サミュエル・ロイド(1841年~1911年)
サミュエル・ロイドはアメリカのパズル作家です。
■15パズル
ロイドは14歳の時に、考案したチェスのパズルが雑誌に掲載されました。それ以降チェスを題材にしたパズルやコラムをいくつかの雑誌で担当し、ロイドは著名なチェス問題作者となりました。
1878年には「15パズル」を用いたパズルを考案し、このパズルに1000ドルの懸賞金をかけて発表します。
15パズルとは、1から15までの数字が書かれたタイルを4×4の16マスの格子に配置したものです。1マス分のスペースが空いているので、このスペースを利用してタイルを上下左右に滑らせ、数字の順番を変えて遊べるようになっています。
ロイドが発表したパズルでは最初の配置が14と15が逆、つまり「1、2、3、……、12、13、15、14」となっているものでした。ロイドはこの初期配置からタイルを滑らせていって、14と15の順番だけを入れ替える(「1、2、3、……、12、13、14 、15」)手順を示すことができた最初の者に1000ドルの賞金を与えると宣言しました。
このパズルは大評判となりましたが、ロイドの指定通りに解くことは不可能な問題であったため、ロイドが賞金を支払うことになる心配はありませんでした。
★サミュエル・ロイドに関する雑学
・ロイドの息子は1914年に、父親のパズルを集めた本『パズルの百科事典』( Cyclopedia of Puzzles )を出版しました。
・ロイドはイギリスのパズル作家ヘンリー・アーネスト・デュードニーと親交を深めていましたが、ロイドがデュードニーのパズルを自分のものとして無断で発表するなどしたため、関係は悪化しました。
★備考
Samuel Loyd
生没年:1841年1月31日~1911年4月10日
生まれ:アメリカ、フィラデルフィア
父:不明
母:不明
主な著書:1903年 『タンの8番目の本』(The Eighth Book of Tan)
2015年12月14日月曜日
リヒャルト・デーデキント
ユリウス・ヴィルヘルム・リヒャルト・デーデキント (1831年~1916年)
リヒャルト・デーデキント はドイツの数学者です。代数学、数論の分野で業績を残しました。
■デーデキントの切断
全順序集合Kについて、次の性質を満たす2つの集合A、Bに分けるとします。
1. K = A∪B
2. A∩B = ∅ 、A ≠ ∅、B ≠ ∅
3. a∈A かつ b∈B ⇒ a<b
これらの性質を満たす集合A、Bの対(A、B)を、デーデキントの切断 (Dedekind’s cut)と呼びます。また、Aを下組、Bを上組と呼びます。
★ユリウス・ヴィルヘルム・リヒャルト・デーデキントに関する雑学
・デーデキントは成人してから、名前のうちのはじめの2つは削ったと言われています。
・1981年に、デーデキントの生誕150周年記念として東ドイツで切手が発行されました。この切手には、素イデアル分解を表す式が書かれています。
★備考
Julius Wilhelm Richard Dedekind
生没年:1831年10月6日~1916年2月12日
生まれ:ドイツ、ブラウンシュヴァイク
父:ユリウス・レヴィン・ウルリッヒ・デーデキント(法学教授)
母:不明
兄:法学者
姉:ユリー(小説家)、マチルデ
主な著書:1872年『連続性と無理数』
リヒャルト・デーデキント はドイツの数学者です。代数学、数論の分野で業績を残しました。
■デーデキントの切断
全順序集合Kについて、次の性質を満たす2つの集合A、Bに分けるとします。
1. K = A∪B
2. A∩B = ∅ 、A ≠ ∅、B ≠ ∅
3. a∈A かつ b∈B ⇒ a<b
これらの性質を満たす集合A、Bの対(A、B)を、デーデキントの切断 (Dedekind’s cut)と呼びます。また、Aを下組、Bを上組と呼びます。
★ユリウス・ヴィルヘルム・リヒャルト・デーデキントに関する雑学
・デーデキントは成人してから、名前のうちのはじめの2つは削ったと言われています。
・1981年に、デーデキントの生誕150周年記念として東ドイツで切手が発行されました。この切手には、素イデアル分解を表す式が書かれています。
★備考
Julius Wilhelm Richard Dedekind
生没年:1831年10月6日~1916年2月12日
生まれ:ドイツ、ブラウンシュヴァイク
父:ユリウス・レヴィン・ウルリッヒ・デーデキント(法学教授)
母:不明
兄:法学者
姉:ユリー(小説家)、マチルデ
主な著書:1872年『連続性と無理数』
2015年11月27日金曜日
ベルンハルト・リーマン
ゲオルク・フリードリヒ・ベルンハルト・リーマン(1826年~1866年)
ベルンハルト・リーマンは、ドイツの数学者です。解析学や数論の分野で業績を上げました。
■リーマン予想
18世紀のフランスの数学者アドリアン=マリ・ルジャンドルは、与えられた1つの数よりも小さい素数の個数を求める公式を研究していました。ルジャンドルの公式は完全なものではなく、リーマンはこの問題を解こうとしていました。
1859年に、リーマンはベルリン学士院月報に論文『与えられた数より小さい素数の個数について』を発表します。
ζ(s) = 1 + 1/(2^s) + 1/(3^s) 1/(4^s) 1/(5^s) + ……
( s は複素数、u、v は実数で、 s = u + iv )
このζ(s)は「リーマンのゼータ関数」と呼ばれており、リーマンは「ζ(s) の自明でない零点 s は、全て実部が 1/2 の直線上に存在する」という予想を立てました。これは「リーマン予想」と呼ばれており、現在まで未証明のままとなっています。
