シャルル・エルミート(1822年~1901年)
シャルル・エルミートは、フランスの数学者です。5次方程式の楕円関数による解法などで知られています。
■超越数
有理数を係数とする代数方程式の解となるような数を「代数的数」といい、代数的数でない数のことを「超越数」といいます。エルミートは自然対数の底 e が、超越数であることを証明しました。
■5次方程式の解法
ヨハン・カール・フリードリヒ・ガウスによる「代数学の基本定理」によって、任意の複素数係数方程式は複素数の中に根が存在します。しかし5次以上の方程式には一般的な代数的解法は存在しないということが、ニールス・ヘンリック・アーベルによって証明されています。
エルミートは5次方程式について、代数的な方法ではなく楕円関数を用いて解くことに初めて成功しました。
★備考
Charles Hermite
生没年:1822年12月24日~1901年1月14日
生まれ:フランス、ロレーヌ、ディユーズ
父:製塩業者、衣料商人
母:マドレーヌ・ラルマン
主な著書・論文:
1842年『解析幾何学に於ける円錐曲線』
『5次方程式の代数的解法に関する考察』
1858年『一般5次方程式の解法について』
2015年10月31日土曜日
2015年10月14日水曜日
ジョージ・ブール
ジョージ・ブール(1815年~1864年)
ジョージ・ブールは、イギリスの数学者・哲学者です。記号論理学の研究で知られています。
■ブール代数
当時、数学は「数」や「図形」を扱う学問で、「論理」は哲学の分野であると考えられていました。
ブールは論理や推論を数学的に考えられるのではないかという発想を持ち、1844年の論文において「演算」を記号で表し、その記号同士の計算を考えました。更に1854年には著書『思考の法則の研究』の中で、数学的な記号を用いて論理的な結論を導き出す方法を提唱します。この考え方は、今日の「ブール代数」の元となっています。
★備考
George Boole
生没年:1815年11月2日~1864年12月8日
生まれ:イギリス、リンカーンシャー、リンカーン
父:ジョン・ブール(John Boole、靴職人)
母:不明
妻:メアリ・エベレスト(1832年~1916年)
長女:アリー・エレン・ブール(Mary Ellen Boole、1856年~?)
次女:マーガレット
三女:アリシア・ブール・ストット(1860年~1940年、オランダ、フローニンゲン大学名誉博士号)
四女:ルーシー・エベレスト(1862年~1905年)
五女:エセル・リリアン・ブール(Ethel Lilian Boole)
主な著書:
1847年『論理学の数学的分析』(Mathematical Analysis of Logic)
1854年『思考の法則の研究』(An Investigation of Laws of Thoughts)
ジョージ・ブールは、イギリスの数学者・哲学者です。記号論理学の研究で知られています。
■ブール代数
当時、数学は「数」や「図形」を扱う学問で、「論理」は哲学の分野であると考えられていました。
ブールは論理や推論を数学的に考えられるのではないかという発想を持ち、1844年の論文において「演算」を記号で表し、その記号同士の計算を考えました。更に1854年には著書『思考の法則の研究』の中で、数学的な記号を用いて論理的な結論を導き出す方法を提唱します。この考え方は、今日の「ブール代数」の元となっています。
★備考
George Boole
生没年:1815年11月2日~1864年12月8日
生まれ:イギリス、リンカーンシャー、リンカーン
父:ジョン・ブール(John Boole、靴職人)
母:不明
妻:メアリ・エベレスト(1832年~1916年)
長女:アリー・エレン・ブール(Mary Ellen Boole、1856年~?)
