ジョン・ネイピア(1550年~1617年)
ジョン・ネイピアはスコットランドの数学者、物理学者、天文学者、占星術師です。
対数の発見で知られています。
■対数の発見
16世紀の天文学者達は、星の位置を計測するために何十桁もある数値の計算を行っていました。また当時の船乗り達は星の位置を元に船の現在地や進行方向を計算していたのですが、桁数が非常に多い数値を計算しないといけないため間違いやすく、航海の安全に悪影響をもたらす原因の一つとなっていました。
これらの事情を知ったネイピアは、桁数の多い掛け算を足し算に置き換える方法として対数を考え出したのです。ネイピアは20年という長い歳月をかけて対数の表を作成し、1614年に7桁の数の対数表を発表しました。
しかしネイピアの対数は複雑だったため、当初は理解されませんでした。そこへイングランドの数学者ヘンリー・ブリッグスがネイピアの元を訪れます。二人は対数に関する議論を重ね改良していき、ブリッグスは10を底とすることを提案し、これが常用対数となります。
ブリッグスは常用対数の表を作成することをネイピアと約束し、表を完成させますが、その時にはネイピアは既に亡くなっていました。
この対数の発明により計算が簡易になり精度も高くなったため、大航海時代の長い航海をより安全に行えるようになりました。更に後の時代のフランスの数学者ピエール=シモン・ラプラスからは、「対数は天文学者の寿命を2倍にした」と讃えられました。
★ジョン・ネイピアに関する雑学
対数の概念は、ネイピアよりも前にイタリアの数学者ミハイル・シュティーフェルが著書「完全算術」の中で記述していました。ただしシュティーフェルは対数について研究を進めることはなかったので、対数の発見者はネイピアであるとされるようになりました。
ネイピアはシュティーフェルが考えた対数の概念については知らなかったとされていて、二人は全く独立して対数を発見したといわれています。
2012年3月27日火曜日
シモン・ステヴィン
シモン・ステヴィン(1548年~1620年)
シモン・ステヴィンはヨーロッパの旧フランドル地方、ブルッヘ(ベルギーのブルージュ)で生まれた数学者、物理学者、会計学者です。十進小数の導入で知られています。
■十進小数
小数自体はバビロニア数学の時代から存在していましたが、小数点を表すものがなかったため、前後の文脈から数値を判断しなくてはいけないという不便なものでした。
ステヴィンは1585年に出版した「十進分数論」において小数を発表し、ヨーロッパに小数を導入しました。ただし表記法は現在用いられているものとは異なり、「0.678」は「6①7②8③」と表しています。
後にジョン・ネイピアによって、小数点による表記法が提唱されました。
■力の平行四辺形の法則
平行四辺形を用いて力の合成と分解を最初に考えたのはステヴィンでした。彼は1586年に表した書籍の中で、力の平行四辺形について述べています。
★シモン・ステヴィンに関する雑学
ベルギーのブルージュには「シモン・ステヴィン広場」という場所があり、シモン・ステヴィンの像があります。
★人物・家族・経歴等
Simon Stevin
生没年:1548年~1620年
生地:フランドル(現ベルギー)、ブルッヘ
没地:オランダ、ハーグ
父:アンソニー・ステヴィン
妻:キャサリン・クライ
子:ヘンドリック、 スサンナ、レヴィナ、フレデリック
主な著書:
1585年『十進法』
1586年『吊り合いの原理』、『水の重さの原理』
(2012年3月27日投稿)
(2018年12月5日追記)
シモン・ステヴィンはヨーロッパの旧フランドル地方、ブルッヘ(ベルギーのブルージュ)で生まれた数学者、物理学者、会計学者です。十進小数の導入で知られています。
■十進小数
小数自体はバビロニア数学の時代から存在していましたが、小数点を表すものがなかったため、前後の文脈から数値を判断しなくてはいけないという不便なものでした。
ステヴィンは1585年に出版した「十進分数論」において小数を発表し、ヨーロッパに小数を導入しました。ただし表記法は現在用いられているものとは異なり、「0.678」は「6①7②8③」と表しています。
後にジョン・ネイピアによって、小数点による表記法が提唱されました。
■力の平行四辺形の法則
平行四辺形を用いて力の合成と分解を最初に考えたのはステヴィンでした。彼は1586年に表した書籍の中で、力の平行四辺形について述べています。
★シモン・ステヴィンに関する雑学
ベルギーのブルージュには「シモン・ステヴィン広場」という場所があり、シモン・ステヴィンの像があります。
★人物・家族・経歴等
Simon Stevin
生没年:1548年~1620年
生地:フランドル(現ベルギー)、ブルッヘ
没地:オランダ、ハーグ
父:アンソニー・ステヴィン
妻:キャサリン・クライ
子:ヘンドリック、 スサンナ、レヴィナ、フレデリック
主な著書:
1585年『十進法』
1586年『吊り合いの原理』、『水の重さの原理』
(2012年3月27日投稿)
(2018年12月5日追記)
2012年3月24日土曜日
フランソワ・ヴィエト
フランソワ・ヴィエト(1540年~1603年)
フランソワ・ヴィエトはフランスの数学者です。方程式の記述において「係数」という言葉を初めて使用したことや、解と係数の発見で知られています。
■文字の使用
方程式ax^2+bx+c=0においてa、b、cを「係数」と呼びますが、この言葉を初めて用いたのがヴィエトです。
また著書「解析論入門」において、既知の量は子音b、c、d、未知の量は母音a、e、i、o、u等を用いて表しています。
ディオファントスの「算術」において未知数やそのべき乗は頭文字で表されていましたが、既知の定数までをも一つの文字で表したのはヴィエトが初めてでした。
ただしギリシア時代から1次は線分、2次は面積、3次は体積として互いに異質なものとして考えられ、厳しく区別されていました。そのため同じ次数のものだけが互いに比較されるべきであるという考えがあり、この考え方からはヴィエトも脱却できませんでした。
★フランソワ・ヴィエトに関する雑学
・アドリアーン・ファン・ローメンの挑戦
ベルギーの数学者アドリアーン・ファン・ローメンが「数学の概念」という本を著し、その中に次のような45次の方程式を載せました。
x^45 - 45×^43 + 945×^41 - 12300×^39 + 111150×^37 - 740459×^35 + 3764565×^33 - 14945040×^31 + 469557800×^29 - 117679100×^27 + 236030652×^25 - 378658800×^23 + 483841800×^21 - 488494125×^19 + 384942375×^17 - 232676280×^15 + 105306075×^13 - 34512074×^11 + 7811375×^9 - 1138500×^7 + 95634×^5 - 3795×^3 + 45x = C
ローメンは当時の数学者達に対して「その方程式を解いてみよ」と挑戦し、当時のフランスの王アンリ四世はネーデルランド大使に「この問題を解ける数学者はフランスにはいないだろう」と挑発されます。