クレイ数学研究所は数学上の未解決問題の証明に100万ドルの懸賞金を設けており、これらの問題は「ミレニアム懸賞問題」と呼ばれています。ミレニアム懸賞問題は7つあり、リーマン予想もその1つとして挙げられています。ミレニアム懸賞問題のうちのポアンカレ予想は、グリゴリー・ペレルマンにより解決しています。
★ゲオルク・フリードリヒ・ベルンハルト・リーマンに関する備考
Georg Friedrich Bernhard Riemann
生没年:1826年9月17日~1866年7月20日
生まれ:ハノーファー王国ブレゼレンツ村
父:牧師
母:シャルロッテ・エーベル(宮廷顧問官の娘)
兄:1名
姉妹:マリー、他3名
妻:エリーゼ・コッホ
主な著書等:
1854年6月10日教授資格取得講演『幾何学の基礎にある仮説について』
1857年『アーベル関数の理論』
1859年『与えられた数より小さい素数の個数について』
ベルンハルト・リーマンは、ドイツの数学者です。解析学や数論の分野で業績を上げました。
■リーマン予想
18世紀のフランスの数学者アドリアン=マリ・ルジャンドルは、与えられた1つの数よりも小さい素数の個数を求める公式を研究していました。ルジャンドルの公式は完全なものではなく、リーマンはこの問題を解こうとしていました。
1859年に、リーマンはベルリン学士院月報に論文『与えられた数より小さい素数の個数について』を発表します。
ζ(s) = 1 + 1/(2^s) + 1/(3^s) 1/(4^s) 1/(5^s) + ……
( s は複素数、u、v は実数で、 s = u + iv )
このζ(s)は「リーマンのゼータ関数」と呼ばれており、リーマンは「ζ(s) の自明でない零点 s は、全て実部が 1/2 の直線上に存在する」という予想を立てました。これは「リーマン予想」と呼ばれており、現在まで未証明のままとなっています。
クレイ数学研究所は数学上の未解決問題の証明に100万ドルの懸賞金を設けており、これらの問題は「ミレニアム懸賞問題」と呼ばれています。ミレニアム懸賞問題は7つあり、リーマン予想もその1つとして挙げられています。ミレニアム懸賞問題のうちのポアンカレ予想は、グリゴリー・ペレルマンにより解決しています。
★ゲオルク・フリードリヒ・ベルンハルト・リーマンに関する備考
Georg Friedrich Bernhard Riemann
生没年:1826年9月17日~1866年7月20日
生まれ:ハノーファー王国ブレゼレンツ村
父:牧師
母:シャルロッテ・エーベル(宮廷顧問官の娘)
兄:1名
姉妹:マリー、他3名
妻:エリーゼ・コッホ
主な著書等:
1854年6月10日教授資格取得講演『幾何学の基礎にある仮説について』
1857年『アーベル関数の理論』
1859年『与えられた数より小さい素数の個数について』
2015年11月14日土曜日
レオポルト・クロネッカー
レオポルト・クロネッカー(1823年~1891年)
レオポルト・クロネッカーは、ドイツの数学者です。数論や方程式論の分野などで業績を残しました。
■著名数学者との反目
クロネッカーは、自然数と有限回の演算から得られる数のみが存在するものと考えていました。
このため無理数を扱っていたカール・ワイエルシュトラスや超越数を扱っていたゲオルク・カントールのことを、公然と批判していました。
★備考
Leopold Kronecker
生没年:1823年12月7日~1891年12月29日(68歳、気管支の病気により死亡、ベルリン)
生まれ:ドイツ、リーグニッツ
弟:フーゴー(Karl Hugo Kronecker、1839年1月27日~1914年6月6日、生理学者)
妻:ファニー・プラウスニッツェル(伯父の娘)
子:6人
主な著書・論文:
1845年『複素単数論』(De Unitatibus Complexis)
1858年『一般五次方程式の解法について』
レオポルト・クロネッカーは、ドイツの数学者です。数論や方程式論の分野などで業績を残しました。
■著名数学者との反目
クロネッカーは、自然数と有限回の演算から得られる数のみが存在するものと考えていました。
このため無理数を扱っていたカール・ワイエルシュトラスや超越数を扱っていたゲオルク・カントールのことを、公然と批判していました。
★備考
Leopold Kronecker
生没年:1823年12月7日~1891年12月29日(68歳、気管支の病気により死亡、ベルリン)
生まれ:ドイツ、リーグニッツ
弟:フーゴー(Karl Hugo Kronecker、1839年1月27日~1914年6月6日、生理学者)
妻:ファニー・プラウスニッツェル(伯父の娘)
子:6人
主な著書・論文:
1845年『複素単数論』(De Unitatibus Complexis)
1858年『一般五次方程式の解法について』
2015年11月10日火曜日
フェルディナント・アイゼンシュタイン
フェルディナント・ゴットホルト・マックス・アイゼンシュタイン(1823年~1852年)
フェルディナント・アイゼンシュタインはドイツの数学者です。幼少の頃より数学的な才能を発揮し、ガウスの『整数論研究』の影響から特に整数論に興味を持っていました。
■アイゼンシュタイン整数
アイゼンシュタイン整数とは「a + bω」の形の複素数のことであり、a、bは整数、ωは
ω^2 + ω + 1 = 0 の根の一つです。
アイゼンシュタインは
「整数 n と素数 p に対して、合同式 x^3 ≡ n (mod p) が解を持つのはいかなる場合か」
という3乗剰余の問題の研究において、この「アイゼンシュタイン整数」と呼ばれることになる数を用いました。
★備考
Ferdinand Gotthold Max Eisenstein
生没年:1823年4月16日~1852年10月11日
生まれ:ドイツ、ベルリン
