2012年1月31日火曜日

ゼノン

ゼノン(前490頃頃~前429年頃)

ゼノンは南イタリアにあるギリシアの小都市・エレアの生まれです。当時の南イタリアでは大きな学派が二つあり、ゼノンはエレア派に属していました。エレア派は紀元前5世紀の初期に、パルメニデスという人物によって開かれた学派です。パルメニデスはギリシアの哲学者ですが、ゼノンは彼の養子となり、彼の元で多くのことを学んだといわれています。

当時のエレアはネアルコスという僭主に支配されていました。ゼノンは仲間と共にネアルコスを打ち倒そうとしましたが、捕らえられてしまいます。同志や計画について尋問されますが、打ち明け話があるふりをしてネアルコスに近づき耳に噛みついて、命を絶たれるまで離さなかったという逸話が残っています。


■帰謬法

「Aが真である」ということを示すために、一旦「Aは真ではない」と仮定しておいて、その過程に基づいて論理的に議論を展開していくと矛盾が生じることを示す、という方法があります。「Aは真ではない」と仮定して矛盾が起こるということは、「Aは真ではない」と仮定したことが間違っていた、つまり「Aは真である」ということになるのです。
これは帰謬法(背理法)といって現在の証明問題でも大いに使われている方法ですが、この帰謬法を初めて用いたのがゼノンです。アリストテレスはゼノンのことを「弁証法の祖」と呼びました。


■ゼノンのパラドックス

「一見正しそうに見える論証から受け入れがたい結論が導かれる」ものを「パラドックス」といいます。ゼノンはこのパラドックスの例をいくつか挙げたことでも有名です。「ゼノンのパラドックス」と呼ばれているものの一つに、「アキレスと亀」があります。

アキレス(アキレウス)というのはギリシャ神話に登場する俊足の英雄です。このアキレスと亀が競争し、ハンデをつけてアキレスのスタート地点は亀のスタート地点(地点A)よりも少し後ろにするとします。
両者のスタート後、アキレスが地点Aに着いた時には亀はいくらか先に進んでいて、その場所を地点Bとします。この後アキレスが地点Bに着いた時には亀は更に少し先の地点Cに着いていて、……というように同じことの繰り返しになり、この理屈でアキレスは永遠に亀を追い越せない、ということになります。

現実には亀を追い越せないというようなことは起こりえませんが、ゼノンはこのような運動に関するパラドックスをいくつか考え出しました。これらは後年にアリストテレスが「自然学」の中で紹介したことで、世に知られています。
「運動のパラドックス」には、上記の「アキレスと亀」の他に「二分法」、「飛んでいる矢は止まっている」、「競技場」と合わせて全部で4つがあります。


★ゼノンに関する雑学

・「アキレスと亀のパラドックス」に対する、無限等比級数を用いた解釈

「アキレスと亀のパラドックス」については、無限等比級数を用いると次のようにして「アキレスは亀に追いつける」とできます。

まずアキレスの速度を v とし、亀の速度はアキレスの速度のk倍、つまり kv とします。kについては亀はアキレスよりも遅いので 0<k<1 となります。また亀はアキレスよりも、はじめに距離Lだけ前にいるとします。

アキレスと亀が同時にスタートし、アキレスが亀のスタート地点まで到達する時間は L/v だけかかりますが、その時亀はアキレスよりも kv×L/v = kL だけ前方に進んでいます。
アキレスがその亀の位置まで到達する時間は L/v×k 後となり、その時亀は更に k^2×L だけ前方に進みます。これを無限に繰り返していくと、アキレスが亀の位置まで到達する時間の合計は

L/v + L/v×k + L/v×k^2 + L/v×k^3 +……

つまり

[{1-k^(n+1)}×(L/v)]/(1-k) となります。

ここで 0<k<1 より k^(n+1)の部分は0となり、上記の和は (L/v)/(1-k) という定数となります。


・量子ゼノン効果

量子物理学において、「粒子等の状態を頻繁に観測すればするほど、それが初期の状態から別の状態に移る確率が減少していく」という予測があります。これはゼノンの「飛んでいる矢も止まっている」というパラドックスにちなんで、「量子ゼノン効果」と呼ばれています。

2012年1月29日日曜日

ピタゴラス

ピタゴラス(紀元前582年頃~紀元前496年頃)