そこでアンリ四世はヴィエトに助けを求めるのですが、ヴィエトは数分で正の解を見つけたという逸話があります。ヴィエトはその問題は三角法の利用が有効であると見抜き、更にはその方程式には23個の正の解と22個の負の解があることも示した、といわれています。
フランソワ・ヴィエトはフランスの数学者です。方程式の記述において「係数」という言葉を初めて使用したことや、解と係数の発見で知られています。
■文字の使用
方程式ax^2+bx+c=0においてa、b、cを「係数」と呼びますが、この言葉を初めて用いたのがヴィエトです。
また著書「解析論入門」において、既知の量は子音b、c、d、未知の量は母音a、e、i、o、u等を用いて表しています。
ディオファントスの「算術」において未知数やそのべき乗は頭文字で表されていましたが、既知の定数までをも一つの文字で表したのはヴィエトが初めてでした。
ただしギリシア時代から1次は線分、2次は面積、3次は体積として互いに異質なものとして考えられ、厳しく区別されていました。そのため同じ次数のものだけが互いに比較されるべきであるという考えがあり、この考え方からはヴィエトも脱却できませんでした。
★フランソワ・ヴィエトに関する雑学
・アドリアーン・ファン・ローメンの挑戦
ベルギーの数学者アドリアーン・ファン・ローメンが「数学の概念」という本を著し、その中に次のような45次の方程式を載せました。
x^45 - 45×^43 + 945×^41 - 12300×^39 + 111150×^37 - 740459×^35 + 3764565×^33 - 14945040×^31 + 469557800×^29 - 117679100×^27 + 236030652×^25 - 378658800×^23 + 483841800×^21 - 488494125×^19 + 384942375×^17 - 232676280×^15 + 105306075×^13 - 34512074×^11 + 7811375×^9 - 1138500×^7 + 95634×^5 - 3795×^3 + 45x = C
ローメンは当時の数学者達に対して「その方程式を解いてみよ」と挑戦し、当時のフランスの王アンリ四世はネーデルランド大使に「この問題を解ける数学者はフランスにはいないだろう」と挑発されます。
そこでアンリ四世はヴィエトに助けを求めるのですが、ヴィエトは数分で正の解を見つけたという逸話があります。ヴィエトはその問題は三角法の利用が有効であると見抜き、更にはその方程式には23個の正の解と22個の負の解があることも示した、といわれています。
2012年3月21日水曜日
クリストファー・クラヴィウス
クリストファー・クラヴィウス(1538年~1612年)
クリストファー・クラヴィウスはドイツのバンベルクに生まれた数学者・天文学者です。
グレゴリオ暦作成の中心人物だった他、数学ではユークリッドの「原論」の注解書を著しました。クラヴィウスはローマやポルトガルで学んだ後にローマに戻り、ローマ学院の数学教授となりました。天文学では天動説を支持していましたが、天動説がもつ矛盾点も認識していました。
■グレゴリオ暦
16世紀の後半まではユリウス暦という暦が使われていました。これは紀元前45年にユリウス・カエサルによって制定されたもので、1年を原則365日とし、4年ごとの閏年の2月末に1日を加えて366日とするものでした。このユリウス暦は16世紀には実際の季節と暦のずれが大きくなっており、これに代わるより精密なものとして制定されたのがグレゴリオ暦です。グレゴリオ暦では、400年間に97回の閏年を置くこととしています。クラヴィウスはこのグレゴリオ暦の作成に関わった人物の中の一人です。
クリストファー・クラヴィウスはドイツのバンベルクに生まれた数学者・天文学者です。
グレゴリオ暦作成の中心人物だった他、数学ではユークリッドの「原論」の注解書を著しました。クラヴィウスはローマやポルトガルで学んだ後にローマに戻り、ローマ学院の数学教授となりました。天文学では天動説を支持していましたが、天動説がもつ矛盾点も認識していました。
■グレゴリオ暦
16世紀の後半まではユリウス暦という暦が使われていました。これは紀元前45年にユリウス・カエサルによって制定されたもので、1年を原則365日とし、4年ごとの閏年の2月末に1日を加えて366日とするものでした。このユリウス暦は16世紀には実際の季節と暦のずれが大きくなっており、これに代わるより精密なものとして制定されたのがグレゴリオ暦です。グレゴリオ暦では、400年間に97回の閏年を置くこととしています。クラヴィウスはこのグレゴリオ暦の作成に関わった人物の中の一人です。
2012年3月18日日曜日
ラファエル・ボンベリ
ラファエル・ボンベリ(1526年~1572年)
ラファエル・ボンベリは、イタリアのボローニャ生まれの数学者です。虚数の研究で知られ、「代数学」という数学書を著しました。
■虚数の研究
3次方程式を解く過程で、解が実数の場合でも途中の段階で負の数の平方根が出てくる場合があります。これは後に「虚数」と呼ばれることになる概念なのですが、カルダーノは著書「アルス・マグナ」で3次方程式の解法を示す際に、この虚数については明確な説明をできないままで終わっていました。当時は0や負の数でさえまだ認められておらず、「負の数の平方根」である虚数は「役に立たないもの」としか認識されていなかったのです。
ボンベリはこの「負の数の平方根」という概念を重要なものであると認識し定義を与え、「虚数」というものの研究が進んでいくきっかけを作ることとなりました。
1637年にはルネ・デカルトが初めて「虚数(imaginary number)」という言葉を用い、1777年にはレオンハルト・オイラーが虚数をiと表しました。
★ラファエル・ボンベリに関する雑学
月のクレーターには、ボンベリにちなんで名づけられたものがあります。
ラファエル・ボンベリは、イタリアのボローニャ生まれの数学者です。虚数の研究で知られ、「代数学」という数学書を著しました。
■虚数の研究
3次方程式を解く過程で、解が実数の場合でも途中の段階で負の数の平方根が出てくる場合があります。これは後に「虚数」と呼ばれることになる概念なのですが、カルダーノは著書「アルス・マグナ」で3次方程式の解法を示す際に、この虚数については明確な説明をできないままで終わっていました。当時は0や負の数でさえまだ認められておらず、「負の数の平方根」である虚数は「役に立たないもの」としか認識されていなかったのです。
ボンベリはこの「負の数の平方根」という概念を重要なものであると認識し定義を与え、「虚数」というものの研究が進んでいくきっかけを作ることとなりました。
1637年にはルネ・デカルトが初めて「虚数(imaginary number)」という言葉を用い、1777年にはレオンハルト・オイラーが虚数をiと表しました。
★ラファエル・ボンベリに関する雑学
月のクレーターには、ボンベリにちなんで名づけられたものがあります。
2012年3月16日金曜日
ルドヴィコ・フェラーリ
ルドヴィコ・フェラーリ(1522年~1565年)
ルドヴィコ・フェラーリはイタリアの数学者で、4次方程式の解法の発見で知られています。
彼は14歳の時に数学者ジェローラモ・カルダーノの家に召使として働き始めましたが、その才能を認められカルダーノから数学の教えを受け、研究の手伝いをするようになりました。