フェルディナント・アイゼンシュタインはドイツの数学者です。幼少の頃より数学的な才能を発揮し、ガウスの『整数論研究』の影響から特に整数論に興味を持っていました。
■アイゼンシュタイン整数
アイゼンシュタイン整数とは「a + bω」の形の複素数のことであり、a、bは整数、ωは
ω^2 + ω + 1 = 0 の根の一つです。
アイゼンシュタインは
「整数 n と素数 p に対して、合同式 x^3 ≡ n (mod p) が解を持つのはいかなる場合か」
という3乗剰余の問題の研究において、この「アイゼンシュタイン整数」と呼ばれることになる数を用いました。
★備考
Ferdinand Gotthold Max Eisenstein
生没年:1823年4月16日~1852年10月11日
生まれ:ドイツ、ベルリン
2015年10月31日土曜日
シャルル・エルミート
シャルル・エルミート(1822年~1901年)
シャルル・エルミートは、フランスの数学者です。5次方程式の楕円関数による解法などで知られています。
■超越数
有理数を係数とする代数方程式の解となるような数を「代数的数」といい、代数的数でない数のことを「超越数」といいます。エルミートは自然対数の底 e が、超越数であることを証明しました。
■5次方程式の解法
ヨハン・カール・フリードリヒ・ガウスによる「代数学の基本定理」によって、任意の複素数係数方程式は複素数の中に根が存在します。しかし5次以上の方程式には一般的な代数的解法は存在しないということが、ニールス・ヘンリック・アーベルによって証明されています。
エルミートは5次方程式について、代数的な方法ではなく楕円関数を用いて解くことに初めて成功しました。
★備考
Charles Hermite
生没年:1822年12月24日~1901年1月14日
生まれ:フランス、ロレーヌ、ディユーズ
父:製塩業者、衣料商人
母:マドレーヌ・ラルマン
主な著書・論文:
1842年『解析幾何学に於ける円錐曲線』
『5次方程式の代数的解法に関する考察』
1858年『一般5次方程式の解法について』
シャルル・エルミートは、フランスの数学者です。5次方程式の楕円関数による解法などで知られています。
■超越数
有理数を係数とする代数方程式の解となるような数を「代数的数」といい、代数的数でない数のことを「超越数」といいます。エルミートは自然対数の底 e が、超越数であることを証明しました。
■5次方程式の解法
ヨハン・カール・フリードリヒ・ガウスによる「代数学の基本定理」によって、任意の複素数係数方程式は複素数の中に根が存在します。しかし5次以上の方程式には一般的な代数的解法は存在しないということが、ニールス・ヘンリック・アーベルによって証明されています。
エルミートは5次方程式について、代数的な方法ではなく楕円関数を用いて解くことに初めて成功しました。
★備考
Charles Hermite
生没年:1822年12月24日~1901年1月14日
生まれ:フランス、ロレーヌ、ディユーズ
父:製塩業者、衣料商人
母:マドレーヌ・ラルマン
主な著書・論文:
1842年『解析幾何学に於ける円錐曲線』
『5次方程式の代数的解法に関する考察』
1858年『一般5次方程式の解法について』
2015年10月14日水曜日
ジョージ・ブール
ジョージ・ブール(1815年~1864年)
ジョージ・ブールは、イギリスの数学者・哲学者です。記号論理学の研究で知られています。
■ブール代数
当時、数学は「数」や「図形」を扱う学問で、「論理」は哲学の分野であると考えられていました。
ブールは論理や推論を数学的に考えられるのではないかという発想を持ち、1844年の論文において「演算」を記号で表し、その記号同士の計算を考えました。更に1854年には著書『思考の法則の研究』の中で、数学的な記号を用いて論理的な結論を導き出す方法を提唱します。この考え方は、今日の「ブール代数」の元となっています。
★備考
George Boole
生没年:1815年11月2日~1864年12月8日
生まれ:イギリス、リンカーンシャー、リンカーン
父:ジョン・ブール(John Boole、靴職人)
母:不明
妻:メアリ・エベレスト(1832年~1916年)
長女:アリー・エレン・ブール(Mary Ellen Boole、1856年~?)
次女:マーガレット
三女:アリシア・ブール・ストット(1860年~1940年、オランダ、フローニンゲン大学名誉博士号)
四女:ルーシー・エベレスト(1862年~1905年)
五女:エセル・リリアン・ブール(Ethel Lilian Boole)
主な著書:
1847年『論理学の数学的分析』(Mathematical Analysis of Logic)
1854年『思考の法則の研究』(An Investigation of Laws of Thoughts)
ジョージ・ブールは、イギリスの数学者・哲学者です。記号論理学の研究で知られています。
■ブール代数
当時、数学は「数」や「図形」を扱う学問で、「論理」は哲学の分野であると考えられていました。
ブールは論理や推論を数学的に考えられるのではないかという発想を持ち、1844年の論文において「演算」を記号で表し、その記号同士の計算を考えました。更に1854年には著書『思考の法則の研究』の中で、数学的な記号を用いて論理的な結論を導き出す方法を提唱します。この考え方は、今日の「ブール代数」の元となっています。
★備考
George Boole
生没年:1815年11月2日~1864年12月8日
生まれ:イギリス、リンカーンシャー、リンカーン
父:ジョン・ブール(John Boole、靴職人)
母:不明
妻:メアリ・エベレスト(1832年~1916年)
長女:アリー・エレン・ブール(Mary Ellen Boole、1856年~?)
