2015年8月24日月曜日

エヴァリスト・ガロア

エヴァリスト・ガロア(1811年~1832年)

エヴァリスト・ガロアは、フランスの数学者です。代数方程式の解の構造を調べる等、代数学に多大な貢献を残しました。


■不遇の人生

1823年、12歳でルイ・ル・グラン高等中学校に入学したガロアは語学などの勉強に次第に飽きてしまい、落第してしまいます。その後フランスの有名な数学者アドリアン=マリ・ルジャンドルの幾何学の著作に出会ったことがきっかけで、ガロアは数学に熱中していくことになります。

1828年と1829年の二度、ガロアは理工科学校(エコール・ポリテクニーク)を受験しました。しかし口頭試問でのガロアの回答を理解できなかった試験管に苛立つなどの態度もあり、二度とも受験に失敗してしまいます。
この間ガロアはルイ=ポール=エミール・リシャールという教師に出会い、彼の勧めで論文を執筆します。その論文はフランス科学アカデミーに提出され、オーギュスタン=ルイ・コーシーに審査されるはずでした。しかしコーシーは論文を紛失してしまい、科学アカデミーからは満足な返事が得られませんでした。
その後ガロアは自分の論文に少し手を加え、科学アカデミー主催の賞に応募します。この時のアカデミー事務局長ジョゼフ・フーリエがガロアの論文を持ち帰りますが、不幸にも他界してしまいガロアの論文はまたもや発見されないままとなってしまいました。

1830年、ガロアは高等師範学校(エコール・ノルマル・シュペリオール)を受験、合格します。
当時のフランスは革命のさなかであり、王政派と共和主義派が激しく対立していました。共和主義だったガロアは校長のジョセフ・ダニエル・ギニョーと対立し、ついには放校処分となってしまいます。このエコール・ノルマルではオーギュスト・シュヴァリエという人物と出会い、生涯を通じての親友となります。
学校から離れたガロアは国民軍砲兵隊に入るなど、共和主義の活動に身を入れていきます。何度も投獄されることになりますが、数学の研究も続けていました。

1832年5月、ガロアは恋愛問題によって決闘を申し込まれます。決闘は5月30日の朝に行われることとなり、その前日の夜にガロアはオーギュスト・シュヴァリエに宛てて遺書を書き、その中でこれまでの数学に関する研究成果を書き記しました。
5月30日の早朝、ジャンティーユ地区グラシエールの沼の近くで決闘が行われました。ガロアは腹部を撃たれ、その場に放置され、午前9時30分にコシャン病院に運ばれました。外科医のドニ・ゲルボアが治療に当たりましたが、5月31日午前10時に弟アルフレッドに見守られながらガロアは息を引き取りました。

シュヴァリエが受け取った遺書はアカデミーに提出され、ジョゼフ・リウヴィルはこれを整理して1846年に自身が編集する『純粋・応用数学雑誌』に掲載しました。1897年には『ガロア全集』が刊行されています。

「五次以上の方程式には一般的な代数的解の公式がない」ということはニールス・ヘンリック・アーベルによって証明されていますが、方程式がどのような場合に代数的な解を持つかということは分かっていませんでした。ガロアの理論はこれを明らかにし、数学界での方程式に関する研究は大きく前進することになります。


★エヴァリスト・ガロアに関する雑学

・ルイ・ル・グラン時代のノート

ルイ・ル・グラン時代のガロアの数学教師であったルイ=ポール=エミール・リシャールは、ガロアが授業で使った12冊のノートを保管していました。そのノートは、科学アカデミーの図書館に収められることになります。

・ガロアの墓

ガロアの死後、遺体は共同墓地に埋葬されましたがその墓地は現在では残っていません。
故郷のブール=ラ=レーヌには墓碑と、ガロアの生家を示す飾り板があります。


★備考

Evariste Galois
生没年:1811年10月25日~1832年5月31日
生まれ:フランス、パリ、ブール=ラ=レーヌ
父:ニコラ・ガブリエル・ガロア(公立学校校長後、ブール=ラ=レーヌ町長、1829年7月2日没)
母:アデライド・マリ・ドマント(1872年没、84歳)
姉:ナタリー・テオドール
弟:アルフレッド

2015年8月9日日曜日

エルンスト・クンマー

エルンスト・エドゥアルト・クンマー(1810年~1893年)

エルンスト・クンマーは、ドイツの数学者です。整数論の発展に大きく貢献しました。


■クンマーの理想数

フランスの数学者であるオーギュスタン・ルイ・コーシーとガブリエル・ラメは、フェルマーの最終定理の証明に取り組んでいました。彼らの証明方法では素因数分解の一意性が重要な意味を持っていましたが、これを知ったクンマーは素因数分解において虚数を含んで考えると一意性がなくなることを指摘しました。
この後クンマーは素因数分解の一意性の問題に取り組み、「理想数」という考えを導入しました。理想数の概念はリヒャルト・デーデキントに受け継がれ、「イデアル」という概念が生まれることになります。


■フェルマーの最終定理

フェルマーの最終定理の証明には、1816年にフランス科学アカデミーによって懸賞金がかけられていました。クンマーはこのフェルマーの最終定理について限定的な場合の証明をしましたが、その功績が認められ1850年に3000フランの金メダルを受賞しました。
フェルマーの最終定理に関しては1850年に再びフランス科学アカデミーが、1908年にはドイツの資本家のパウル・ヴォルフスケールが懸賞金をかけています。1997年にアンドリュー・ワイルズがフェルマーの最終定理を完全に証明し、受賞しました。


★備考

Ernst Eduard Kummer
生没年:1810年1月29日~1893年5月14日
生まれ:ブランデンブルク公国、ゾラウ
父:ゾラウの開業医