■4次方程式の解法
カルダーノは同じイタリアの数学者ニコロ・タルターリアから、ある特定の形をした3次方程式の解法を教わりました。この解法はまだ世間一般には公表されておらず、カルダーノは「解法を公表しない」との誓いの元でタルターリアから教わったものです。
解法を得たカルダーノは弟子のフェラーリと共に一般的な3次方程式の解法等の研究に取り組みます。
この研究の過程で、フェラーリは4次方程式の解法を発見しました。
これは4次方程式を3次方程式に帰着させるという手法だったのですが、この手法は一般的な4次方程式にも使える方法だったのです。
後にカルダーノは「アルス・マグナ」という数学書を出版しますが、この本の中でフェラーリの4次方程式の解法についても記しています。
■タルターリアとの論争
「解法を公表しない」との誓いを破られたタルターリアは激怒し、カルダーノのことを非難するようになります。
ここでカルダーノの弟子であるフェラーリは「自分もその場にいたがそのような誓いは立てていない」と主張しているのですが、真相は定かではありません。タルターリアはカルダーノとの論争を望んでいたのですがカルダーノはタルターリアの誘いには乗らず、以降タルターリアとフェラーリの論争が続いていくことになります。
最後はタルターリアとフェラーリが公開討論を行うことになり互いに31問ずつの問題を出し合うことになったのですが、この討論試合の詳細は明らかになっていません。フェラーリの勝利に終わったという説が有力です。
この討論試合の後フェラーリの名声は高まり、各方面から仕事の依頼が来るようになります。
皇帝の息子の家庭教師の依頼もあったのですが、フェラーリは割りのいい税務査定官の仕事に就きました。
ルドヴィコ・フェラーリはイタリアの数学者で、4次方程式の解法の発見で知られています。
彼は14歳の時に数学者ジェローラモ・カルダーノの家に召使として働き始めましたが、その才能を認められカルダーノから数学の教えを受け、研究の手伝いをするようになりました。
■4次方程式の解法
カルダーノは同じイタリアの数学者ニコロ・タルターリアから、ある特定の形をした3次方程式の解法を教わりました。この解法はまだ世間一般には公表されておらず、カルダーノは「解法を公表しない」との誓いの元でタルターリアから教わったものです。
解法を得たカルダーノは弟子のフェラーリと共に一般的な3次方程式の解法等の研究に取り組みます。
この研究の過程で、フェラーリは4次方程式の解法を発見しました。
これは4次方程式を3次方程式に帰着させるという手法だったのですが、この手法は一般的な4次方程式にも使える方法だったのです。
後にカルダーノは「アルス・マグナ」という数学書を出版しますが、この本の中でフェラーリの4次方程式の解法についても記しています。
■タルターリアとの論争
「解法を公表しない」との誓いを破られたタルターリアは激怒し、カルダーノのことを非難するようになります。
ここでカルダーノの弟子であるフェラーリは「自分もその場にいたがそのような誓いは立てていない」と主張しているのですが、真相は定かではありません。タルターリアはカルダーノとの論争を望んでいたのですがカルダーノはタルターリアの誘いには乗らず、以降タルターリアとフェラーリの論争が続いていくことになります。
最後はタルターリアとフェラーリが公開討論を行うことになり互いに31問ずつの問題を出し合うことになったのですが、この討論試合の詳細は明らかになっていません。フェラーリの勝利に終わったという説が有力です。
この討論試合の後フェラーリの名声は高まり、各方面から仕事の依頼が来るようになります。
皇帝の息子の家庭教師の依頼もあったのですが、フェラーリは割りのいい税務査定官の仕事に就きました。
2012年3月14日水曜日
ロバート・レコード
ロバート・レコード(1510年頃~1558年)
ロバート・レコードは、イギリス・ウェールズの医者、数学者です。彼は「=」の記号を初めて使用した人物として知られています。レコードは医師業の傍ら数学の講義を行い、算術書「技術の基礎」やイギリス初の代数書「知恵の砥石」等を英語で出版していました。
国王エドワード6世の侍医でもありました。
■「=」の記号
レコードは1557年に「知恵の砥石」という代数学の書物の中で、「=」という記号を用いました。
ただしレコードが最初使ったのは「=」ではなく「Z」のような形の記号で、後に現在のような「=」の記号になりました。
「=」を用いた理由としては、「2本の平行線ほど、等しいものは世の中にはない」としています。ただし当初はあまり普及せず、等しいものを表す記号としては「∥」、「ae」、「oe」が使用されていました。
「=」については後にイギリスのトマス・ハリオットが再び使用し、ルネ・デカルトが独自の記号を考案しました。最初は「=」の2本の線はとても長かったのですが、徐々に短くなっていったようです。
ロバート・レコードは、イギリス・ウェールズの医者、数学者です。彼は「=」の記号を初めて使用した人物として知られています。レコードは医師業の傍ら数学の講義を行い、算術書「技術の基礎」やイギリス初の代数書「知恵の砥石」等を英語で出版していました。
国王エドワード6世の侍医でもありました。
■「=」の記号
レコードは1557年に「知恵の砥石」という代数学の書物の中で、「=」という記号を用いました。
ただしレコードが最初使ったのは「=」ではなく「Z」のような形の記号で、後に現在のような「=」の記号になりました。
「=」を用いた理由としては、「2本の平行線ほど、等しいものは世の中にはない」としています。ただし当初はあまり普及せず、等しいものを表す記号としては「∥」、「ae」、「oe」が使用されていました。
「=」については後にイギリスのトマス・ハリオットが再び使用し、ルネ・デカルトが独自の記号を考案しました。最初は「=」の2本の線はとても長かったのですが、徐々に短くなっていったようです。
2012年3月11日日曜日
ジェローラモ・カルダーノ
ジェローラモ・カルダーノ(1501年~1578年)
ジェローラモ・カルダーノは、イタリアの医者・数学者です。
3次方程式の解法や、虚数の概念を導入したことで知られています。
■3次方程式の解法
当時のイタリアでは公開の場での数学試合が盛んに行われており、数学者達の間ではこの試合に勝つことが地位や名声を得る手段の一つとなっていました。
この試合でタルターリアが3次方程式の解法を知っているということが話題になり、数学書を執筆していたカルダーノは、タルターリアに解法を伝授してくれるように頼み込みます。
タルターリアは何度頼まれてもカルダーノの頼みを聞き入れなかったのですが、ミラノの有力者へ紹介するというカルダーノの誘いに乗り、ミラノで様々なもてなしを受けます。
その後しばらくしてカルダーノはついに解法をタルターリアから聞き出すことに成功するのですが、その際には「解法を公表しない」という誓いを立てさせられたといわれています。ただしカルダーノの弟子のルドヴィコ・フェラーリによるとそのような誓いは立てていないことになっており、真相は定かではありません。
タルターリアが得ていた解法はある特殊な形をした3次方程式のものだけだったのですが、タルターリアから解法を教ったカルダーノは、カルダーノは弟子のフェラーリと共に一般的な3次方程式の解法の研究に取り組みます。