次女:マーガレット
三女:アリシア・ブール・ストット(1860年~1940年、オランダ、フローニンゲン大学名誉博士号)
四女:ルーシー・エベレスト(1862年~1905年)
五女:エセル・リリアン・ブール(Ethel Lilian Boole)
主な著書:
1847年『論理学の数学的分析』(Mathematical Analysis of Logic)
1854年『思考の法則の研究』(An Investigation of Laws of Thoughts)
2015年9月27日日曜日
オーガスタ・エイダ・キング
オーガスタ・エイダ・キング(1815年~1852年)
オーガスタ・エイダ・キングは、イギリス貴族の女性で数学の愛好者です。チャールズ・バベッジの解析機関に関する著作でで知られています。
■バベッジの解析機関
エイダの母親には数学の素養があったため、その影響からエイダも数学に興味を持ちます。
1833年にエイダは友人からイギリスの数学者チャールズ・バベッジを紹介され、数学を本格的に学び始めました。バベッジはコンピュータの元となる階差機関や解析機関の研究で知られています。
バベッジは1842年にイタリアを訪問しましたが、その折にイタリア人の数学者であるルイジ・メナブレアに会いました。メナブレアは解析機関に関する記録をフランス語で記し出版し、1843年にはエイダがこれを翻訳しています。
エイダはこの翻訳の際に、本文の量を上回る訳注を記述し、その中にはプログラムのコードも記されていました。このためエイダは「世界初のプログラマー」、「プログラマーの母」等と呼ばれています。
現在ではこの本のプログラムはバベッジが書いたもので、エイダはミスを指摘したものとされています。ただしバベッジが解析期間を計算機としか見ていなかったのに対し、エイダはそれ以上の可能性があることに言及していました。
★オーガスタ・エイダ・キングに関する雑学
プログラミング言語Adaは、エイダにちなんで名づけられました。
★備考
Augusta Ada King
生没年:1815年12月10日~1852年11月27日
父:ジョージ・ゴードン・バイロン(詩人)
母:アナベラ・ミルバンク
夫:ウィリアム・キング男爵(ラブレース伯爵)
娘:アン・ブラント
孫:ジュディス・ブラント
オーガスタ・エイダ・キングは、イギリス貴族の女性で数学の愛好者です。チャールズ・バベッジの解析機関に関する著作でで知られています。
■バベッジの解析機関
エイダの母親には数学の素養があったため、その影響からエイダも数学に興味を持ちます。
1833年にエイダは友人からイギリスの数学者チャールズ・バベッジを紹介され、数学を本格的に学び始めました。バベッジはコンピュータの元となる階差機関や解析機関の研究で知られています。
バベッジは1842年にイタリアを訪問しましたが、その折にイタリア人の数学者であるルイジ・メナブレアに会いました。メナブレアは解析機関に関する記録をフランス語で記し出版し、1843年にはエイダがこれを翻訳しています。
エイダはこの翻訳の際に、本文の量を上回る訳注を記述し、その中にはプログラムのコードも記されていました。このためエイダは「世界初のプログラマー」、「プログラマーの母」等と呼ばれています。
現在ではこの本のプログラムはバベッジが書いたもので、エイダはミスを指摘したものとされています。ただしバベッジが解析期間を計算機としか見ていなかったのに対し、エイダはそれ以上の可能性があることに言及していました。
★オーガスタ・エイダ・キングに関する雑学
プログラミング言語Adaは、エイダにちなんで名づけられました。
★備考
Augusta Ada King
生没年:1815年12月10日~1852年11月27日
父:ジョージ・ゴードン・バイロン(詩人)
母:アナベラ・ミルバンク
夫:ウィリアム・キング男爵(ラブレース伯爵)
娘:アン・ブラント
孫:ジュディス・ブラント
2015年9月10日木曜日
ピエール・ローラン・ヴァンツェル
ピエール・ローラン・ヴァンツェル(1814年~1848年)
ピエール・ローラン・ヴァンツェルは、フランスの数学者です。ギリシア時代からの作図問題を証明したことで知られています。
■三大作図問題
古来からの図形に関する問題で「定規とコンパスのみを用いた有限回の操作で、ある指定された図形を描けるかどうか」というものがあります。
ここで用いる定規は2点を通る直線を引くことのみに用い、長さを図ることはできません。またコンパスは、与えられた中心と半径の円を描くことと、既に作図されている二点間の長さを測ることができます。
多くの図形は定規とコンパスのみで作図可能であることが示されましたが、作図が可能か不可能か分かっていない図形もありました。
・与えられた円と等しい面積をもつ正方形を作ること(円積問題)
・与えられた立方体の体積の2倍に等しい体積をもつ立方体を作ること(立方体倍積問題、「デロス島の災難」の問題)
・与えられた角を三等分すること(角の三等分問題)
これら3つはギリシア時代から解決されていない問題であることから、「ギリシアの三大作図問題」と呼ばれています。
ヴァンツェルは1837年に、立方体倍積問題と角の三等分問題は三次方程式を解かなくてはならないので、定規とコンパスのみでは作図できないことを示しました。
円積問題についてはドイツの数学者であるフェルディナント・フォン・リンデマンが1882年に作図不可能であることを示しています。
★備考
Pierre Laurent Wantzel
生没年:1814年6月5日~1848年5月21日
生まれ:フランス、パリ
ピエール・ローラン・ヴァンツェルは、フランスの数学者です。ギリシア時代からの作図問題を証明したことで知られています。
■三大作図問題
