・ル・グラン時代のガロアの数学教師であったルイ=ポール=エミール・リシャールは、ガロアが授業で使った12冊のノートを保管していました。そのノートは、科学アカデミーの図書館に収められることになります。

・ガロアの墓

ガロアの死後、遺体は共同墓地に埋葬されましたがその墓地は現在では残っていません。
故郷のブール=ラ=レーヌには墓碑と、ガロアの生家を示す飾り板があります。


★備考

Evariste Galois
生没年:1811年10月25日~1832年5月31日
生まれ:フランス、パリ、ブール=ラ=レーヌ
父:ニコラ・ガブリエル・ガロア(公立学校校長後、ブール=ラ=レーヌ町長、1829年7月2日没)
母:アデライド・マリ・ドマント(1872年没、84歳)
姉:ナタリー・テオドール
弟:アルフレッド

2015年8月9日日曜日

エルンスト・クンマー

エルンスト・エドゥアルト・クンマー(1810年~1893年)

エルンスト・クンマーは、ドイツの数学者です。整数論の発展に大きく貢献しました。


■クンマーの理想数

フランスの数学者であるオーギュスタン・ルイ・コーシーとガブリエル・ラメは、フェルマーの最終定理の証明に取り組んでいました。彼らの証明方法では素因数分解の一意性が重要な意味を持っていましたが、これを知ったクンマーは素因数分解において虚数を含んで考えると一意性がなくなることを指摘しました。
この後クンマーは素因数分解の一意性の問題に取り組み、「理想数」という考えを導入しました。理想数の概念はリヒャルト・デーデキントに受け継がれ、「イデアル」という概念が生まれることになります。


■フェルマーの最終定理

フェルマーの最終定理の証明には、1816年にフランス科学アカデミーによって懸賞金がかけられていました。クンマーはこのフェルマーの最終定理について限定的な場合の証明をしましたが、その功績が認められ1850年に3000フランの金メダルを受賞しました。
フェルマーの最終定理に関しては1850年に再びフランス科学アカデミーが、1908年にはドイツの資本家のパウル・ヴォルフスケールが懸賞金をかけています。1997年にアンドリュー・ワイルズがフェルマーの最終定理を完全に証明し、受賞しました。


★備考

Ernst Eduard Kummer
生没年:1810年1月29日~1893年5月14日
生まれ:ブランデンブルク公国、ゾラウ
父:ゾラウの開業医

2015年7月28日火曜日

ヘルマン・ギュンター・グラスマン

ヘルマン・ギュンター・グラスマン(1809年~1877年)

ヘルマン・ギュンター・グラスマンは、ドイツの数学者、物理学者、言語学者です。グラスマン代数で知られています。古代インドの聖典『リグ・ヴェーダ』(Rigveda)の辞典や翻訳においても、偉大な業績を残しています。


■『広延論』

1844年、グラスマンは『広延論』を著しました。しかし内容が先進的すぎたために当時は注目されず、グラスマンの死後にようやく高い評価を受けるようになりました。
またグラスマンは、実数体上のベクトル空間の外積代数を定義しました。この外積代数はグラスマンに因んで、グラスマン代数としても知られています。


★備考

Hermann Gunther Grasmann
生没年:1809年4月15日~1877年9月26日
生まれ:プロイセン王国シュテッティン
父:ユストゥス・ギュンター・グラスマン(シュテッティンギムナジウム教授)
主な著書:1844年『広延論』Ausdehnungslehre


2015年7月12日日曜日

ジョゼフ・リウヴィル

ジョゼフ・リウヴィル(1809年~1882年)

ジョゼフ・リウヴィルは、フランスの物理学者、数学者です。リウヴィルの定理で知られています。


■リウヴィルの定理

リウヴィルの定理には、物理学、解析学、数論の3つの分野に関わるものがあります。


■リウヴィル数

1844年に、リウヴィルは超越数の最初の例を示しました。この数を「リウヴィル数」(Liouville number)といいます。


■ガロアの功績の発見

フランスの数学者エヴァリスト・ガロア(Evariste Galois、1811年10月25日~1832年5月31日)の功績は生前は認められることはありませんでしたが、ガロアの死後に彼の論文の写しが当時の数学者達の一部に送られました。リウヴィルはその写しを入手し価値を見出し、1846年に『純粋・応用数学雑誌』(Journal de mathematique pures et appliquees)にガロアの論文集を掲載しました。このことがきっかけとなって、ガロアの功績が多くの数学者たちに知られることになりました。リウヴィルはガロアが生前認められなかった理由を「簡潔さを求めすぎて分かりにくくなっている」と述べています。


★備考

Joseph Liouville
生没年:1809年3月24日~1882年9月8日
生まれ:パ=ド=カレー県サントメール

エコール・ポリテクニーク教授(フランス、1833年)


2015年6月29日月曜日

オーガスタス・ド・モルガン

オーガスタス・ド・モルガン(1806年~1871年)

オーガスタス・ド・モルガンは、イギリスの数学者です。ド・モルガンの法則で知られています。


■ド・モルガンの法則

モルガンは数理論理学、集合論において、論理積、論理和、否定の間に成り立つ関係を示しました。これらの関係は「ド・モルガンの法則」と呼ばれています。


■数学的帰納法

「数学的帰納法」(mathematical induction)という言葉は、1838年にド・モルガンによって命名されました。


★備考

Augustus de Morgan
生没年:1806年6月27日~1871年3月18日
生まれ:インド・マドゥライ
父:ジョン・ド・モルガン、イギリス東インド会社勤務
子:ウィリアム・ド・モルガン(William De Morgan、1839年11月16日~1917年1月15日)、小説家、デザイナー、画家、陶芸家

ユニヴァーシティ・カレッジ教授(ロンドン・1828年)
ロンドン数学会(The London Mathematical Society、略称LMS)初代会長(1865年1月16日)