次女:マーガレット
三女:アリシア・ブール・ストット(1860年~1940年、オランダ、フローニンゲン大学名誉博士号)
四女:ルーシー・エベレスト(1862年~1905年)
五女:エセル・リリアン・ブール(Ethel Lilian Boole)
主な著書:
1847年『論理学の数学的分析』(Mathematical Analysis of Logic)
1854年『思考の法則の研究』(An Investigation of Laws of Thoughts)
2015年9月27日日曜日
オーガスタ・エイダ・キング
オーガスタ・エイダ・キング(1815年~1852年)
オーガスタ・エイダ・キングは、イギリス貴族の女性で数学の愛好者です。チャールズ・バベッジの解析機関に関する著作でで知られています。
■バベッジの解析機関
エイダの母親には数学の素養があったため、その影響からエイダも数学に興味を持ちます。
1833年にエイダは友人からイギリスの数学者チャールズ・バベッジを紹介され、数学を本格的に学び始めました。バベッジはコンピュータの元となる階差機関や解析機関の研究で知られています。
バベッジは1842年にイタリアを訪問しましたが、その折にイタリア人の数学者であるルイジ・メナブレアに会いました。メナブレアは解析機関に関する記録をフランス語で記し出版し、1843年にはエイダがこれを翻訳しています。
エイダはこの翻訳の際に、本文の量を上回る訳注を記述し、その中にはプログラムのコードも記されていました。このためエイダは「世界初のプログラマー」、「プログラマーの母」等と呼ばれています。
現在ではこの本のプログラムはバベッジが書いたもので、エイダはミスを指摘したものとされています。ただしバベッジが解析期間を計算機としか見ていなかったのに対し、エイダはそれ以上の可能性があることに言及していました。
★オーガスタ・エイダ・キングに関する雑学
プログラミング言語Adaは、エイダにちなんで名づけられました。
★備考
Augusta Ada King
生没年:1815年12月10日~1852年11月27日
父:ジョージ・ゴードン・バイロン(詩人)
母:アナベラ・ミルバンク
夫:ウィリアム・キング男爵(ラブレース伯爵)
娘:アン・ブラント
孫:ジュディス・ブラント
オーガスタ・エイダ・キングは、イギリス貴族の女性で数学の愛好者です。チャールズ・バベッジの解析機関に関する著作でで知られています。
■バベッジの解析機関
エイダの母親には数学の素養があったため、その影響からエイダも数学に興味を持ちます。
1833年にエイダは友人からイギリスの数学者チャールズ・バベッジを紹介され、数学を本格的に学び始めました。バベッジはコンピュータの元となる階差機関や解析機関の研究で知られています。
バベッジは1842年にイタリアを訪問しましたが、その折にイタリア人の数学者であるルイジ・メナブレアに会いました。メナブレアは解析機関に関する記録をフランス語で記し出版し、1843年にはエイダがこれを翻訳しています。
エイダはこの翻訳の際に、本文の量を上回る訳注を記述し、その中にはプログラムのコードも記されていました。このためエイダは「世界初のプログラマー」、「プログラマーの母」等と呼ばれています。
現在ではこの本のプログラムはバベッジが書いたもので、エイダはミスを指摘したものとされています。ただしバベッジが解析期間を計算機としか見ていなかったのに対し、エイダはそれ以上の可能性があることに言及していました。
★オーガスタ・エイダ・キングに関する雑学
プログラミング言語Adaは、エイダにちなんで名づけられました。
★備考
Augusta Ada King
生没年:1815年12月10日~1852年11月27日
父:ジョージ・ゴードン・バイロン(詩人)
母:アナベラ・ミルバンク
夫:ウィリアム・キング男爵(ラブレース伯爵)
娘:アン・ブラント
孫:ジュディス・ブラント
2015年9月10日木曜日
ピエール・ローラン・ヴァンツェル
ピエール・ローラン・ヴァンツェル(1814年~1848年)
ピエール・ローラン・ヴァンツェルは、フランスの数学者です。ギリシア時代からの作図問題を証明したことで知られています。
■三大作図問題
古来からの図形に関する問題で「定規とコンパスのみを用いた有限回の操作で、ある指定された図形を描けるかどうか」というものがあります。
ここで用いる定規は2点を通る直線を引くことのみに用い、長さを図ることはできません。またコンパスは、与えられた中心と半径の円を描くことと、既に作図されている二点間の長さを測ることができます。
多くの図形は定規とコンパスのみで作図可能であることが示されましたが、作図が可能か不可能か分かっていない図形もありました。
・与えられた円と等しい面積をもつ正方形を作ること(円積問題)
・与えられた立方体の体積の2倍に等しい体積をもつ立方体を作ること(立方体倍積問題、「デロス島の災難」の問題)
・与えられた角を三等分すること(角の三等分問題)
これら3つはギリシア時代から解決されていない問題であることから、「ギリシアの三大作図問題」と呼ばれています。