古来からの図形に関する問題で「定規とコンパスのみを用いた有限回の操作で、ある指定された図形を描けるかどうか」というものがあります。
ここで用いる定規は2点を通る直線を引くことのみに用い、長さを図ることはできません。またコンパスは、与えられた中心と半径の円を描くことと、既に作図されている二点間の長さを測ることができます。
多くの図形は定規とコンパスのみで作図可能であることが示されましたが、作図が可能か不可能か分かっていない図形もありました。
・与えられた円と等しい面積をもつ正方形を作ること(円積問題)
・与えられた立方体の体積の2倍に等しい体積をもつ立方体を作ること(立方体倍積問題、「デロス島の災難」の問題)
・与えられた角を三等分すること(角の三等分問題)
これら3つはギリシア時代から解決されていない問題であることから、「ギリシアの三大作図問題」と呼ばれています。
ヴァンツェルは1837年に、立方体倍積問題と角の三等分問題は三次方程式を解かなくてはならないので、定規とコンパスのみでは作図できないことを示しました。
円積問題についてはドイツの数学者であるフェルディナント・フォン・リンデマンが1882年に作図不可能であることを示しています。
★備考
Pierre Laurent Wantzel
生没年:1814年6月5日~1848年5月21日
生まれ:フランス、パリ
2015年8月24日月曜日
エヴァリスト・ガロア
エヴァリスト・ガロア(1811年~1832年)
エヴァリスト・ガロアは、フランスの数学者です。代数方程式の解の構造を調べる等、代数学に多大な貢献を残しました。
■不遇の人生
1823年、12歳でルイ・ル・グラン高等中学校に入学したガロアは語学などの勉強に次第に飽きてしまい、落第してしまいます。その後フランスの有名な数学者アドリアン=マリ・ルジャンドルの幾何学の著作に出会ったことがきっかけで、ガロアは数学に熱中していくことになります。
1828年と1829年の二度、ガロアは理工科学校(エコール・ポリテクニーク)を受験しました。しかし口頭試問でのガロアの回答を理解できなかった試験管に苛立つなどの態度もあり、二度とも受験に失敗してしまいます。
この間ガロアはルイ=ポール=エミール・リシャールという教師に出会い、彼の勧めで論文を執筆します。その論文はフランス科学アカデミーに提出され、オーギュスタン=ルイ・コーシーに審査されるはずでした。しかしコーシーは論文を紛失してしまい、科学アカデミーからは満足な返事が得られませんでした。
その後ガロアは自分の論文に少し手を加え、科学アカデミー主催の賞に応募します。この時のアカデミー事務局長ジョゼフ・フーリエがガロアの論文を持ち帰りますが、不幸にも他界してしまいガロアの論文はまたもや発見されないままとなってしまいました。
1830年、ガロアは高等師範学校(エコール・ノルマル・シュペリオール)を受験、合格します。
当時のフランスは革命のさなかであり、王政派と共和主義派が激しく対立していました。共和主義だったガロアは校長のジョセフ・ダニエル・ギニョーと対立し、ついには放校処分となってしまいます。このエコール・ノルマルではオーギュスト・シュヴァリエという人物と出会い、生涯を通じての親友となります。
学校から離れたガロアは国民軍砲兵隊に入るなど、共和主義の活動に身を入れていきます。何度も投獄されることになりますが、数学の研究も続けていました。
1832年5月、ガロアは恋愛問題によって決闘を申し込まれます。決闘は5月30日の朝に行われることとなり、その前日の夜にガロアはオーギュスト・シュヴァリエに宛てて遺書を書き、その中でこれまでの数学に関する研究成果を書き記しました。
5月30日の早朝、ジャンティーユ地区グラシエールの沼の近くで決闘が行われました。ガロアは腹部を撃たれ、その場に放置され、午前9時30分にコシャン病院に運ばれました。外科医のドニ・ゲルボアが治療に当たりましたが、5月31日午前10時に弟アルフレッドに見守られながらガロアは息を引き取りました。
シュヴァリエが受け取った遺書はアカデミーに提出され、ジョゼフ・リウヴィルはこれを整理して1846年に自身が編集する『純粋・応用数学雑誌』に掲載しました。1897年には『ガロア全集』が刊行されています。
「五次以上の方程式には一般的な代数的解の公式がない」ということはニールス・ヘンリック・アーベルによって証明されていますが、方程式がどのような場合に代数的な解を持つかということは分かっていませんでした。ガロアの理論はこれを明らかにし、数学界での方程式に関する研究は大きく前進することになります。
★エヴァリスト・ガロアに関する雑学
・ルイ・ル・グラン時代のノート
ルイ・ル・グラン時代のガロアの数学教師であったルイ=ポール=エミール・リシャールは、ガロアが授業で使った12冊のノートを保管していました。そのノートは、科学アカデミーの図書館に収められることになります。
・ガロアの墓
ガロアの死後、遺体は共同墓地に埋葬されましたがその墓地は現在では残っていません。
故郷のブール=ラ=レーヌには墓碑と、ガロアの生家を示す飾り板があります。
★備考
Evariste Galois
生没年:1811年10月25日~1832年5月31日
生まれ:フランス、パリ、ブール=ラ=レーヌ
父:ニコラ・ガブリエル・ガロア(公立学校校長後、ブール=ラ=レーヌ町長、1829年7月2日没)
母:アデライド・マリ・ドマント(1872年没、84歳)
姉:ナタリー・テオドール
弟:アルフレッド
エヴァリスト・ガロアは、フランスの数学者です。代数方程式の解の構造を調べる等、代数学に多大な貢献を残しました。
■不遇の人生
1823年、12歳でルイ・ル・グラン高等中学校に入学したガロアは語学などの勉強に次第に飽きてしまい、落第してしまいます。その後フランスの有名な数学者アドリアン=マリ・ルジャンドルの幾何学の著作に出会ったことがきっかけで、ガロアは数学に熱中していくことになります。