ピタゴラスはギリシアのエーゲ海東部に浮かぶ島・サモス島に生まれました。
彼は数に特に興味を示し、「万物は数である」という考えの下、数についての研究に打ち込みました。
また音楽についても多大なる貢献をし、弦楽器が美しい協和音を奏でる時は2つの弦の長さは簡単な整数の比で表される、ということを発見したのもピタゴラスです。


■数の研究

彼は二十年ほど色々な地を訪れ、世界で知られている数学的知識を身につけたといわれています。その後は学問所を作るために故郷のサモス島に帰還したのですが、ピタゴラスがサモスの地を離れている間に、島は僭主ポリュクラテスに支配されてしまっていました。

ピタゴラスはポリュクラテスの家臣になるように誘われましたが、彼はこれを断り、島のはずれの洞窟に移り住みました。自由を奪われると考えたのです。そこでピタゴラスは研究の邪魔をされないようにと、しばらくの間隠れ家の洞窟で暮らしました。
この後はイタリア南部のクロトンという地に移り住みますが、そこでミロンという有力者の支援を得て、「ピタゴラス教団」という学問所を設立することになります。


■ピタゴラス学派

ピタゴラス教団は600名もの弟子がいたとされています。
教団は平等主義で相応の頭脳を持ち合わせている者ならば入門を許され、女性の弟子もいました。しかし平等であると同時に秘密主義でもあり、弟子達は数学上の発見を外部に漏らすことは決して許されなかったといわれます。この掟を破った者は命を絶たれたことすらあったのです。
更には教団が数学的成果を外部に分け与えなかったために周囲からの疑念や嫉妬を招き、それが後の悲劇に繋がったとの見方もあります。


■ピタゴラスの定理(三平方の定理)

「直角三角形の斜辺の二乗は、他の二辺の二乗の和に等しい」

この定理が述べている事象は、ピタゴラス以前にもバビロニア等で利用されていました。しかしこの定理が全ての直角三角形で成り立つことは知られておらず、これをピタゴラスが証明したためにピタゴラスの名がつけられました。ピタゴラスは、タレスから始まった演繹的手法を用いてこの定理を証明したのです。ピタゴラスがどのように証明したのかは分かっていないのですが、ピタゴラスの定理の証明法は現在では200以上あると言われています。
このように論理的な証明手法を用いて、ピタゴラス教団では数学的真理を探究していくことになります。


■無理数の存在は認めなかった

直角を挟む2辺の長さが1である直角二等辺三角形があるとします。この斜辺の長さはピタゴラスの定理により、√2であることが分かります。この√2や√3等は無理数と呼ばれています。
上記のように無理数の存在はピタゴラスの定理が示しているにもかかわらず、ピタゴラスは「全ての数は2つの整数の比で表される」という考えを持っていたために、無理数の存在は認めませんでした。


■ピタゴラス教団の終焉

紀元前510年頃、クロトンに近いシュバリスという町で反乱が起こりました。クロトンも侵攻を受けましたが、ミロンが優れた統率力を発揮し、勝利を収めます。
こうして戦いは終わりましたが、戦利品や奪った土地がピタゴラス教団を含む選ばれた人々だけに与えられてしまうのではないかという危惧が、町の人々の間に生まれはじめました。ピタゴラス教団の徹底した秘密主義が、人々の不信を招いたのです。

ここでキュロンという、以前ピタゴラス教団への入門を断られた人物が人々の前に現れます。このキュロンが民衆の声を代弁して、人々を扇動しました。ついには学問所に火が放たれ、この時にピタゴラスは多くの弟子たちと共に命を落としたといわれています。

ピタゴラスは悲劇的な最後を迎えましたが、数学的証明という概念は受け継がれ、世界に広がっていくことになります。


★ピタゴラスに関する雑学

・ピュタゴリアン

菜食主義の食生活をする人のことを「ベジタリアン」といいますが、以前はピタゴラスにちなんで「ピュタゴリアン」と呼んでいました。ピタゴラスは菜食主義だったために彼にちなんでこのように呼ばれていたのですが、1847年9月30日に英国ベジタリアン協会が設立された際に「ベジタリアン」という言葉が作られました。
これはラテン語の「Vegetus(活気のある、生命力にあふれた)」という言葉が語源なのですが、野菜の「ベジタブル」も連想される分かりやすい言葉だったために、以降は「ベジタリアン」の呼称の方が主流となりました。