この研究生活の中で、イタリア・ボローニャのシピオーネ・ダル・フェロという数学者が3次方程式の解法を発見しており、その解法が義理の息子アンニバーレ・デラ・ナーヴェに渡っているという噂がカルダーノの元に届きます。
ボローニャのナーヴェを訪ねたカルダーノはダル・フェロがタルターリアよりも早くに3次方程式の解法を得ていたことを知ります。
この後カルダーノは「アルス・マグナ(大いなる技法もしくは代数学の規則)」という数学書を出版しますが、その本に3次方程式の解法を載せていました。
このことを知ったタルターリアは激怒し公然とカルダーノを非難するようになります。
カルダーノは「アルス・マグナ」の中でタルターリアへの謝辞も述べているのですが、それでもタルターリアの怒りはおさまりませんでした。
タルターリアはカルダーノを討論試合の場に出させようとしたのですがカルダーノはこれを受けず、代わりに弟子のフェラーリと試合を行うことになります。
結果はフェラーリの勝利に終わります。
3次方程式の解法は「カルダーノの公式」として、後世に伝わっていくことになります。
■4次方程式の解法、虚数の概念の導入。
カルダーノの「アルス・マグナ」では、3次方程式の解を示す際にカルダーノが世界で初めて虚数の概念を導入しました。
またフェラーリが発見した4次方程式の解法についても記されており、この本はヨーロッパの数学界に大きな影響を与えました。
ジェローラモ・カルダーノは、イタリアの医者・数学者です。
3次方程式の解法や、虚数の概念を導入したことで知られています。
■3次方程式の解法
当時のイタリアでは公開の場での数学試合が盛んに行われており、数学者達の間ではこの試合に勝つことが地位や名声を得る手段の一つとなっていました。
この試合でタルターリアが3次方程式の解法を知っているということが話題になり、数学書を執筆していたカルダーノは、タルターリアに解法を伝授してくれるように頼み込みます。
タルターリアは何度頼まれてもカルダーノの頼みを聞き入れなかったのですが、ミラノの有力者へ紹介するというカルダーノの誘いに乗り、ミラノで様々なもてなしを受けます。
その後しばらくしてカルダーノはついに解法をタルターリアから聞き出すことに成功するのですが、その際には「解法を公表しない」という誓いを立てさせられたといわれています。ただしカルダーノの弟子のルドヴィコ・フェラーリによるとそのような誓いは立てていないことになっており、真相は定かではありません。
タルターリアが得ていた解法はある特殊な形をした3次方程式のものだけだったのですが、タルターリアから解法を教ったカルダーノは、カルダーノは弟子のフェラーリと共に一般的な3次方程式の解法の研究に取り組みます。
この研究生活の中で、イタリア・ボローニャのシピオーネ・ダル・フェロという数学者が3次方程式の解法を発見しており、その解法が義理の息子アンニバーレ・デラ・ナーヴェに渡っているという噂がカルダーノの元に届きます。
ボローニャのナーヴェを訪ねたカルダーノはダル・フェロがタルターリアよりも早くに3次方程式の解法を得ていたことを知ります。
この後カルダーノは「アルス・マグナ(大いなる技法もしくは代数学の規則)」という数学書を出版しますが、その本に3次方程式の解法を載せていました。
このことを知ったタルターリアは激怒し公然とカルダーノを非難するようになります。
カルダーノは「アルス・マグナ」の中でタルターリアへの謝辞も述べているのですが、それでもタルターリアの怒りはおさまりませんでした。
タルターリアはカルダーノを討論試合の場に出させようとしたのですがカルダーノはこれを受けず、代わりに弟子のフェラーリと試合を行うことになります。
結果はフェラーリの勝利に終わります。
3次方程式の解法は「カルダーノの公式」として、後世に伝わっていくことになります。
■4次方程式の解法、虚数の概念の導入。
カルダーノの「アルス・マグナ」では、3次方程式の解を示す際にカルダーノが世界で初めて虚数の概念を導入しました。
またフェラーリが発見した4次方程式の解法についても記されており、この本はヨーロッパの数学界に大きな影響を与えました。
2012年3月9日金曜日
ニコロ・タルターリア
ニコロ・タルターリア(1499年~1557年)
ニコロ・タルターリアは、ブレシア生まれのイタリアの数学者です。「タルターリア」とは通称で、本名は「フォンタナ」といいます。彼は独学で数学を学び、後に数学教師となりました。
アルターリアは数学を用いて初めて大砲の弾道の計算を行ったことで有名です。タルターリアの研究は、後にガリレオ・ガリレイが実験により検証しています。
■三次方程式の解法
タルターリアは、ブレシアのツアンネ・デ・トニーニ・ダ・コイからの挑戦で、3次方程式x^3+3x^2=5を解くことに成功しました。
彼が3次方程式を解いたという噂は、ダル・フェロの弟子アントニオ・マリア・フィオルの元にまで届きます。フィオルはダル・フェロよりax^3+bx = cという形の3次方程式の解法を受け継いでいたのですが、タルターリアが3次方程式を解いたという話は信用しませんでした。
そこでフィオルは公開の場での数学試合においてタルターリアに勝つことができれば自分の名声も上がると踏んで、タルターリアに挑戦状を出しました。
試合では互いに30問を出題しあったのですが、フィオルのものは全てがax^3+bx = cの形に基づくもので、タルターリアの出題は様々なタイプのものがあったため、試合はタルターリアの圧勝で終わります。
■カルダーノとの騒動
フィオルとの数学試合の結果は、イタリア中で話題になりました。タルターリアの名声は一気に高まったのですが、この解法をすぐに発表するべきだとのダ・コイの助言をタルターリアはこれを断ります。彼はこの解法を題材にした本を書くつもりだと説明したそうです。
タルターリアの噂は医者であり数学者でもあるジェローラも・カルダーノの元へも届きます。
カルダーノは数学書を執筆しており、3次方程式の解法にも興味を持っていました。
そこでカルダーノは再三にわたりタルターリアに3次方程式の解法について教えを請うのですが、タルターリアはこれを断り続けます。
しかしある時ミラノの有力者への紹介されたことをきっかけにして、ついにカルダーノに解法を明かすことになります。
この際「解法は誰にも公表しない」という誓いをカルダーノに立てさせたといわれていますが、カルダーノの弟子ルドヴィコ・フェラーリの言によると、そのような誓いは立てていないといわれています。
この後カルダーノは、弟子のルドヴィコ・フェラーリと共にタルターリアの解法やその他の一般的な3次方程式、更には4次方程式の解法についての研究を始めます。
その中でダル・フェロという人物がタルターリアよりも前に同じ解法を導いていたことを知ります。ここまでの研究を元にカルダーノは「アルス・マグナ」という就学書を出版するのですが、この書に三次方程式の解法を載せてしまいます。
これを知ったタルターリアは激怒し、以後長年に渡り公の場でカルダーノを侮辱することになります。
タルターリアはカルダーノに公開討論を申し込みますがカルダーノに受け入れられず、弟子のフェラーリと討論試合をすることになるのですが、結局タルターリアは負けてしまいます。
この後3次方程式の解法は、「カルダーノ公式」として世に残っていくことになります。