ヴァンツェルは1837年に、立方体倍積問題と角の三等分問題は三次方程式を解かなくてはならないので、定規とコンパスのみでは作図できないことを示しました。
円積問題についてはドイツの数学者であるフェルディナント・フォン・リンデマンが1882年に作図不可能であることを示しています。
★備考
Pierre Laurent Wantzel
生没年:1814年6月5日~1848年5月21日
生まれ:フランス、パリ
ピエール・ローラン・ヴァンツェルは、フランスの数学者です。ギリシア時代からの作図問題を証明したことで知られています。
■三大作図問題
古来からの図形に関する問題で「定規とコンパスのみを用いた有限回の操作で、ある指定された図形を描けるかどうか」というものがあります。
ここで用いる定規は2点を通る直線を引くことのみに用い、長さを図ることはできません。またコンパスは、与えられた中心と半径の円を描くことと、既に作図されている二点間の長さを測ることができます。
多くの図形は定規とコンパスのみで作図可能であることが示されましたが、作図が可能か不可能か分かっていない図形もありました。
・与えられた円と等しい面積をもつ正方形を作ること(円積問題)
・与えられた立方体の体積の2倍に等しい体積をもつ立方体を作ること(立方体倍積問題、「デロス島の災難」の問題)
・与えられた角を三等分すること(角の三等分問題)
これら3つはギリシア時代から解決されていない問題であることから、「ギリシアの三大作図問題」と呼ばれています。
ヴァンツェルは1837年に、立方体倍積問題と角の三等分問題は三次方程式を解かなくてはならないので、定規とコンパスのみでは作図できないことを示しました。
円積問題についてはドイツの数学者であるフェルディナント・フォン・リンデマンが1882年に作図不可能であることを示しています。
★備考
Pierre Laurent Wantzel
生没年:1814年6月5日~1848年5月21日
生まれ:フランス、パリ
2015年8月24日月曜日
エヴァリスト・ガロア
エヴァリスト・ガロア(1811年~1832年)
エヴァリスト・ガロアは、フランスの数学者です。代数方程式の解の構造を調べる等、代数学に多大な貢献を残しました。
■不遇の人生
1823年、12歳でルイ・ル・グラン高等中学校に入学したガロアは語学などの勉強に次第に飽きてしまい、落第してしまいます。その後フランスの有名な数学者アドリアン=マリ・ルジャンドルの幾何学の著作に出会ったことがきっかけで、ガロアは数学に熱中していくことになります。
1828年と1829年の二度、ガロアは理工科学校(エコール・ポリテクニーク)を受験しました。しかし口頭試問でのガロアの回答を理解できなかった試験管に苛立つなどの態度もあり、二度とも受験に失敗してしまいます。
この間ガロアはルイ=ポール=エミール・リシャールという教師に出会い、彼の勧めで論文を執筆します。その論文はフランス科学アカデミーに提出され、オーギュスタン=ルイ・コーシーに審査されるはずでした。しかしコーシーは論文を紛失してしまい、科学アカデミーからは満足な返事が得られませんでした。
その後ガロアは自分の論文に少し手を加え、科学アカデミー主催の賞に応募します。この時のアカデミー事務局長ジョゼフ・フーリエがガロアの論文を持ち帰りますが、不幸にも他界してしまいガロアの論文はまたもや発見されないままとなってしまいました。
1830年、ガロアは高等師範学校(エコール・ノルマル・シュペリオール)を受験、合格します。
当時のフランスは革命のさなかであり、王政派と共和主義派が激しく対立していました。共和主義だったガロアは校長のジョセフ・ダニエル・ギニョーと対立し、ついには放校処分となってしまいます。このエコール・ノルマルではオーギュスト・シュヴァリエという人物と出会い、生涯を通じての親友となります。
学校から離れたガロアは国民軍砲兵隊に入るなど、共和主義の活動に身を入れていきます。何度も投獄されることになりますが、数学の研究も続けていました。
1832年5月、ガロアは恋愛問題によって決闘を申し込まれます。決闘は5月30日の朝に行われることとなり、その前日の夜にガロアはオーギュスト・シュヴァリエに宛てて遺書を書き、その中でこれまでの数学に関する研究成果を書き記しました。
5月30日の早朝、ジャンティーユ地区グラシエールの沼の近くで決闘が行われました。ガロアは腹部を撃たれ、その場に放置され、午前9時30分にコシャン病院に運ばれました。外科医のドニ・ゲルボアが治療に当たりましたが、5月31日午前10時に弟アルフレッドに見守られながらガロアは息を引き取りました。
シュヴァリエが受け取った遺書はアカデミーに提出され、ジョゼフ・リウヴィルはこれを整理して1846年に自身が編集する『純粋・応用数学雑誌』に掲載しました。1897年には『ガロア全集』が刊行されています。