・ピタゴリオン

ピタゴラスはエーゲ海東南部にあるサモス島に生まれましたが、彼にちなんで1955年に町名がピタゴリオンと名づけられました。
サモス島のピタゴリオンとヘラ神殿は、1992年に世界遺産に登録され、文化遺産となっています。

・「アテナイの学童」

ルネサンス期にイタリアの画家ラファエロ・サンティが描いた有名な絵画に、「アテナイの学堂」というものがあります。この絵は1509年と1510年の間に描かれたもので、有名な古代ギリシアの哲学者たちが描かれています。
この絵の左下に開いた書物に目を通している人物がおり、それがピタゴラスであるとされています。

2012年1月27日金曜日

アナクシメネス

アナクシメネス(紀元前585年頃~紀元前525年頃)

アナクシメネスはアナクシマンドロスの弟子であり、タレスやアナクシマンドロスに続いて、「アルケー(万物の根源)とは何か」について考えた人物です。アナクシメネスはタレス、アナクシマンドロスよりも後の時代の人物なのですが、その生涯についての資料は3人の中で一番少ないとされ、謎に包まれています。


■アルケーは空気である

アルケーについては、タレスは「水」、アナクシマンドロスは「無限なもの」としましたが、アナクシメネスは「アルケーは空気である」としました。アナクシマンドロスはアルケーを限りがないものとして考えましたが、アナクシメネスは逆に限りのあるものだと考えたのです。

彼は「全てのものは空気から生じ、空気へと還っていく」と考え、更には「空気の濃さによって、形を変えていく」と考えました。
空気が薄くなると「火」を生じ、逆に空気が濃くなるとその程度によって「風」→「雲」→「霧」→「水」と姿を変え、更には「土」→「石」といった固形物にもなるとしたのです。アナクシメネスはこのように、「空気」という一つのものが変化することにより、様々なものが生み出されるという独自の考えを示しました。


■「万物は数である」―ピタゴラスへ―

タレス、アナクシマンドロス、アナクシメネスを代表とするミレトス学派の哲学者たちにより、「万物の根源とは何か」について考える流れが生まれました。そしてこの後には「万物は数である」という思想を柱とするピタゴラス学派が登場し、数学の飛躍的な発展に繋がっていきます。


★アナクシメネスに関する雑学

月の表側にあるクレーターには、アナクシメネスにちなんで名前がつけられたものもあります。
このクレーターは月の北部にあり、地球から見た時の位置は北北西の縁の付近になります。

2012年1月25日水曜日

アナクシマンドロス

アナクシマンドロス(紀元前610年頃~紀元前546年)

アナクシマンドロスについては資料がほとんどありません。天体の運動や気象等の自然現象についての本を記したとされていますが、これらも現在には残されていないのです。
アナクシマンドロスはミレトスに住んでいたようで、タレス、アナクシメネスと共に「ミレトス学派」に分類されています。タレスとともに「最初の哲学者」とされることもが多いようです。初めて天球儀を作った人物としても有名です。


■「万物の根源(アルケー)」とは何か

アナクシマンドロスもタレス同様に万物の根源は何であるかについて考えましたが、「万物の根源」という概念を「アルケー」という言葉で表したのがアナクシマンドロスであるとされています。一説ではアナクシマンドロスはタレスの弟子であるとされているのですが、確かな資料は残っていません。

タレスはアルケーを水であるとしましたが、アナクシマンドロスは万物の根源は「無限なるもの」であると考えました。その理由は次のようなものが挙げられます。

・水は世界にたくさんあるとはいえ限りのあるもの、水のように有限なものが万物の根源であるとは考えられない

・水がアルケーであるならば、水からその反対の性質を持つ火が生成されるのはおかしい

・万物の根源は、この世界に目に見える形で存在するような特定のものであるはずがない

更には「水と火」のように、有限なものにはそれと相対する関係にあるものが必ず存在すると考えました。そのような相反する両者をアルケーは生み出さなければならず、ならばアルケーは「ものが相反する状態になる以前の状態」、「対称性を超えるもの」でないといけないと考えたのです。この考えが「アルケーは無限なるもの」という結論に繋がりました。