1828年と1829年の二度、ガロアは理工科学校(エコール・ポリテクニーク)を受験しました。しかし口頭試問でのガロアの回答を理解できなかった試験管に苛立つなどの態度もあり、二度とも受験に失敗してしまいます。
この間ガロアはルイ=ポール=エミール・リシャールという教師に出会い、彼の勧めで論文を執筆します。その論文はフランス科学アカデミーに提出され、オーギュスタン=ルイ・コーシーに審査されるはずでした。しかしコーシーは論文を紛失してしまい、科学アカデミーからは満足な返事が得られませんでした。
その後ガロアは自分の論文に少し手を加え、科学アカデミー主催の賞に応募します。この時のアカデミー事務局長ジョゼフ・フーリエがガロアの論文を持ち帰りますが、不幸にも他界してしまいガロアの論文はまたもや発見されないままとなってしまいました。
1830年、ガロアは高等師範学校(エコール・ノルマル・シュペリオール)を受験、合格します。
当時のフランスは革命のさなかであり、王政派と共和主義派が激しく対立していました。共和主義だったガロアは校長のジョセフ・ダニエル・ギニョーと対立し、ついには放校処分となってしまいます。このエコール・ノルマルではオーギュスト・シュヴァリエという人物と出会い、生涯を通じての親友となります。
学校から離れたガロアは国民軍砲兵隊に入るなど、共和主義の活動に身を入れていきます。何度も投獄されることになりますが、数学の研究も続けていました。
1832年5月、ガロアは恋愛問題によって決闘を申し込まれます。決闘は5月30日の朝に行われることとなり、その前日の夜にガロアはオーギュスト・シュヴァリエに宛てて遺書を書き、その中でこれまでの数学に関する研究成果を書き記しました。
5月30日の早朝、ジャンティーユ地区グラシエールの沼の近くで決闘が行われました。ガロアは腹部を撃たれ、その場に放置され、午前9時30分にコシャン病院に運ばれました。外科医のドニ・ゲルボアが治療に当たりましたが、5月31日午前10時に弟アルフレッドに見守られながらガロアは息を引き取りました。
シュヴァリエが受け取った遺書はアカデミーに提出され、ジョゼフ・リウヴィルはこれを整理して1846年に自身が編集する『純粋・応用数学雑誌』に掲載しました。1897年には『ガロア全集』が刊行されています。
「五次以上の方程式には一般的な代数的解の公式がない」ということはニールス・ヘンリック・アーベルによって証明されていますが、方程式がどのような場合に代数的な解を持つかということは分かっていませんでした。ガロアの理論はこれを明らかにし、数学界での方程式に関する研究は大きく前進することになります。
★エヴァリスト・ガロアに関する雑学
・ルイ・ル・グラン時代のノート
ルイ・ル・グラン時代のガロアの数学教師であったルイ=ポール=エミール・リシャールは、ガロアが授業で使った12冊のノートを保管していました。そのノートは、科学アカデミーの図書館に収められることになります。
・ガロアの墓
ガロアの死後、遺体は共同墓地に埋葬されましたがその墓地は現在では残っていません。
故郷のブール=ラ=レーヌには墓碑と、ガロアの生家を示す飾り板があります。
★備考
Evariste Galois
生没年:1811年10月25日~1832年5月31日
生まれ:フランス、パリ、ブール=ラ=レーヌ
父:ニコラ・ガブリエル・ガロア(公立学校校長後、ブール=ラ=レーヌ町長、1829年7月2日没)
母:アデライド・マリ・ドマント(1872年没、84歳)
姉:ナタリー・テオドール
弟:アルフレッド
2015年8月9日日曜日
エルンスト・クンマー
エルンスト・エドゥアルト・クンマー(1810年~1893年)
エルンスト・クンマーは、ドイツの数学者です。整数論の発展に大きく貢献しました。
■クンマーの理想数
フランスの数学者であるオーギュスタン・ルイ・コーシーとガブリエル・ラメは、フェルマーの最終定理の証明に取り組んでいました。彼らの証明方法では素因数分解の一意性が重要な意味を持っていましたが、これを知ったクンマーは素因数分解において虚数を含んで考えると一意性がなくなることを指摘しました。
この後クンマーは素因数分解の一意性の問題に取り組み、「理想数」という考えを導入しました。理想数の概念はリヒャルト・デーデキントに受け継がれ、「イデアル」という概念が生まれることになります。
■フェルマーの最終定理
フェルマーの最終定理の証明には、1816年にフランス科学アカデミーによって懸賞金がかけられていました。クンマーはこのフェルマーの最終定理について限定的な場合の証明をしましたが、その功績が認められ1850年に3000フランの金メダルを受賞しました。
フェルマーの最終定理に関しては1850年に再びフランス科学アカデミーが、1908年にはドイツの資本家のパウル・ヴォルフスケールが懸賞金をかけています。1997年にアンドリュー・ワイルズがフェルマーの最終定理を完全に証明し、受賞しました。
★備考
Ernst Eduard Kummer
生没年:1810年1月29日~1893年5月14日
生まれ:ブランデンブルク公国、ゾラウ
父:ゾラウの開業医
エルンスト・クンマーは、ドイツの数学者です。整数論の発展に大きく貢献しました。
■クンマーの理想数
フランスの数学者であるオーギュスタン・ルイ・コーシーとガブリエル・ラメは、フェルマーの最終定理の証明に取り組んでいました。彼らの証明方法では素因数分解の一意性が重要な意味を持っていましたが、これを知ったクンマーは素因数分解において虚数を含んで考えると一意性がなくなることを指摘しました。