「五次以上の方程式には一般的な代数的解の公式がない」ということはニールス・ヘンリック・アーベルによって証明されていますが、方程式がどのような場合に代数的な解を持つかということは分かっていませんでした。ガロアの理論はこれを明らかにし、数学界での方程式に関する研究は大きく前進することになります。
★エヴァリスト・ガロアに関する雑学
・ルイ・ル・グラン時代のノート
ルイ・ル・グラン時代のガロアの数学教師であったルイ=ポール=エミール・リシャールは、ガロアが授業で使った12冊のノートを保管していました。そのノートは、科学アカデミーの図書館に収められることになります。
・ガロアの墓
ガロアの死後、遺体は共同墓地に埋葬されましたがその墓地は現在では残っていません。
故郷のブール=ラ=レーヌには墓碑と、ガロアの生家を示す飾り板があります。
★備考
Evariste Galois
生没年:1811年10月25日~1832年5月31日
生まれ:フランス、パリ、ブール=ラ=レーヌ
父:ニコラ・ガブリエル・ガロア(公立学校校長後、ブール=ラ=レーヌ町長、1829年7月2日没)
母:アデライド・マリ・ドマント(1872年没、84歳)
姉:ナタリー・テオドール
弟:アルフレッド
エヴァリスト・ガロアは、フランスの数学者です。代数方程式の解の構造を調べる等、代数学に多大な貢献を残しました。
■不遇の人生
1823年、12歳でルイ・ル・グラン高等中学校に入学したガロアは語学などの勉強に次第に飽きてしまい、落第してしまいます。その後フランスの有名な数学者アドリアン=マリ・ルジャンドルの幾何学の著作に出会ったことがきっかけで、ガロアは数学に熱中していくことになります。
1828年と1829年の二度、ガロアは理工科学校(エコール・ポリテクニーク)を受験しました。しかし口頭試問でのガロアの回答を理解できなかった試験管に苛立つなどの態度もあり、二度とも受験に失敗してしまいます。
この間ガロアはルイ=ポール=エミール・リシャールという教師に出会い、彼の勧めで論文を執筆します。その論文はフランス科学アカデミーに提出され、オーギュスタン=ルイ・コーシーに審査されるはずでした。しかしコーシーは論文を紛失してしまい、科学アカデミーからは満足な返事が得られませんでした。
その後ガロアは自分の論文に少し手を加え、科学アカデミー主催の賞に応募します。この時のアカデミー事務局長ジョゼフ・フーリエがガロアの論文を持ち帰りますが、不幸にも他界してしまいガロアの論文はまたもや発見されないままとなってしまいました。
1830年、ガロアは高等師範学校(エコール・ノルマル・シュペリオール)を受験、合格します。
当時のフランスは革命のさなかであり、王政派と共和主義派が激しく対立していました。共和主義だったガロアは校長のジョセフ・ダニエル・ギニョーと対立し、ついには放校処分となってしまいます。このエコール・ノルマルではオーギュスト・シュヴァリエという人物と出会い、生涯を通じての親友となります。
学校から離れたガロアは国民軍砲兵隊に入るなど、共和主義の活動に身を入れていきます。何度も投獄されることになりますが、数学の研究も続けていました。
1832年5月、ガロアは恋愛問題によって決闘を申し込まれます。決闘は5月30日の朝に行われることとなり、その前日の夜にガロアはオーギュスト・シュヴァリエに宛てて遺書を書き、その中でこれまでの数学に関する研究成果を書き記しました。
5月30日の早朝、ジャンティーユ地区グラシエールの沼の近くで決闘が行われました。ガロアは腹部を撃たれ、その場に放置され、午前9時30分にコシャン病院に運ばれました。外科医のドニ・ゲルボアが治療に当たりましたが、5月31日午前10時に弟アルフレッドに見守られながらガロアは息を引き取りました。
シュヴァリエが受け取った遺書はアカデミーに提出され、ジョゼフ・リウヴィルはこれを整理して1846年に自身が編集する『純粋・応用数学雑誌』に掲載しました。1897年には『ガロア全集』が刊行されています。
「五次以上の方程式には一般的な代数的解の公式がない」ということはニールス・ヘンリック・アーベルによって証明されていますが、方程式がどのような場合に代数的な解を持つかということは分かっていませんでした。ガロアの理論はこれを明らかにし、数学界での方程式に関する研究は大きく前進することになります。
★エヴァリスト・ガロアに関する雑学
・ルイ・ル・グラン時代のノート
ルイ・ル・グラン時代のガロアの数学教師であったルイ=ポール=エミール・リシャールは、ガロアが授業で使った12冊のノートを保管していました。そのノートは、科学アカデミーの図書館に収められることになります。
・ガロアの墓
ガロアの死後、遺体は共同墓地に埋葬されましたがその墓地は現在では残っていません。
故郷のブール=ラ=レーヌには墓碑と、ガロアの生家を示す飾り板があります。
★備考
Evariste Galois
生没年:1811年10月25日~1832年5月31日
生まれ:フランス、パリ、ブール=ラ=レーヌ
父:ニコラ・ガブリエル・ガロア(公立学校校長後、ブール=ラ=レーヌ町長、1829年7月2日没)
母:アデライド・マリ・ドマント(1872年没、84歳)
姉:ナタリー・テオドール
弟:アルフレッド