■「無限」という抽象性

タレスがアルケーであるとした「水」は元から自然界に存在し目にも見えるものでしたが、アナクシマンドロスがアルケーであるとした「無限のもの」は、抽象的な概念であるところが画期的でした。
この「抽象的なもの」を考察の対象にするということは、数学においても重要な要素となっていきます。


★経歴

生没年:紀元前610年頃~紀元前546年
生まれ:ミレトス(現在のトルコ西岸)


更新履歴
2020/11/17 経歴追加
2012/01/25 記事投稿

2012年1月24日火曜日

タレス

タレス(紀元前624年頃~前546年頃)

タレスは「最初の哲学者」と呼ばれ、数学者としてよりも哲学者として有名です。タレスの数学的功績としては、エジプトの測地術を幾何学という学問に高め人々に広めたことや、演繹的手法と呼ばれる考え方を取り入れたことが挙げられるでしょう。


■幾何学への貢献

タレスはギリシアにあるミレトスという都市国家に生まれました。ミレトスというのは現在のトルコ西岸、エーゲ海に面した場所にあります。彼は若い頃にバビロニアで天文学を、エジプトで幾何学を学んだといわれています。

エジプトではナイル川が毎年のように氾濫していましたが、氾濫する時期を予測するために天文学が発達していました。また氾濫が収まった後には農地を元通りに分配し直さないといけません。そのために土地の測量技術が発達していましたが、タレスはその測量術を応用して様々な幾何学的手法を発見していきました。
例えば自分の影の長さと身長とを対比させて、ピラミッドの影の長さからピラミッドの高さを求める方法を考えたのもタレスです。このように、タレスはエジプトの測量術を幾何学という普遍的学問としての域にまで高めたとされています。

またミレトスへと帰った後は天文学や幾何学について学んだ知識をミレトスの人達に話して聞かせましたが、学んだことをそのまま伝えるだけではありませんでした。学んだことを自分でも工夫をして発展させ、役に立つ様々な新しい方法を考え出したのです。

タレスが証明した幾何学的な定理としては「直径に対する円周角は直角である」というものがあり、これは「タレスの定理」と呼ばれています。タレス自身が円周上の点と円の中心を結び、2つの二等辺三角形を作ってこの定理を証明したためにタレスの名がつけられたのですが、タレスの定理と呼ばれるものはこの他にも全部で5つあります。


■「万物は水である」―観察による法則の発見―

当時の人達の間では、世界を構成する物は「神」が作ったものだと考えていました。
しかしタレスはエジプトを訪れた時にナイル川が氾濫し、陸地が水におおわれ、水が引いていくとその跡に新しい土が堆積しているのを見て、「陸は水が作ったものだ」と考えるようになったのです。更には海や陸からの水蒸気が空に上り、それが雨となりまた地上に降ってくるということから、「空も水で作られている」、「全宇宙は水から成っている」と考えるようになりました。「万物は水である」というのはタレスの有名な言葉です。
このように「神話的思考」から脱却し、ある事象を観察し自然法則を導くという「自然科学的方法」を初めて体現したのがタレスであると言われています。


■演繹的思考法

数学的な議論をするには、「既に知られ認められている知識から出発して、筋道の通った論理を積み重ね、最後の結論を導く」という演繹的手法を身につけていることが大切になります。このような演繹的手法を考案したのもタレスであると考えられています。
タレスは演繹的思考法を用いて、「二等辺三角形の二つの底角は等しい」といった幾何学の定理をいくつか導いたとされています。
この演繹的思考法はギリシアの数学者ピタゴラスやユークリッドに受け継がれ、数学の発展に大いに貢献していくことになります。


★タレスに関する雑学

・静電気の発見

タレスの生きた古代ギリシャの時代では、人々は琥珀を用いて作ったアクセサリーをお洒落の一つとして身につけていました。しかしこの琥珀はすぐに埃がついてしまい、その埃を落とすために擦ると余計に埃がついてしまいます。これは静電気によるためだったのですが、当時は静電気の性質については知られていませんでした。
ここで不思議に思ったタレスは色々な実験をして、琥珀を擦ると物を引き寄せる力が発生することを突き止めたのです。この静電気の性質が初めて記録されたものが、タレスによるものとなっています。