この後クンマーは素因数分解の一意性の問題に取り組み、「理想数」という考えを導入しました。理想数の概念はリヒャルト・デーデキントに受け継がれ、「イデアル」という概念が生まれることになります。
■フェルマーの最終定理
フェルマーの最終定理の証明には、1816年にフランス科学アカデミーによって懸賞金がかけられていました。クンマーはこのフェルマーの最終定理について限定的な場合の証明をしましたが、その功績が認められ1850年に3000フランの金メダルを受賞しました。
フェルマーの最終定理に関しては1850年に再びフランス科学アカデミーが、1908年にはドイツの資本家のパウル・ヴォルフスケールが懸賞金をかけています。1997年にアンドリュー・ワイルズがフェルマーの最終定理を完全に証明し、受賞しました。
★備考
Ernst Eduard Kummer
生没年:1810年1月29日~1893年5月14日
生まれ:ブランデンブルク公国、ゾラウ
父:ゾラウの開業医
2015年7月28日火曜日
ヘルマン・ギュンター・グラスマン
ヘルマン・ギュンター・グラスマン(1809年~1877年)
ヘルマン・ギュンター・グラスマンは、ドイツの数学者、物理学者、言語学者です。グラスマン代数で知られています。古代インドの聖典『リグ・ヴェーダ』(Rigveda)の辞典や翻訳においても、偉大な業績を残しています。
■『広延論』
1844年、グラスマンは『広延論』を著しました。しかし内容が先進的すぎたために当時は注目されず、グラスマンの死後にようやく高い評価を受けるようになりました。
またグラスマンは、実数体上のベクトル空間の外積代数を定義しました。この外積代数はグラスマンに因んで、グラスマン代数としても知られています。
★備考
Hermann Gunther Grasmann
生没年:1809年4月15日~1877年9月26日
生まれ:プロイセン王国シュテッティン
父:ユストゥス・ギュンター・グラスマン(シュテッティンギムナジウム教授)
主な著書:1844年『広延論』Ausdehnungslehre
ヘルマン・ギュンター・グラスマンは、ドイツの数学者、物理学者、言語学者です。グラスマン代数で知られています。古代インドの聖典『リグ・ヴェーダ』(Rigveda)の辞典や翻訳においても、偉大な業績を残しています。
■『広延論』
1844年、グラスマンは『広延論』を著しました。しかし内容が先進的すぎたために当時は注目されず、グラスマンの死後にようやく高い評価を受けるようになりました。
またグラスマンは、実数体上のベクトル空間の外積代数を定義しました。この外積代数はグラスマンに因んで、グラスマン代数としても知られています。
★備考
Hermann Gunther Grasmann
生没年:1809年4月15日~1877年9月26日
生まれ:プロイセン王国シュテッティン
父:ユストゥス・ギュンター・グラスマン(シュテッティンギムナジウム教授)
主な著書:1844年『広延論』Ausdehnungslehre
2015年7月12日日曜日
ジョゼフ・リウヴィル
ジョゼフ・リウヴィル(1809年~1882年)
ジョゼフ・リウヴィルは、フランスの物理学者、数学者です。リウヴィルの定理で知られています。
■リウヴィルの定理
リウヴィルの定理には、物理学、解析学、数論の3つの分野に関わるものがあります。
■リウヴィル数
1844年に、リウヴィルは超越数の最初の例を示しました。この数を「リウヴィル数」(Liouville number)といいます。
■ガロアの功績の発見
フランスの数学者エヴァリスト・ガロア(Evariste Galois、1811年10月25日~1832年5月31日)の功績は生前は認められることはありませんでしたが、ガロアの死後に彼の論文の写しが当時の数学者達の一部に送られました。リウヴィルはその写しを入手し価値を見出し、1846年に『純粋・応用数学雑誌』(Journal de mathematique pures et appliquees)にガロアの論文集を掲載しました。このことがきっかけとなって、ガロアの功績が多くの数学者たちに知られることになりました。リウヴィルはガロアが生前認められなかった理由を「簡潔さを求めすぎて分かりにくくなっている」と述べています。
★備考
Joseph Liouville
生没年:1809年3月24日~1882年9月8日
生まれ:パ=ド=カレー県サントメール
エコール・ポリテクニーク教授(フランス、1833年)
ジョゼフ・リウヴィルは、フランスの物理学者、数学者です。リウヴィルの定理で知られています。
■リウヴィルの定理
リウヴィルの定理には、物理学、解析学、数論の3つの分野に関わるものがあります。
■リウヴィル数
1844年に、リウヴィルは超越数の最初の例を示しました。この数を「リウヴィル数」(Liouville number)といいます。
■ガロアの功績の発見
フランスの数学者エヴァリスト・ガロア(Evariste Galois、1811年10月25日~1832年5月31日)の功績は生前は認められることはありませんでしたが、ガロアの死後に彼の論文の写しが当時の数学者達の一部に送られました。リウヴィルはその写しを入手し価値を見出し、1846年に『純粋・応用数学雑誌』(Journal de mathematique pures et appliquees)にガロアの論文集を掲載しました。このことがきっかけとなって、ガロアの功績が多くの数学者たちに知られることになりました。リウヴィルはガロアが生前認められなかった理由を「簡潔さを求めすぎて分かりにくくなっている」と述べています。
★備考
Joseph Liouville
生没年:1809年3月24日~1882年9月8日
生まれ:パ=ド=カレー県サントメール
