2012年4月29日日曜日

ピエール・ド・フェルマー

ピエール・ド・フェルマー(1607年頃~1665年)

ピエール・ド・フェルマーはフランスの数学者です。
裁判に関わる仕事をしており数学は余暇に学んだものですが、数論に偉大な貢献をなしました。


■解析幾何学

フェルマーはデカルトとは独立に、解析幾何学を発明しました。デカルトは平面上の解析幾何学にとどまりましたが、フェルマーは3次元空間についても考えたといわれています。
またフェルマーは、ニュートンやライプニッツに先がけて、微積分の計算法についても述べました。


■整数論、ディオファントス「算術」への書き込み

古代ギリシャの数学者・ディオファントスは「算術」という本を著しましたが、16世紀にフランスのフランスの言語学者・古典学者であるクロード=ガスパール・バシェ・ド・メジリアクという人物が、このディオファントスの「算術」をラテン語に翻訳して出版しました。
「算術」の翻訳本を入手したフェルマーは、この本から多くの数学的知識、特に整数の性質について学んでいきます。

この「算術」には100以上の問題が記されていましたが、その余白にフェルマーは自身の考えを多く記しました。フェルマーの書き込みは48ヶ所あり、後にフェルマーの長男であるクレマン・サミュエル・フェルマーがこの書き込みを合わせて「P・ド・フェルマーによる所見を含むディオファントスの算術」として出版しました。


■フェルマーの最終定理

「フェルマーの最終定理」として知られるものは、「算術」の問題8の横の余白に書き込まれたフェルマーのメモから生まれました。その余白には以下のように記されています。

「ある3乗数を2つの3乗数の和で表すこと、あるいはある4乗数を2つの4乗数の和で表すこと、および一般に、2乗よりも大きい冪の数を同じ冪の2つの数の和で表すことは不可能である。
私はこの命題の真に驚くべき証明をもっているが、余白が狭すぎるのでここに記すことはできない」

フェルマーの48の書き込みのうち、「フェルマーの最終定理」以外の47の命題は、後の数学者達により真偽の証明がなされました。「フェルマーの最終定理」だけは300年以上も真偽の証明が成功せず、この問題の解決は数学者達の長年の課題でした。この「フェルマーの最終定理」は、1995年にアンドリュー・ワイルズが証明することになります。



★ピエール・ド・フェルマーに関する備考

Pierre de Fermat
生没年:1607年頃~1665年1月12日
生まれ:南フランス、ボーモン・ド・ロマーニュ
父:エドゥアール
母:マリー
息子:クレマン・サミュエル・フェルマー

2012年4月26日木曜日

ジョン・ペル

ジョン・ペル(1611年~1685年)

ジョン・ペルは、イングランドの数学者です。


■ペル方程式

平方数ではない自然数nに対して

x^2 - ny^2 = 1

を、ペル方程式(Pell's Equation)と呼びます。

方程式において整数解や有理数解について考えるものを「ディオファントス方程式」と呼びますが、ペルはディオファントス方程式を好んで研究しました。ペル方程式の解法についてはウィリアム・ブランカーの功績なのですが、レオンハルト・オイラーはこの方程式を研究したのはペルであると誤解し「ペル方程式」と命名しました。以後、その呼び名が定着することとなりました。


■除算記号

除算記号を考案したことで知られるヨハン・ハインリッヒ・ラーンは、ペルの弟子でした。
この除算記号については、ペルを発明者とする説もあります。ラーンは1659年に『Teutsche Algebra』を出版しますが、この時ペルは編集者として関わっており、この本において除算記号が使われていました。


★ジョン・ペルに関する備考

John Pell
生没年:1611年3月1日~1685年12月12日
生まれ:イングランド南東部のサセックス、サウスウィック
父:不明
母:不明
兄弟:トーマス・ペル(医師)

2012年4月23日月曜日

吉田光由

吉田光由(1598年~1673年)

吉田光由は日本・江戸時代の和算家です。『塵劫記』という数学書を著したことで知られています。『塵劫記』は和算の数学書で、1627年に出版されました。全4巻からなるこの書は身近で実用的な計算を多く解説しており、挿絵入りだったこともあり広く流布しました。


■『塵劫記』

光由は和算家である毛利重能から数学を学びました。中国のそろばん書である『算法統宗』を入手した光由はその本に書かれていることを重能に教えてもらおうとしましたが、重能はその本を完全には読むことはできませんでした。そこで光由は一族の漢学者・角倉素庵に教えてもらい、この本を参考に『塵劫記を記しました。なおこの『塵劫記』では、円周率を3.16としています。

『塵劫記』は好評を得たため、光由は何度も版を重ね、その度に色々な工夫をしました。
寛永18年には解答を付けずに12の問題を載せ、その問題を解いた読者が解答と新たな問題を自分の本に載せて出版する等、日本の数学の発展に多大な貢献を果たしました。