しかしタレスは琥珀を擦って発生する力は磁力と同じものだと考えており、電気現象と磁気現象が区別されるのは16世紀のジェロラモ・カルダーノを待つこととなります。


★タレスに関する備考

生没年:紀元前624年頃~前546年頃
生まれ:ミレトス(現在のトルコ西岸)
父:エクサミュアス
母:クレオブゥリネ

2012年1月23日月曜日

ミレトス学派の哲学者

■「三人の哲学者」

紀元前6世紀頃のミレトスという都市国家に、タレス、アナクシマンドロス、アナクシメネスという三人の哲学者が現れました。
ミレトスは現在のトルコ西岸、エーゲ海に面した場所にあったイオニア人の都市国家です。当時のミレトスは地理的な関係から、近隣諸国が地中海で交易を行う上での重要な拠点となっていて、交易の際には様々な国の人々がミレトスを訪れ文化交流も盛んに行われました。
このような状況の下で哲学が発展していったのですが、哲学的な問いが数学的な概念の発生につながったことも見逃せません。この頃の時代では、哲学者であると同時に数学者でもあった人物が多いのです。

■「ミレトス学派」

タレス、アナクシマンドロス、アナクシメネスの三人の哲学者は、宇宙を構成する「万物の根源(アルケー)」は何であるかを考えました。

彼らがアルケーについての考えを示すまでは、「世界は神が作ったもの」と考えるのが当たり前でした。しかしタレスたちはこの考え方から脱却し、アルケーについて、タレスは「水」、アナクシマンドロスは「無限のもの」、アナクシメネスは「空気」であると考えたのです。これらは彼らが「自然を観察すること」により導いた結論だったのです。

「神」については、誰もが納得するような合理的な説明をすることはできません。そのような考え方から脱却して、彼らは物質を構成するものについて合理的に説明しようとしたところが画期的でした。このような画期的な観点から、三人は今では「最初の哲学者」と呼ばれ、ミレトス学派に分類されています。そして彼らのように観察主義的な方法をとる姿勢が、以降の数学の発展に大きな影響を与えていくことになります。

次回からはミレトス学派の三人、タレス、アナクシマンドロス、アナクシメネスについて見ていきます。

2012年1月22日日曜日

歴史上の数学者たち

皆さんは歴史上の数学者たちに、どのようなイメージを持っているでしょうか?
数学は「紙と鉛筆さえあれば学ぶことができる」ともよくいわれます。このため「数学を研究する人は、机に向かって一人でひたすら紙の上で難しい計算をしている」といった、いわゆる「数学が得意な人は冷静沈着」、「数学はインドアで孤高な学問」というイメージを持っている方も多いかもしれませんね。

もちろんそういった人物もたくさんいたでしょう。現に歴史に残るような数学的大発見を、十年単位の歳月をかけてほぼ一人でなし得た人物もいます。
しかし現在では数学の研究は非常に細分化されているため、化学や物理等の他の学問と同様、研究者同士で情報を交換し協力しあい、常に最先端の知識を得る努力をしなければいけないといわれています。

今日の世界ではインターネットも発達していて、遠く離れた他国の研究者と交流をたくさん持つこともそれほど難しい話ではありません。昔からの学術的資料もたくさん残っています。しかしインターネットどころか航海技術や出版技術すらも発達していなかった時代には、数学者たちはどのようにして色々な数学的知識を身につけ、高めていったのでしょうか。また誰かが発見した数学的知識は、どのようにして世界に広がっていったのでしょうか。

数学の歴史は紀元前の時代にまでさかのぼります。
公開の場で数学の問題をいくつか互いに出し合い、相手の問題をどれだけ解けるかを競い合うという試合が行われていた時代もありました。重大な理論の完成にあと一歩まで迫りながら、他の研究者に先を越されてしまった人物もたくさんいます。ガロアというフランスの有名な数学者は、革命運動に参加しそれが原因で投獄もされ、更には個人的な事情での決闘が原因で命を落としてしまいました。
「紙と鉛筆だけ」で学ぶことができるといわれた数学でも、なかなかにドラマチックな出来事も数多くあるのです。

このブログでは紀元前の時代から続く数学の流れ等も踏まえながら、歴史上の数学者たちの功績について記していこうと思います。

管理人:mathemathe
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