ニコロ・タルターリアは、ブレシア生まれのイタリアの数学者です。「タルターリア」とは通称で、本名は「フォンタナ」といいます。彼は独学で数学を学び、後に数学教師となりました。
アルターリアは数学を用いて初めて大砲の弾道の計算を行ったことで有名です。タルターリアの研究は、後にガリレオ・ガリレイが実験により検証しています。
■三次方程式の解法
タルターリアは、ブレシアのツアンネ・デ・トニーニ・ダ・コイからの挑戦で、3次方程式x^3+3x^2=5を解くことに成功しました。
彼が3次方程式を解いたという噂は、ダル・フェロの弟子アントニオ・マリア・フィオルの元にまで届きます。フィオルはダル・フェロよりax^3+bx = cという形の3次方程式の解法を受け継いでいたのですが、タルターリアが3次方程式を解いたという話は信用しませんでした。
そこでフィオルは公開の場での数学試合においてタルターリアに勝つことができれば自分の名声も上がると踏んで、タルターリアに挑戦状を出しました。
試合では互いに30問を出題しあったのですが、フィオルのものは全てがax^3+bx = cの形に基づくもので、タルターリアの出題は様々なタイプのものがあったため、試合はタルターリアの圧勝で終わります。
■カルダーノとの騒動
フィオルとの数学試合の結果は、イタリア中で話題になりました。タルターリアの名声は一気に高まったのですが、この解法をすぐに発表するべきだとのダ・コイの助言をタルターリアはこれを断ります。彼はこの解法を題材にした本を書くつもりだと説明したそうです。
タルターリアの噂は医者であり数学者でもあるジェローラも・カルダーノの元へも届きます。
カルダーノは数学書を執筆しており、3次方程式の解法にも興味を持っていました。
そこでカルダーノは再三にわたりタルターリアに3次方程式の解法について教えを請うのですが、タルターリアはこれを断り続けます。
しかしある時ミラノの有力者への紹介されたことをきっかけにして、ついにカルダーノに解法を明かすことになります。
この際「解法は誰にも公表しない」という誓いをカルダーノに立てさせたといわれていますが、カルダーノの弟子ルドヴィコ・フェラーリの言によると、そのような誓いは立てていないといわれています。
この後カルダーノは、弟子のルドヴィコ・フェラーリと共にタルターリアの解法やその他の一般的な3次方程式、更には4次方程式の解法についての研究を始めます。
その中でダル・フェロという人物がタルターリアよりも前に同じ解法を導いていたことを知ります。ここまでの研究を元にカルダーノは「アルス・マグナ」という就学書を出版するのですが、この書に三次方程式の解法を載せてしまいます。
これを知ったタルターリアは激怒し、以後長年に渡り公の場でカルダーノを侮辱することになります。
タルターリアはカルダーノに公開討論を申し込みますがカルダーノに受け入れられず、弟子のフェラーリと討論試合をすることになるのですが、結局タルターリアは負けてしまいます。
この後3次方程式の解法は、「カルダーノ公式」として世に残っていくことになります。
2012年3月7日水曜日
ヨハネス・ウィッドマン
ヨハネス・ウィッドマン
ヨハネス・ウィッドマンは、数学において「+」、「-」記号を初めて使用した人物として知られています。
「+」という記号については、14世紀頃にラテン語の「および」を意味する「et」を速く書いているうちにこれが崩れ、「+」になったといわれています。「-」は「m」という文字が段々と省略されてできたものだとされています。
また当時の船乗り達は、水樽の重さの過不足を表すために「+」と「-」を目印として用いていました。水樽を管理する際に、使用した分を樽に「-」の線で記し、水が加えられた時には「-」の上から縦線を入れて「+」としていたのです。
この「+」、「-」の記号を数学的な記号として初めて用いたのが、ドイツのヨハネス・ウィッドマンです。彼は1489年に発表した「商業用算術書」という書物の中で、「+」、「-」を過不足を表す記号として使いました。ただしこの本の中では「プラス」という言葉は使われておらず、「-とは不足、+とは多すぎることである」と説明しています。ウィッドマンは加法や減法の記号としてではなく、正負を表す記号として考えていたようです。
ちなみに「plus(プラス)は「より多い」、「minus(マイナス)」は「より少ない」をラテン語で意味します。
ウィッドマンは記号「+」を「mer」、「-」を「minus」と呼びました。
加減の計算記号として+、-を用いたのは、1514年、オランダのファンデル・フッケとされています。
またイギリスのロバート・レコードは1557年に「The Whetstone of Witte」を表し、プラス記号とマイナス記号をイギリスへ持ち込みました。
ヨハネス・ウィッドマンは、数学において「+」、「-」記号を初めて使用した人物として知られています。
「+」という記号については、14世紀頃にラテン語の「および」を意味する「et」を速く書いているうちにこれが崩れ、「+」になったといわれています。「-」は「m」という文字が段々と省略されてできたものだとされています。
また当時の船乗り達は、水樽の重さの過不足を表すために「+」と「-」を目印として用いていました。水樽を管理する際に、使用した分を樽に「-」の線で記し、水が加えられた時には「-」の上から縦線を入れて「+」としていたのです。
この「+」、「-」の記号を数学的な記号として初めて用いたのが、ドイツのヨハネス・ウィッドマンです。彼は1489年に発表した「商業用算術書」という書物の中で、「+」、「-」を過不足を表す記号として使いました。ただしこの本の中では「プラス」という言葉は使われておらず、「-とは不足、+とは多すぎることである」と説明しています。ウィッドマンは加法や減法の記号としてではなく、正負を表す記号として考えていたようです。
ちなみに「plus(プラス)は「より多い」、「minus(マイナス)」は「より少ない」をラテン語で意味します。
ウィッドマンは記号「+」を「mer」、「-」を「minus」と呼びました。
加減の計算記号として+、-を用いたのは、1514年、オランダのファンデル・フッケとされています。
またイギリスのロバート・レコードは1557年に「The Whetstone of Witte」を表し、プラス記号とマイナス記号をイギリスへ持ち込みました。
2012年3月6日火曜日
アントニオ・マリア・フィオル
アントニオ・マリア・フィオル(1536年頃)
アントニオ・マリア・フィオル(ラテン名フロリドス)は功績のある数学者ではないのですが、16世紀のイタリアでの3次方程式の解法を巡る騒動の中で、重要な役割を果たしています。
16世紀のイタリアでは3次方程式の解法を発見することが、数学者達の課題であり夢でした。このイタリア・ボローニャにおいてフィオルの数学の師であるシピオーネ・ダル・フェロは、ax^3+bx = c という特殊な形の3次方程式の解を導くことに成功します。しかしダル・フェロはこの解法を世間に公表することはせず、義理の息子のアンニバーレ・デラ・ナーヴェと、弟子のアントニオ・マリア・フィオルにのみ解法を明かしました。
当時は公開の場で互いに数学の問題をいくつか出し合い、どちらが多く解けるかを競う「数学試合」がさかんに行われており、フィオルもこの数学試合に参加していました。