エコール・ポリテクニーク教授(フランス、1833年)
2015年6月29日月曜日
オーガスタス・ド・モルガン
オーガスタス・ド・モルガン(1806年~1871年)
オーガスタス・ド・モルガンは、イギリスの数学者です。ド・モルガンの法則で知られています。
■ド・モルガンの法則
モルガンは数理論理学、集合論において、論理積、論理和、否定の間に成り立つ関係を示しました。これらの関係は「ド・モルガンの法則」と呼ばれています。
■数学的帰納法
「数学的帰納法」(mathematical induction)という言葉は、1838年にド・モルガンによって命名されました。
★備考
Augustus de Morgan
生没年:1806年6月27日~1871年3月18日
生まれ:インド・マドゥライ
父:ジョン・ド・モルガン、イギリス東インド会社勤務
子:ウィリアム・ド・モルガン(William De Morgan、1839年11月16日~1917年1月15日)、小説家、デザイナー、画家、陶芸家
ユニヴァーシティ・カレッジ教授(ロンドン・1828年)
ロンドン数学会(The London Mathematical Society、略称LMS)初代会長(1865年1月16日)
オーガスタス・ド・モルガンは、イギリスの数学者です。ド・モルガンの法則で知られています。
■ド・モルガンの法則
モルガンは数理論理学、集合論において、論理積、論理和、否定の間に成り立つ関係を示しました。これらの関係は「ド・モルガンの法則」と呼ばれています。
■数学的帰納法
「数学的帰納法」(mathematical induction)という言葉は、1838年にド・モルガンによって命名されました。
★備考
Augustus de Morgan
生没年:1806年6月27日~1871年3月18日
生まれ:インド・マドゥライ
父:ジョン・ド・モルガン、イギリス東インド会社勤務
子:ウィリアム・ド・モルガン(William De Morgan、1839年11月16日~1917年1月15日)、小説家、デザイナー、画家、陶芸家
ユニヴァーシティ・カレッジ教授(ロンドン・1828年)
ロンドン数学会(The London Mathematical Society、略称LMS)初代会長(1865年1月16日)
2015年6月18日木曜日
ウィリアム・ローワン・ハミルトン
ウィリアム・ローワン・ハミルトン(1805年~1865年)
ウィリアム・ローワン・ハミルトンはイギリスの数学者、物理学者です。四元数と呼ばれる高次複素数の発見で知られています。
■四元数の発見
ハミルトンは、複素数を三次以上に一般化しようとしていました。
1843年10月16日の月曜日、ハミルトンがダブリン市内のロイヤル運河沿いを妻とともに歩いていると、四元数の元となる概念が頭の中で閃いたのです。ちょうどブルーム橋のさしかかったところだったので、ハミルトンは四元数の基本公式
i^2 = j^2 = k^2 = ijk = -1
を、ブルーム橋の石に刻みつけました。
ドイツの数学者ヨハン・カール・フリードリヒ・ガウス(1777年~1855年)も1819年にハミルトンに先駆けて四元数を発見していましたが、そのことが公表されたのは1900年になってからのことでした。
★ウィリアム・ローワン・ハミルトンに関する雑学
・ブルーム橋の碑文
初代アイルランド首相・第3代大統領であるエイモン・デ・ヴァレラ(1882年10月14日~1975年8月29日)が、ハミルトンがブルーム橋に四元数の基本公式を刻んだというエピソードを記念して、ブルーム橋に石の碑文を設置しました。
・ウィリアム・ワーズワース
イギリスの代表的なロマン派詩人、ウィリアム・ワーズワース(William Wordsworth、1770年4月7日~1850年4月23日)はハミルトンと親友でした。
★備考
William Rowan Hamilton
生没年:1805年8月4日~1865年9月2日
生まれ:アイルランド首都・ダブリン
父:法律事務所経営
兄弟:9人兄弟の4番目
主な著書:1853『四元数講義』、『四元数の基礎』
ウィリアム・ローワン・ハミルトンはイギリスの数学者、物理学者です。四元数と呼ばれる高次複素数の発見で知られています。
■四元数の発見
ハミルトンは、複素数を三次以上に一般化しようとしていました。
1843年10月16日の月曜日、ハミルトンがダブリン市内のロイヤル運河沿いを妻とともに歩いていると、四元数の元となる概念が頭の中で閃いたのです。ちょうどブルーム橋のさしかかったところだったので、ハミルトンは四元数の基本公式
i^2 = j^2 = k^2 = ijk = -1
を、ブルーム橋の石に刻みつけました。
ドイツの数学者ヨハン・カール・フリードリヒ・ガウス(1777年~1855年)も1819年にハミルトンに先駆けて四元数を発見していましたが、そのことが公表されたのは1900年になってからのことでした。
★ウィリアム・ローワン・ハミルトンに関する雑学
・ブルーム橋の碑文
初代アイルランド首相・第3代大統領であるエイモン・デ・ヴァレラ(1882年10月14日~1975年8月29日)が、ハミルトンがブルーム橋に四元数の基本公式を刻んだというエピソードを記念して、ブルーム橋に石の碑文を設置しました。
・ウィリアム・ワーズワース
イギリスの代表的なロマン派詩人、ウィリアム・ワーズワース(William Wordsworth、1770年4月7日~1850年4月23日)はハミルトンと親友でした。
★備考
William Rowan Hamilton
生没年:1805年8月4日~1865年9月2日
生まれ:アイルランド首都・ダブリン
父:法律事務所経営
兄弟:9人兄弟の4番目
主な著書:1853『四元数講義』、『四元数の基礎』