2015年9月10日木曜日

ピエール・ローラン・ヴァンツェル

ピエール・ローラン・ヴァンツェル(1814年~1848年)

ピエール・ローラン・ヴァンツェルは、フランスの数学者です。ギリシア時代からの作図問題を証明したことで知られています。


■三大作図問題

古来からの図形に関する問題で「定規とコンパスのみを用いた有限回の操作で、ある指定された図形を描けるかどうか」というものがあります。
ここで用いる定規は2点を通る直線を引くことのみに用い、長さを図ることはできません。またコンパスは、与えられた中心と半径の円を描くことと、既に作図されている二点間の長さを測ることができます。

多くの図形は定規とコンパスのみで作図可能であることが示されましたが、作図が可能か不可能か分かっていない図形もありました。

・与えられた円と等しい面積をもつ正方形を作ること(円積問題)
・与えられた立方体の体積の2倍に等しい体積をもつ立方体を作ること(立方体倍積問題、「デロス島の災難」の問題)
・与えられた角を三等分すること(角の三等分問題)

これら3つはギリシア時代から解決されていない問題であることから、「ギリシアの三大作図問題」と呼ばれています。
ヴァンツェルは1837年に、立方体倍積問題と角の三等分問題は三次方程式を解かなくてはならないので、定規とコンパスのみでは作図できないことを示しました。
円積問題についてはドイツの数学者であるフェルディナント・フォン・リンデマンが1882年に作図不可能であることを示しています。


★備考

Pierre Laurent Wantzel
生没年:1814年6月5日~1848年5月21日
生まれ:フランス、パリ

2015年8月24日月曜日

エヴァリスト・ガロア

エヴァリスト・ガロア(1811年~1832年)

エヴァリスト・ガロアは、フランスの数学者です。代数方程式の解の構造を調べる等、代数学に多大な貢献を残しました。


■不遇の人生

1823年、12歳でルイ・ル・グラン高等中学校に入学したガロアは語学などの勉強に次第に飽きてしまい、落第してしまいます。その後フランスの有名な数学者アドリアン=マリ・ルジャンドルの幾何学の著作に出会ったことがきっかけで、ガロアは数学に熱中していくことになります。

1828年と1829年の二度、ガロアは理工科学校(エコール・ポリテクニーク)を受験しました。しかし口頭試問でのガロアの回答を理解できなかった試験管に苛立つなどの態度もあり、二度とも受験に失敗してしまいます。
この間ガロアはルイ=ポール=エミール・リシャールという教師に出会い、彼の勧めで論文を執筆します。その論文はフランス科学アカデミーに提出され、オーギュスタン=ルイ・コーシーに審査されるはずでした。しかしコーシーは論文を紛失してしまい、科学アカデミーからは満足な返事が得られませんでした。
その後ガロアは自分の論文に少し手を加え、科学アカデミー主催の賞に応募します。この時のアカデミー事務局長ジョゼフ・フーリエがガロアの論文を持ち帰りますが、不幸にも他界してしまいガロアの論文はまたもや発見されないままとなってしまいました。

1830年、ガロアは高等師範学校(エコール・ノルマル・シュペリオール)を受験、合格します。
当時のフランスは革命のさなかであり、王政派と共和主義派が激しく対立していました。共和主義だったガロアは校長のジョセフ・ダニエル・ギニョーと対立し、ついには放校処分となってしまいます。このエコール・ノルマルではオーギュスト・シュヴァリエという人物と出会い、生涯を通じての親友となります。
学校から離れたガロアは国民軍砲兵隊に入るなど、共和主義の活動に身を入れていきます。何度も投獄されることになりますが、数学の研究も続けていました。

1832年5月、ガロアは恋愛問題によって決闘を申し込まれます。決闘は5月30日の朝に行われることとなり、その前日の夜にガロアはオーギュスト・シュヴァリエに宛てて遺書を書き、その中でこれまでの数学に関する研究成果を書き記しました。
5月30日の早朝、ジャンティーユ地区グラシエールの沼の近くで決闘が行われました。ガロアは腹部を撃たれ、その場に放置され、午前9時30分にコシャン病院に運ばれました。外科医のドニ・ゲルボアが治療に当たりましたが、5月31日午前10時に弟アルフレッドに見守られながらガロアは息を引き取りました。

シュヴァリエが受け取った遺書はアカデミーに提出され、ジョゼフ・リウヴィルはこれを整理して1846年に自身が編集する『純粋・応用数学雑誌』に掲載しました。1897年には『ガロア全集』が刊行されています。

「五次以上の方程式には一般的な代数的解の公式がない」ということはニールス・ヘンリック・アーベルによって証明されていますが、方程式がどのような場合に代数的な解を持つかということは分かっていませんでした。ガロアの理論はこれを明らかにし、数学界での方程式に関する研究は大きく前進することになります。