ある時イタリアの数学者ニコロ・タルターリアが3次方程式の解法を発見したという噂が、フィオルの元にまで届きます。しかいフィオルはこの話を信用しませんでした。そこで彼はタルターリアに数学試合を申し込、これに勝つことで自分の地位を高めようと考え、タルターリアに挑戦を申し込みます。タルターリアはこの挑戦を受け、互いに30の問題を出し合うことになりました。
フィオルはダル・フェロが残した特殊な形(ax^3+bx = c)の3次方程式の解法しか知らず、フィオルが出した30題は全てこの形のものでした。一方のタルターリアはダル・フェロのもの以外にもx^3+ax^2=bやax+b=x^3という形の3次方程式の解き方も知っており、彼が出した30題は様々な種類のものがありました。このためタルターリアは2時間ほどでフィオルの問題を解くことができたのですが、フィオルは相手の問題を1問も解けずに負けてしまったのです。
このタルターリアとフィオルの数学試合の話はイタリア中で話題になり、3次方程式の解法を巡る新たな進展へと繋がっていきます。
アントニオ・マリア・フィオル(ラテン名フロリドス)は功績のある数学者ではないのですが、16世紀のイタリアでの3次方程式の解法を巡る騒動の中で、重要な役割を果たしています。
16世紀のイタリアでは3次方程式の解法を発見することが、数学者達の課題であり夢でした。このイタリア・ボローニャにおいてフィオルの数学の師であるシピオーネ・ダル・フェロは、ax^3+bx = c という特殊な形の3次方程式の解を導くことに成功します。しかしダル・フェロはこの解法を世間に公表することはせず、義理の息子のアンニバーレ・デラ・ナーヴェと、弟子のアントニオ・マリア・フィオルにのみ解法を明かしました。
当時は公開の場で互いに数学の問題をいくつか出し合い、どちらが多く解けるかを競う「数学試合」がさかんに行われており、フィオルもこの数学試合に参加していました。
ある時イタリアの数学者ニコロ・タルターリアが3次方程式の解法を発見したという噂が、フィオルの元にまで届きます。しかいフィオルはこの話を信用しませんでした。そこで彼はタルターリアに数学試合を申し込、これに勝つことで自分の地位を高めようと考え、タルターリアに挑戦を申し込みます。タルターリアはこの挑戦を受け、互いに30の問題を出し合うことになりました。
フィオルはダル・フェロが残した特殊な形(ax^3+bx = c)の3次方程式の解法しか知らず、フィオルが出した30題は全てこの形のものでした。一方のタルターリアはダル・フェロのもの以外にもx^3+ax^2=bやax+b=x^3という形の3次方程式の解き方も知っており、彼が出した30題は様々な種類のものがありました。このためタルターリアは2時間ほどでフィオルの問題を解くことができたのですが、フィオルは相手の問題を1問も解けずに負けてしまったのです。
このタルターリアとフィオルの数学試合の話はイタリア中で話題になり、3次方程式の解法を巡る新たな進展へと繋がっていきます。
2012年3月5日月曜日
シピオーネ・ダル・フェロ
シピオーネ・ダル・フェロ(1465年~1526年)
シピオーネ・ダル・フェロはイタリア・ボローニャ生まれの数学者です。ダル・フェロはボローニャ大学の数学科長の一人となり、同大学で教鞭をとりました。
特殊な形をした3次方程式の解法の発見者として知られています。
■三次方程式の解についての研究
当時の数学者達の間では3次方程式の解法の発見が大きな課題でしたが、ダル・フェロは ax^3+bx = c という形の3次方程式の解を導きました。
これは一般的な形の3次方程式(ax^3+bx^2+cx+d = 0)の解法ではありませんでしたが、一般の三次方程式はこの形に変形できます。したがって、三次方程式の解法を発見したのはダル・フェロであるといってもよいでしょう。
ダル・フェロはこの解法を世間に公表せず弟子にのみ明かしましたが、この解法は後の発見へと繋がっていくことになります。
★シピオーネ・ダル・フェロに関する雑学
・数学試合
特殊な形の3次方程式の解法を得たにもかかわらず、ダル・フェロはこれを公表しませんでした。
当時のボローニャでは公開の場での討論や論争が頻繁に行われており、数学についても「互いにいくつかの問題を出し合って、どちらが多く解けるかを競う」という試合」が行われていました。このような試合に勝つことは、学者や知識人が富や名声を得る手段となっていたのです。
試合に勝つには自分の手の内は明かさない方が有利になるため、ダル・フェロに限らず当時の数学者達の間では自分が発見した知識を公表しないのは、特に珍しいことではありませんでした。
ダル・フェロが3次方程式の解法を公表することはなかったのですが、義理の息子のアンニバーレ・デラ・ナーヴェと、弟子のアントニオ・マリア・フィオル(ラテン名フロリドス)には解法を明かしています。またダル・フェロは解法を詳しく書き記し、その手記は彼の死後、義理の息子の手に渡りました。
ダル・フェロから3次方程式の解法を伝えられたフィオルは、数学者ニコロ・タルターリアとの数学試合に臨みますが、タルターリアはax^3+bx^2=cという形の3次方程式の解法も得ていたため、試合には負けてしまいました。
・ダル・フェロのアパート
ダル・フェロが暮らしたボローニャのアパートの壁には、ダル・フェロの生家であることが刻まれたプレートが壁に飾られているそうです。
シピオーネ・ダル・フェロはイタリア・ボローニャ生まれの数学者です。ダル・フェロはボローニャ大学の数学科長の一人となり、同大学で教鞭をとりました。
特殊な形をした3次方程式の解法の発見者として知られています。
■三次方程式の解についての研究
当時の数学者達の間では3次方程式の解法の発見が大きな課題でしたが、ダル・フェロは ax^3+bx = c という形の3次方程式の解を導きました。
これは一般的な形の3次方程式(ax^3+bx^2+cx+d = 0)の解法ではありませんでしたが、一般の三次方程式はこの形に変形できます。したがって、三次方程式の解法を発見したのはダル・フェロであるといってもよいでしょう。
ダル・フェロはこの解法を世間に公表せず弟子にのみ明かしましたが、この解法は後の発見へと繋がっていくことになります。
★シピオーネ・ダル・フェロに関する雑学
・数学試合
特殊な形の3次方程式の解法を得たにもかかわらず、ダル・フェロはこれを公表しませんでした。
当時のボローニャでは公開の場での討論や論争が頻繁に行われており、数学についても「互いにいくつかの問題を出し合って、どちらが多く解けるかを競う」という試合」が行われていました。このような試合に勝つことは、学者や知識人が富や名声を得る手段となっていたのです。
試合に勝つには自分の手の内は明かさない方が有利になるため、ダル・フェロに限らず当時の数学者達の間では自分が発見した知識を公表しないのは、特に珍しいことではありませんでした。
ダル・フェロが3次方程式の解法を公表することはなかったのですが、義理の息子のアンニバーレ・デラ・ナーヴェと、弟子のアントニオ・マリア・フィオル(ラテン名フロリドス)には解法を明かしています。またダル・フェロは解法を詳しく書き記し、その手記は彼の死後、義理の息子の手に渡りました。