■数の単位

『塵劫記』では「一、十、百、千、万」等の数の単位の呼び名(命数法)についても書かれています。
これは『算法統宗』を参考に考えられたものですが、『塵劫記』は何度も改訂されており、版によって命名が異なっています。


★吉田光由に関する備考

生没年:1598年~1673年1月8日
生まれ:不明
父:不明(京都嵯峨野角倉一族)
母:不明
主な著書:『塵劫記』

2012年4月20日金曜日

ルネ・デカルト

ルネ・デカルト(1596年~1650年)

ルネ・デカルトはフランスの哲学者・数学者です。自己の存在を証明する「我思う、ゆえに我あり」(コギト・エルゴ・スム)という言葉で有名です。
ラ・フレーシュの町の学院では、マラン・メルセンヌがデカルトの同室でした。メルセンヌとは人生を通しての友人となります。


■デカルト座標系

平面上の点の位置を2つの実数を用いて表すという方法は、デカルトが考案しました。これはデカルトの著書「方法序説」の中で初めて用いられたものです。この座標を「デカルト座標」、デカルト座標を用いた平面を「デカルト平面」と呼びます。このデカルト座標とデカルト平面は、解析学の発展に繋がっていきます。


■文字の使用

フランソワ・ヴィエトは定数を表すのに子音、未知数を表すのに母音を用いましたが、デカルトは定数を表すのにa、b、c等のアルファベットの最初の方の文字、未知数を表すのにx、y、z等の最後の方の文字を用いました。


■虚数「imaginary number」

負の数の平方根である虚数は1572年にラファエル・ボンベリによって定義されましたが、当時は虚数は数学者達の間では重要視されていませんでした。
デカルトも虚数に対しては否定的で、著書の中で「想像上の数」と名づけ、英語の「imaginary number」の語源となりました。


★ルネ・デカルトに関する備考

René Descartes
生没年:1596年3月31日~1650年2月11日
生まれ:フランス・アンドル=エ=ロワール(旧トゥレーヌ州)・ラエの町
父:ブルターニュの高等法院評定官
母:不明
主な著書:『方法序説』


2012年4月17日火曜日

マラン・メルセンヌ

マラン・メルセンヌ(1588年~1648年)

マラン・メルセンヌはフランスの神学者です。

修道院で数学を学び、自らも数学を教えるようになったメルセンヌは、パリの修道院に移り多くの数学者達と交流を持つようになります。
当時の数学者達は自分の研究を他の数学者に漏らすことはせず、秘密主義的な風潮が主流となっていました。しかしメルセンヌは知識は共有するべきであるとの考えから、積極的に学問について論じ合う姿勢をとりました。メルセンヌの活動は後にパリ科学アカデミーの創立に繋がる等、ヨーロッパにおける学者達の交流に大いに貢献しました。
メルセンヌが交流した人物はジラール・デザルグ、ピエール・ド・フェルマー、ルネ・デカルト、ガリレオ・ガリレイの他、多数に渡ります。


■メルセンヌ数

2の冪よりも 1 だけ小さい自然数、つまり「2n - 1」の形をした自然数のことを、メルセンヌ数と呼びます。また、素数であるメルセンヌ数をメルセンヌ素数と呼びます。


■12平均律

1オクターブ等の音程を均等な周波数比で分割した音律を「平均律」と呼びます。平均律についてはメルセンヌ以前から知られていましたが、メルセンヌは1636年の著書「普遍的和声法」において、平均律の数学的基礎を確立しました。
十二平均律は、1オクターブを12等分した音律となります。


★マラン・メルセンヌに関する備考

Marin Mersenne
生没年:1588年9月8日~1648年9月1日
生まれ:フランス、メイン、ワーズ
父:不明
母:不明
主な著書:1636年『Harmonie universelle』、1644年『Cogitata Physico-Mathematica 』

2012年4月14日土曜日

クロード=ガスパール・バシェ・ド・メジリアク

クロード=ガスパール・バシェ・ド・メジリアク(1581年~1638年)

クロード=ガスパール・バシェ・ド・メジリアクは、フランスの言語学者・古典学者です。ディオファントスの『算術』をラテン語に翻訳して出版したことで知られています。


■パズル集

バシェが初めて著した本は、『楽しくて面白い数の問題』というパズル集でした。
このパズル集には数当て問題等の数学的な問題が多く含まれていました。


■ディオファントスの『算術』の翻訳

バシェはディオファントスの『算術』をラテン語に翻訳して出版しました。
当時のヨーロッパでは数学は重要視されていなかったのですが、バシェが『算術』をラテン語で出版したことにより、古代の数学的知識がヨーロッパで再認識されることに繋がりました。
「フェルマーの最終定理」で知られるピエール・ド・フェルマーも、このバシェが翻訳した『算術』で数学を学び、余白に自らの考えを書き込んだことが知られています。バシェが翻訳した『算術』には余白が多くあったため、フェルマーは内容についての自分の所見を書き込むことができました。
「フェルマーの最終定理」について、「私は真に驚くべき証明を見つけたが、この余白はそれを書くには狭すぎる」というフェルマーの有名な書き込みは、バシェの『算術』の第2巻第8問「平方数を2つの平方数の和に表せ」の欄外の余白に書き込まれたものです。この他、フェルマーの注釈は全部で48ヶ所にも及んでいます。


