2012年1月29日日曜日

ピタゴラス

ピタゴラス(紀元前582年頃~紀元前496年頃)

ピタゴラスはギリシアのエーゲ海東部に浮かぶ島・サモス島に生まれました。
彼は数に特に興味を示し、「万物は数である」という考えの下、数についての研究に打ち込みました。
また音楽についても多大なる貢献をし、弦楽器が美しい協和音を奏でる時は2つの弦の長さは簡単な整数の比で表される、ということを発見したのもピタゴラスです。


■数の研究

彼は二十年ほど色々な地を訪れ、世界で知られている数学的知識を身につけたといわれています。その後は学問所を作るために故郷のサモス島に帰還したのですが、ピタゴラスがサモスの地を離れている間に、島は僭主ポリュクラテスに支配されてしまっていました。

ピタゴラスはポリュクラテスの家臣になるように誘われましたが、彼はこれを断り、島のはずれの洞窟に移り住みました。自由を奪われると考えたのです。そこでピタゴラスは研究の邪魔をされないようにと、しばらくの間隠れ家の洞窟で暮らしました。
この後はイタリア南部のクロトンという地に移り住みますが、そこでミロンという有力者の支援を得て、「ピタゴラス教団」という学問所を設立することになります。


■ピタゴラス学派

ピタゴラス教団は600名もの弟子がいたとされています。
教団は平等主義で相応の頭脳を持ち合わせている者ならば入門を許され、女性の弟子もいました。しかし平等であると同時に秘密主義でもあり、弟子達は数学上の発見を外部に漏らすことは決して許されなかったといわれます。この掟を破った者は命を絶たれたことすらあったのです。
更には教団が数学的成果を外部に分け与えなかったために周囲からの疑念や嫉妬を招き、それが後の悲劇に繋がったとの見方もあります。


■ピタゴラスの定理(三平方の定理)

「直角三角形の斜辺の二乗は、他の二辺の二乗の和に等しい」

この定理が述べている事象は、ピタゴラス以前にもバビロニア等で利用されていました。しかしこの定理が全ての直角三角形で成り立つことは知られておらず、これをピタゴラスが証明したためにピタゴラスの名がつけられました。ピタゴラスは、タレスから始まった演繹的手法を用いてこの定理を証明したのです。ピタゴラスがどのように証明したのかは分かっていないのですが、ピタゴラスの定理の証明法は現在では200以上あると言われています。
このように論理的な証明手法を用いて、ピタゴラス教団では数学的真理を探究していくことになります。


■無理数の存在は認めなかった

直角を挟む2辺の長さが1である直角二等辺三角形があるとします。この斜辺の長さはピタゴラスの定理により、√2であることが分かります。この√2や√3等は無理数と呼ばれています。
上記のように無理数の存在はピタゴラスの定理が示しているにもかかわらず、ピタゴラスは「全ての数は2つの整数の比で表される」という考えを持っていたために、無理数の存在は認めませんでした。


■ピタゴラス教団の終焉

紀元前510年頃、クロトンに近いシュバリスという町で反乱が起こりました。クロトンも侵攻を受けましたが、ミロンが優れた統率力を発揮し、勝利を収めます。
こうして戦いは終わりましたが、戦利品や奪った土地がピタゴラス教団を含む選ばれた人々だけに与えられてしまうのではないかという危惧が、町の人々の間に生まれはじめました。ピタゴラス教団の徹底した秘密主義が、人々の不信を招いたのです。

ここでキュロンという、以前ピタゴラス教団への入門を断られた人物が人々の前に現れます。このキュロンが民衆の声を代弁して、人々を扇動しました。ついには学問所に火が放たれ、この時にピタゴラスは多くの弟子たちと共に命を落としたといわれています。

ピタゴラスは悲劇的な最後を迎えましたが、数学的証明という概念は受け継がれ、世界に広がっていくことになります。


★ピタゴラスに関する雑学

・ピュタゴリアン

菜食主義の食生活をする人のことを「ベジタリアン」といいますが、以前はピタゴラスにちなんで「ピュタゴリアン」と呼んでいました。ピタゴラスは菜食主義だったために彼にちなんでこのように呼ばれていたのですが、1847年9月30日に英国ベジタリアン協会が設立された際に「ベジタリアン」という言葉が作られました。
これはラテン語の「Vegetus(活気のある、生命力にあふれた)」という言葉が語源なのですが、野菜の「ベジタブル」も連想される分かりやすい言葉だったために、以降は「ベジタリアン」の呼称の方が主流となりました。

・ピタゴリオン

ピタゴラスはエーゲ海東南部にあるサモス島に生まれましたが、彼にちなんで1955年に町名がピタゴリオンと名づけられました。
サモス島のピタゴリオンとヘラ神殿は、1992年に世界遺産に登録され、文化遺産となっています。

・「アテナイの学童」

ルネサンス期にイタリアの画家ラファエロ・サンティが描いた有名な絵画に、「アテナイの学堂」というものがあります。この絵は1509年と1510年の間に描かれたもので、有名な古代ギリシアの哲学者たちが描かれています。
この絵の左下に開いた書物に目を通している人物がおり、それがピタゴラスであるとされています。