ダル・フェロから3次方程式の解法を伝えられたフィオルは、数学者ニコロ・タルターリアとの数学試合に臨みますが、タルターリアはax^3+bx^2=cという形の3次方程式の解法も得ていたため、試合には負けてしまいました。
・ダル・フェロのアパート
ダル・フェロが暮らしたボローニャのアパートの壁には、ダル・フェロの生家であることが刻まれたプレートが壁に飾られているそうです。
2012年3月4日日曜日
ルカ・パチョーリ
ルカ・パチョーリ(1445年~1517年)
ルカ・パチョーリはイタリアの数学者で、イタリア中部トスカーナ州の町、ボルゴ・サンセポルクロに生まれました。彼は同郷の画家ピエロ・デラ・フランチェスカに才能を認められ指導や援助を受け、数学的才能を伸ばしていくことができました。
自著の中でルネッサンス当時のヴェネツィア商人が使用していた複式簿記を初めて学術的に説明したため、「近代会計学の父」と呼ばれています。また修道僧でもありました。
師であるピエロ・デラ・フランチェスカから数学を教わり、更には有力者への紹介等の助力も得られ学問に打ち込む環境が整えられたこともあり、才能を伸ばしていきます。
■ピエロ・デラ・フランチェスカからの支援
パチョーリは同郷の画家ピエロ・デッラ・フランチェスカの元で数学を学びます。ピエロに数学の才能を認められたパチョーリは、数学を研究する上での様々な支援をピエロから受けることになります。
まずは地元領主ウルビーノ公フェデリコ・ダ・モンテフェルトロへ紹介されたことにより、公の館に付属していた図書館の利用を認められ、書物から多くの知識を得る機会が与えられました。
■数学書「スムマ」
1494年に、パチョーリは「スムマ(算術・幾何学・比例と比例関係大全)」という数学書を著しました。この書の中で彼は「3次と4次の方程式については、まだ一般的な解法が作られていない」と述べています。特殊な形をした3次や4次の方程式の解法は既に知られていましたが、一般的な形の3次・4次方程式の解法は発見されておらず、当時の数学者達の頭を悩ませていたのです。
この「スムマ」はイタリア語で書かれていたためにラテン語に通じていない多くの一般庶民も読むことができ、当時の人々に大きな数学的影響を与えました。
★ルカ・パチョーリに関する雑学
・インキュナブラ
活版印刷技術の発明は1440年代とされており、1500年までの活版印刷術の幼年期に印刷された本のことを「インキュナブラ(揺籃期本)」と呼びます。
パチョーリの「スムマ」は、このインキュナブラの一つに数えられています。
ルカ・パチョーリはイタリアの数学者で、イタリア中部トスカーナ州の町、ボルゴ・サンセポルクロに生まれました。彼は同郷の画家ピエロ・デラ・フランチェスカに才能を認められ指導や援助を受け、数学的才能を伸ばしていくことができました。
自著の中でルネッサンス当時のヴェネツィア商人が使用していた複式簿記を初めて学術的に説明したため、「近代会計学の父」と呼ばれています。また修道僧でもありました。
師であるピエロ・デラ・フランチェスカから数学を教わり、更には有力者への紹介等の助力も得られ学問に打ち込む環境が整えられたこともあり、才能を伸ばしていきます。
■ピエロ・デラ・フランチェスカからの支援
パチョーリは同郷の画家ピエロ・デッラ・フランチェスカの元で数学を学びます。ピエロに数学の才能を認められたパチョーリは、数学を研究する上での様々な支援をピエロから受けることになります。
まずは地元領主ウルビーノ公フェデリコ・ダ・モンテフェルトロへ紹介されたことにより、公の館に付属していた図書館の利用を認められ、書物から多くの知識を得る機会が与えられました。
■数学書「スムマ」
1494年に、パチョーリは「スムマ(算術・幾何学・比例と比例関係大全)」という数学書を著しました。この書の中で彼は「3次と4次の方程式については、まだ一般的な解法が作られていない」と述べています。特殊な形をした3次や4次の方程式の解法は既に知られていましたが、一般的な形の3次・4次方程式の解法は発見されておらず、当時の数学者達の頭を悩ませていたのです。
この「スムマ」はイタリア語で書かれていたためにラテン語に通じていない多くの一般庶民も読むことができ、当時の人々に大きな数学的影響を与えました。
★ルカ・パチョーリに関する雑学
・インキュナブラ
活版印刷技術の発明は1440年代とされており、1500年までの活版印刷術の幼年期に印刷された本のことを「インキュナブラ(揺籃期本)」と呼びます。
パチョーリの「スムマ」は、このインキュナブラの一つに数えられています。
2012年3月3日土曜日
ピエロ・デラ・フランチェスカ
ピエロ・デラ・フランチェスカ(1412年~1492年)
ピエロ・デラ・フランチェスカはイタリアルネサンス期の画家で、イタリア中部トスカーナ州の町、ボルゴ・サンセポルクロに生まれました。数学や幾何学を研究した最初の画家の一人で、その作品にも数学研究の影響が見られます。1500年代の画家ヴァザーリはピエロについて「生涯を通じて数学と縁を切ることはなかった」と評した、といわれています。
ピエロは主に幾何学について研究し、「算術論」、「遠近法論」、「五つの正多面体論」の3冊の著作を残しました。
■幾何学の絵画への応用
ピエロは今では最も偉大なルネッサンスの画家の1人とされていますが、評価されたのは20世紀に入ってからだといわれています。彼の描いた絵画には幾何学的な知識に基づいて画面構成されたものが多く、特に緻密な遠近法が評価されています。
★ピエロ・デラ・フランチェスカに関する雑学
・ルカ・パチョーリの師
ピエロはルカ・パチョーリに数学を教え、その才を認めて様々な助力をしました。地元領主であったウルビーノ公フェデリコ・ダ・モンテフェルトロへパチョーリを紹介し、館付属の図書館の利用をパチョーリが利用できるになりました。
パチョーリは後に数学書「スムマ」を著し、その中で複式簿記を初めて学術的に説明し、「近代会計学の父」とよばれるようになります。
ピエロ・デラ・フランチェスカはイタリアルネサンス期の画家で、イタリア中部トスカーナ州の町、ボルゴ・サンセポルクロに生まれました。数学や幾何学を研究した最初の画家の一人で、その作品にも数学研究の影響が見られます。1500年代の画家ヴァザーリはピエロについて「生涯を通じて数学と縁を切ることはなかった」と評した、といわれています。
ピエロは主に幾何学について研究し、「算術論」、「遠近法論」、「五つの正多面体論」の3冊の著作を残しました。
■幾何学の絵画への応用
ピエロは今では最も偉大なルネッサンスの画家の1人とされていますが、評価されたのは20世紀に入ってからだといわれています。彼の描いた絵画には幾何学的な知識に基づいて画面構成されたものが多く、特に緻密な遠近法が評価されています。
★ピエロ・デラ・フランチェスカに関する雑学
・ルカ・パチョーリの師
ピエロはルカ・パチョーリに数学を教え、その才を認めて様々な助力をしました。地元領主であったウルビーノ公フェデリコ・ダ・モンテフェルトロへパチョーリを紹介し、館付属の図書館の利用をパチョーリが利用できるになりました。
パチョーリは後に数学書「スムマ」を著し、その中で複式簿記を初めて学術的に説明し、「近代会計学の父」とよばれるようになります。
2012年3月2日金曜日
レオナルド・フィボナッチ
レオナルド・フィボナッチ(1179年頃~1250年頃)