★クロード=ガスパール・バシェ・ド・メジリアクに関する備考

Claude-Gaspard Bachet de Méziriac
生没年:1581年~1638年
生まれ:不明
父:不明
母:不明
主な著書:1621年ディオファントス『算術』のラテン語訳

2012年4月11日水曜日

パウル・ギュルダン

パウル・ギュルダン(1577年~1643年)

パウル・ギュルダンはスイスで生まれた数学者です。グラーツ大学、ウィーン大学で数学の教授を務めました。
回転体の体積に関する「パップス=ギュルダンの定理」で知られています。


■パップス・ギュルダンの定理

パップス・ギュルダンの定理は、回転体の体積に関する定理です。この定理はギュルダン以前にアレキサンドリアのパップスによって発見されていたのですが、後にギュルダンも独立して発見したために両者の名前がつけられています。

パップス・ギュルダンの定理は、以下となります。

平面上にある図形 F の面積を S、
F と同じ平面上にあり、 F を通らない軸 l の回りで F を 1 回転させた回転体の体積を V
とします。
回転させる図形 F の重心 G から回転軸 l までの距離を R としたとき、

V = 2 π R S
(回転体の体積 V) =(回転による図形 F の重心の移動距離)×(図形 F の面積 S)

が成り立ちます。

2012年4月8日日曜日

ウィリアム・オートレッド

ウィリアム・オートレッド(1574年~1660年)

ウィリアム・オートレッドは、イギリスの数学者です。「×」の記号の考案で知られています。
三角関数において「sin」、「cos」と表記する方法も、オートレッドの考案であるといわれています。


■「×」の記号の使用

当時は「×」といった記号は使用されておらず、例えば5かける5であれば「5 multiplied by 5」と言葉を用いて記していました。
この掛け算の記述に対して初めて「×」という記号を用いたのがオートレッドです。「×」の記号は、オートレッドの著書「数学の鍵」(1631年)で初めて使われました。彼は教会の十字架からの連想で「×」という記号を思いついたといわれています。


■計算尺

ジョン・ネイピアが対数を発明したことで掛け算を足し算に変換することができるようになりましたが、その対数の仕組みを利用して、1620年にイギリスのガンターが対数尺を発明しました。その後1622年にはオートレッドが計算尺を発明しましたが、これは2つの対数尺を組み合わせることで乗法と除法を計算できるようになるものでした。
このように複数の尺を用いる計算尺は、以後主流となって行きます。

2012年4月5日木曜日

ヘンリー・ブリッグス

ヘンリー・ブリッグス(1561年~1630年)

ヘンリー・ブリッグスはイングランドの数学者で、ジョン・ネイピアの対数を元にして常用対数を考え出したことで知られています。


■常用対数

グレシャム大学で幾何学と天文学の研究をしていたブリッグスは、ジョン・ネイピアが1614年に発表した対数に感心し、スコットランド・エディンバラのネイピアの元を訪れます。
この後二人は協力して対数の研究を進め、ブリッグスの進言により10を底とする対数(常用対数)が生まれました。常用対数はブリッグスの名にちなんで「ブリッグス対数」と呼ばれることもあります。

1617年に1000までの常用対数を計算した結果を出版し、1924年には20,000までの数の14桁の対数と、90,000~100,000までの対数を記した対数表を発表しました。この対数表で抜けていた20,000から90,000の部分は、1628年にオランダのアドリアン・ブラックが完成させています。


★ヘンリー・ブリッグスに関する雑学

月のクレーターには、ブリッグスの名にちなんで名づけられたクレーターがあります。

2012年4月2日月曜日

トマス・ハリオット

トマス・ハリオット(1560年~1621年)

トマス・ハリオットはイギリスの天文学者、占星術師、数学者です。

■不等号「>」と「<」の使用

ハリオットは「>」と「<」という記号を初めて用いました。
当時はオートレッドが用いていた別の記号が主流だったのですが、その記号は互いに混同しやすく、オートレッドの本の中でも両者は混同して使われている場面もありました。一方ハリオットの「>」と「<」は互いに向きが逆なだけで更にはこの記号の左右に置かれた数のどちらが大きいかを明確に表しているため、このハリオットの記号が使われていくことになります。
なお「≦」、「≧」という記号を初めて用いたのは、フランスのピエル・ボーガーとなります。


★トマス・ハリオットに関する雑学

1609年末にガリレオ・ガリレイが望遠鏡を自作し、世界で初めて望遠鏡で月を観測したとされていました。しかし調査によって、1609年7月26日にはハリオットが初めて月の地図を描いていたことが明らかになりました。