★エヴァリスト・ガロアに関する雑学

・ルイ・ル・グラン時代のノート

ルイ・ル・グラン時代のガロアの数学教師であったルイ=ポール=エミール・リシャールは、ガロアが授業で使った12冊のノートを保管していました。そのノートは、科学アカデミーの図書館に収められることになります。

・ガロアの墓

ガロアの死後、遺体は共同墓地に埋葬されましたがその墓地は現在では残っていません。
故郷のブール=ラ=レーヌには墓碑と、ガロアの生家を示す飾り板があります。


★備考

Evariste Galois
生没年:1811年10月25日~1832年5月31日
生まれ:フランス、パリ、ブール=ラ=レーヌ
父:ニコラ・ガブリエル・ガロア(公立学校校長後、ブール=ラ=レーヌ町長、1829年7月2日没)
母:アデライド・マリ・ドマント(1872年没、84歳)
姉:ナタリー・テオドール
弟:アルフレッド

2015年8月9日日曜日

エルンスト・クンマー

エルンスト・エドゥアルト・クンマー(1810年~1893年)

エルンスト・クンマーは、ドイツの数学者です。整数論の発展に大きく貢献しました。


■クンマーの理想数

フランスの数学者であるオーギュスタン・ルイ・コーシーとガブリエル・ラメは、フェルマーの最終定理の証明に取り組んでいました。彼らの証明方法では素因数分解の一意性が重要な意味を持っていましたが、これを知ったクンマーは素因数分解において虚数を含んで考えると一意性がなくなることを指摘しました。
この後クンマーは素因数分解の一意性の問題に取り組み、「理想数」という考えを導入しました。理想数の概念はリヒャルト・デーデキントに受け継がれ、「イデアル」という概念が生まれることになります。


■フェルマーの最終定理

フェルマーの最終定理の証明には、1816年にフランス科学アカデミーによって懸賞金がかけられていました。クンマーはこのフェルマーの最終定理について限定的な場合の証明をしましたが、その功績が認められ1850年に3000フランの金メダルを受賞しました。
フェルマーの最終定理に関しては1850年に再びフランス科学アカデミーが、1908年にはドイツの資本家のパウル・ヴォルフスケールが懸賞金をかけています。1997年にアンドリュー・ワイルズがフェルマーの最終定理を完全に証明し、受賞しました。


★備考

Ernst Eduard Kummer
生没年:1810年1月29日~1893年5月14日
生まれ:ブランデンブルク公国、ゾラウ
父:ゾラウの開業医

2015年7月28日火曜日

ヘルマン・ギュンター・グラスマン

ヘルマン・ギュンター・グラスマン(1809年~1877年)

ヘルマン・ギュンター・グラスマンは、ドイツの数学者、物理学者、言語学者です。グラスマン代数で知られています。古代インドの聖典『リグ・ヴェーダ』(Rigveda)の辞典や翻訳においても、偉大な業績を残しています。


■『広延論』

1844年、グラスマンは『広延論』を著しました。しかし内容が先進的すぎたために当時は注目されず、グラスマンの死後にようやく高い評価を受けるようになりました。
またグラスマンは、実数体上のベクトル空間の外積代数を定義しました。この外積代数はグラスマンに因んで、グラスマン代数としても知られています。


★備考

Hermann Gunther Grasmann
生没年:1809年4月15日~1877年9月26日
生まれ:プロイセン王国シュテッティン
父:ユストゥス・ギュンター・グラスマン(シュテッティンギムナジウム教授)
主な著書:1844年『広延論』Ausdehnungslehre


2015年7月12日日曜日

ジョゼフ・リウヴィル

ジョゼフ・リウヴィル(1809年~1882年)

ジョゼフ・リウヴィルは、フランスの物理学者、数学者です。リウヴィルの定理で知られています。


■リウヴィルの定理

リウヴィルの定理には、物理学、解析学、数論の3つの分野に関わるものがあります。


■リウヴィル数

1844年に、リウヴィルは超越数の最初の例を示しました。この数を「リウヴィル数」(Liouville number)といいます。


■ガロアの功績の発見

フランスの数学者エヴァリスト・ガロア(Evariste Galois、1811年10月25日~1832年5月31日)の功績は生前は認められることはありませんでしたが、ガロアの死後に彼の論文の写しが当時の数学者達の一部に送られました。リウヴィルはその写しを入手し価値を見出し、1846年に『純粋・応用数学雑誌』(Journal de mathematique pures et appliquees)にガロアの論文集を掲載しました。このことがきっかけとなって、ガロアの功績が多くの数学者たちに知られることになりました。リウヴィルはガロアが生前認められなかった理由を「簡潔さを求めすぎて分かりにくくなっている」と述べています。


★備考

Joseph Liouville
生没年:1809年3月24日~1882年9月8日
生まれ:パ=ド=カレー県サントメール

エコール・ポリテクニーク教授(フランス、1833年)