フィボナッチはイタリアのピサの数学者です。正確には「レオナルド・フィリオ・ボナッチ」といいますが、これがなまって「フィボナッチ」と呼ばれるようになったとされています。
彼は少年時代に父親について現在のアルジェリアに渡り、そこでアラビア数字を学びました。当時の神聖ローマ皇帝・フリードリヒ2世は科学と数学を重んじていて、フィボナッチは宮殿に呼ばれ皇帝にも謁見しました。後にはピサ共和国から表彰もされました。
■アラビア数字
ローマ数字では「I, II, III, X, XV」のように文字を並べて記すため大きな数を扱うのには不便でした。対してアラビア数字はローマ数字に比べてとても分かりやすく、効率的で便利だったのです。そこでフィボナッチはアラビア数字を「算術の書」という書物にまとめ、母国に紹介しました。アラビア数字では0から9までの数字と位取り記数法が使われていますが、計算に使うにはとても便利だったために、ヨーロッパで広く受け入れられることになりました。
■フィボナッチ数列
「算術の書」の中には、親ウサギ・子ウサギの問題が紹介されています。
「1つのつがいのウサギは、産まれて2か月後から毎月1つがいずつのウサギを産む。どのウサギも死なないとした場合、1年の間に何つがいのウサギが産まれるか?」
1,1,2,3,5,8,13,21,34,55・・・
この数列は「隣り合う2つの数を加えると、次の数に等しくなる」という規則を持っています。
この数列はウサギの問題だけでなく、木の枝の分かれ方や花の花弁の数等、自然界にも当てはまる例が多く見られることが分かっています。この数列はインドの数学者たちの間では既に知られていましたが、ヨーロッパに紹介されたのは「算術の書」が初めてだったので、「フィボナッチ数列」と呼ばれるようになりました。
★レオナルド・フィボナッチに関する雑学
・黄金比
フィボナッチ数列の2つの連続する項の比は、次第に約1:1.618または約0.618:1に近づいていきます。この比は黄金比と呼ばれていて、人間が最も美しいと感じる比率といわれています。黄金比は以下のように様々なものに使われています。
ハガキの縦横比
ピラミッド
パリの凱旋門
パルテノン神殿
ミロのビーナスの体型
ちなみに法隆寺の五重塔や慈照寺の銀閣は1:√2の比になる構造を持っていて、これは「白銀比」と呼ばれています。この比は日本では古くから美しい比として知られていて、「大和比」とも呼ばれています。
フィボナッチはイタリアのピサの数学者です。正確には「レオナルド・フィリオ・ボナッチ」といいますが、これがなまって「フィボナッチ」と呼ばれるようになったとされています。
彼は少年時代に父親について現在のアルジェリアに渡り、そこでアラビア数字を学びました。当時の神聖ローマ皇帝・フリードリヒ2世は科学と数学を重んじていて、フィボナッチは宮殿に呼ばれ皇帝にも謁見しました。後にはピサ共和国から表彰もされました。
■アラビア数字
ローマ数字では「I, II, III, X, XV」のように文字を並べて記すため大きな数を扱うのには不便でした。対してアラビア数字はローマ数字に比べてとても分かりやすく、効率的で便利だったのです。そこでフィボナッチはアラビア数字を「算術の書」という書物にまとめ、母国に紹介しました。アラビア数字では0から9までの数字と位取り記数法が使われていますが、計算に使うにはとても便利だったために、ヨーロッパで広く受け入れられることになりました。
■フィボナッチ数列
「算術の書」の中には、親ウサギ・子ウサギの問題が紹介されています。
「1つのつがいのウサギは、産まれて2か月後から毎月1つがいずつのウサギを産む。どのウサギも死なないとした場合、1年の間に何つがいのウサギが産まれるか?」
1,1,2,3,5,8,13,21,34,55・・・
この数列は「隣り合う2つの数を加えると、次の数に等しくなる」という規則を持っています。
この数列はウサギの問題だけでなく、木の枝の分かれ方や花の花弁の数等、自然界にも当てはまる例が多く見られることが分かっています。この数列はインドの数学者たちの間では既に知られていましたが、ヨーロッパに紹介されたのは「算術の書」が初めてだったので、「フィボナッチ数列」と呼ばれるようになりました。
★レオナルド・フィボナッチに関する雑学
・黄金比
フィボナッチ数列の2つの連続する項の比は、次第に約1:1.618または約0.618:1に近づいていきます。この比は黄金比と呼ばれていて、人間が最も美しいと感じる比率といわれています。黄金比は以下のように様々なものに使われています。
ハガキの縦横比
ピラミッド
パリの凱旋門
パルテノン神殿
ミロのビーナスの体型
ちなみに法隆寺の五重塔や慈照寺の銀閣は1:√2の比になる構造を持っていて、これは「白銀比」と呼ばれています。この比は日本では古くから美しい比として知られていて、「大和比」とも呼ばれています。
2012年3月1日木曜日
バースカラ2世
バースカラ2世(1114年~1185年)
バースカラ2世はインドの数学者、天文学者です。
■著書「Lilavati(リラーバティ)」
バースカラ2世は「Lilavati」という算術の本を著しましたが、これは彼の娘Lilavatiのために書かれたものだという説があります。
バースカラ2世が娘の結婚について占ってみたところ、「ある特定の時刻に結婚しないと結婚後まもなく夫と死に別れる」という結果が出ました。バースカラ2 世は娘のためにその時刻を正しく計ろうと、底に小さな穴が開いた杯を水の上に沈め、予言された時刻になると杯が沈むようにしておきました。しかし娘の Lilavatiがうっかり杯を覗き込んでしまいます。その時に娘が身につけていた真珠が杯に落ち、水が正しく流れ込まなくなってしまいました。
このためLilavatiは幸せな結婚ができなくなってしまったのです。
バースカラ2世は娘を慰めるために、娘の名前で本を著すことにしました。娘の名前を後世にまで残すことで、娘の気分を和らげようとしたのです。
★バースカラ2世に関する雑学
インド宇宙研究機関が作成した人工衛星にはバースカラ1世とバースカラ2世にちなんで命名された2つの衛星があり、1号機と2号機が存在します。
バースカラ2世はインドの数学者、天文学者です。
■著書「Lilavati(リラーバティ)」
バースカラ2世は「Lilavati」という算術の本を著しましたが、これは彼の娘Lilavatiのために書かれたものだという説があります。
バースカラ2世が娘の結婚について占ってみたところ、「ある特定の時刻に結婚しないと結婚後まもなく夫と死に別れる」という結果が出ました。バースカラ2 世は娘のためにその時刻を正しく計ろうと、底に小さな穴が開いた杯を水の上に沈め、予言された時刻になると杯が沈むようにしておきました。しかし娘の Lilavatiがうっかり杯を覗き込んでしまいます。その時に娘が身につけていた真珠が杯に落ち、水が正しく流れ込まなくなってしまいました。
このためLilavatiは幸せな結婚ができなくなってしまったのです。
バースカラ2世は娘を慰めるために、娘の名前で本を著すことにしました。娘の名前を後世にまで残すことで、娘の気分を和らげようとしたのです。
★バースカラ2世に関する雑学
インド宇宙研究機関が作成した人工衛星にはバースカラ1世とバースカラ2世にちなんで命名された2つの衛星があり、1号機と2号機が存在します。